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2024/3/24 ルカの福音書23節32〜43節「他人は救った」

今週は世界中の多くの教会が、主イエス・キリストの十字架を思って礼拝をする「受難週」。約二千年前のちょうどこの時期の「過越の祭り」で、キリストは十字架につけられて死に、三日目の週の最初の日の朝、よみがえったのです。今年はルカの福音書の記事から、十字架と復活との言葉を聞きます。33節の真ん中に「…彼らはイエスを十字架につけた。…」と記されています。あっさり記されていますが、十字架は、人を生きたまま木に釘で磔にする、想像を絶する苦しみの刑です。人間がここまで人間に残酷になれるのか、と思うような拷問です。ここにはイエスがどんな風に十字架につけられ、どんなに苦しんだか、という描き方はされていません。十字架刑は少なからずローマ帝国で実行され、目にされましたから、新約聖書の最初の読者たちには、その詳しい描写を説明するまでもなかった、ということもあるでしょう。いずれにせよ、聖書が代わりに描くのは、このルカのように、その十字架の激痛と辱めの中で、

34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

こう言ったという姿です。この「彼ら」とは、その時

イエスの衣を分けるために、くじを引いた。

イエスを十字架にかけて後、早々とその服をくじ引きして分け合う兵士たちです。あるいは、民衆や議員でしょう。彼らは、

…あざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」

また

37…おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」

隣で十字架刑にされている犯罪者の一人さえ、

39…自分とおれたちを救え」

と言います。人の目にはイエスは自分を救えない無力で惨めな負け犬でした。しかし、イエスが十字架の苦しみ・辱めにまで卑しくなったのは、他人を救うためでした。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」

との祈りは、イエスがこの人々をも「他人」と言って切り捨てなかった証しです。迷った生き方から立ち戻らせるため、イエスは十字架で自分を救わず、私たちを救ったのです。

ルカの福音書の19章10節には、イエスが来た目的がこう明言されます。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」

[i]。自分が何をしているのか、分かっているつもりで分かっていない。自己中心で墓穴を掘るような愚かな行動もしてしまいますし、反対に、これこそ正義だ、神の御心だと疑わずに、暴力や無情な行動をとってしまう。その典型が十字架の発明であり、そこに着けられたイエスを嘲る人間の姿です。それは人間が「失われた」状態、神を深く信頼する関係を失い、自分でも自分を見失っている悲劇的な状態です。だからこそイエスが

失われた人を救うために来

十字架の上でも、父なる神に赦しの祈りを捧げて、とりなしを祈りました。その祈りが実を結んだかのように、隣の十字架の犯罪人が言うのです。

39節以降、イエスの両脇の犯罪人の片方がイエスを罵るのを、もう片方が「たしなめ」ます。自分たちはこの十字架刑が「自分のしたことの報い」「当たり前だ」、しかしイエスは「悪いことを何もしていない。」と思うに至っています。そして、今更取り返しのつかない中、せめて

 「42…イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

という心底の願いを言葉にするのです。隣の犯罪人がイエスを罵り、議員や兵士が嘲笑い、民衆が黙って見ている中、この犯罪人が十字架の苦悶の中でこんな台詞を口にしたのです。それは何よりも隣にいるイエスの苦しみがあったからです。まるで、イエスはこの人の隣に来るために十字架にあげられた、とさえ言えます。そして、自分の隣で苦しむイエスの存在は、不思議にも彼の心を開いて、自分の間違いに気づき、心の奥底の願いを吐露させたのです。その言葉をイエスは「遅すぎる」とは言わず、受け止めて応えます。

43…あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。[ii]」。

この犯罪人の最期の最後の瞬間に、幸福な場所を約束しました。

イエスが

「父よ、彼らをお赦しください。」

と祈った赦しとは、ただ彼らを罰しない、責任を問わない、という事ではなく、悪を大目にみる、不問に付す、水に流すことでもありません。自分の過ちやした悪を心から認めて、そのような生き方から変えられることです。罪の赦しを「負債の清算(借金の解決)」とも聖書は表現します。借金を棒引きにするだけでなく、負債でこじれた関係を修復して、借金を重ねて自分の首を絞める生き方そのものから更生させて、残っている問題がないようにする。それが赦しです。そのために、イエスは来て、十字架にかかって、罪の赦しを祈って、父なる神と、すべての人との間の執り成しとなったのです。

しかし、十字架そのものは神の正義を表すものではありません。むしろ、神の正義とは全く違う、人間の身勝手な正義、「処罰」の名の下に人間が同じ人間をここまで残酷に扱えるかを見せしめるような、暴力と恐怖の道具です。イエスの十字架も、十字架刑にされたこと自体が、私たちのためだったのではありません。44節からの後半こそ、イエスの十字架の本領でした。

44さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。

この全地が暗くなった、のは旧約聖書にたびたび出てくる、神の最終的な裁きの描写です[iii]。それは、誰も経験したことがない、誰も想像することが出来ない状態です。だからここにこの三時間のことは詳しくは書かれません。書けないのです。神の聖なる怒り、罪に対する終末的なさばきが現されました。それがどんなに恐ろしく、悲しく、不安であるか、私たちには分かりません。そして、それを私たちが分かることはこれからもありません。なぜなら、イエスがこの十字架の上で、私たちの代わりに終末的な苦しみを受けてくださったからです。

ルカの次の24章では

「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから栄光に入る」

と昔から預言されていたことが繰り返されます。同じルカが記す続編の「使徒の働き」でも、使徒や弟子たちの宣教は、イエスの苦難と復活を繰り返しました。

「キリストは必ず苦しみを受けなければならない」

と聖書が語っていて、その通りイエスは苦しみを受け、十字架で死に、そして復活した。この方こそキリスト(メシア)だと語り続けた、それが教会の宣教でした[iv]

イエスが苦しまなければならなかったのは、私たちがそれ以外に赦し・救いがありえない位、ひどく失われ、自分のしたいこともしていることも見失い、大きな赦しを必要としているからです。私が自分の罪に気づき、罪悪感に苦しんで、赦しを求めたから、イエスの赦しに預かるのではありません。イエスの十字架を通して初めて私たちは、自分がどれほど失われていたかを知るのです。イエスが私たちの想像できない苦しみを受けて、私たちを捜し、私たちを見つけてくださったと知るから、自分がどれほど彷徨い、罪を生きていたかを知るのです[v]

福音中心の人生を学ぶためによく使われるイラストがあります[vi]。信仰の出発の時から、人生を歩むにつれて、神の聖なる偉大さがますます大きくわかり、右上に伸びる線を書きます。同時に、自分の罪深さ、小ささ、あるがままの姿がますます分かる線を、右下に伸ばします。その間をつなぐ十字架を描けば、それは時間が進めば進むほど、ますます大きくなっていきます。神の偉大さと、自分の小ささと、それを繋ぐイエスの十字架。私たちと神とを確かに繋いでいるのは、十字架の苦しみをも厭わなかったイエスです。主の苦難を深く知ることは、私たちに謙遜と希望をもたらします。それは罪悪感や申し訳なさをもたらすようなものではありません。罪意識や負い切れない重荷から救うために、イエスは来てくださったのです。苦しみの時にともにいて、何をしているか分からないことさえ分かっていない私たちとも共にいて、支えてくださった。このイエスの下さる十字架の恵みを、静かに想う受難週を始めます[vii]

「主よ、私たちのための計り知れない受難を思い、私たちの罪の深さが、どれほど大きなあなたの恵みによって贖われているかを味わい知ります。確かに私たちは、見出され、あなたと共におる者とされています。感謝します。赦しに生かしてください。謙って、嘲りや罵りを一切捨てさせてください。私たちのために、あの十字架をも厭わず、今もなお共にいてくださる主が、これからも導いて、私たちの歩みを整えてくださいますように。御苦しみを賛美します」

[i] 私たちは自分がその「失われた人」だと信じて、認めるのです。イエスは私を捜して救うために来てくださったのだ、私がキリスト教を見つけたのではない、イエスが私を見つけてくださった、そこから始まるのがキリスト者の人生です。またキリスト者となるとは、イエスが十字架で祈った「彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです」も私のためだった、と信じることです。

[ii] パラダイスと聞くと、南の島の楽園を思い出すかもしれませんが、当時は死後の幸福な場所、という意味だったようです。『新日本大百科辞典』「この語は、囲いのあるところ、園および庭を意味するペルシア語「パイリ・ダェーザ」pairi-daêzaに由来し、一般に楽園を意味する。『旧約聖書』において、同語は地上の楽園を指示する(「雅歌」4章13節、「伝道の書」2章5節、「ネヘミヤ記」2章8節)。他方新約聖書』では、「イエスとともにある」ところがパラダイスと解される(「ルカ伝福音(ふくいん)書」23章43節、「コリント書―第二の手紙」12章四節、「ヨハネ黙示録」2章7節)。楽園理解に関して、ユダヤ教やキリスト教では此岸(しがん)性が強く、仏教では彼岸(ひがん)性が濃い。」[定形日佐雄]

[iii] 全地が暗くなったのは、アモス書8章9節、ヨエル書2章31節、ゼパニヤ書1章14、15節。出エジプト記11章21~23節には、「十の災い」の九番目が、全地が暗くなる災いだったことが記されています。その次が、初子の死という、最終的な災いでした。

[iv] ルカの福音書24章26節(キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」)、46節(こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり)、使徒の働き13章30節(しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。)、13章34節(そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方とされたことについては、こう言っておられました。『わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。』)、17章3節(そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。)、31節(なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」)、26章23節(すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。」)

[v] だから、ルカが伝える、このイエスの福音を聞いた人々は皆、喜んでいます。生き生きとしています。イエスの苦しみに「申し訳ない」「私が悪かったです」と俯くのではないのです。

[vi] たとえば、https://gracechurchsw.com/blog/2017/5/15/minimizing-sin-applying-the-gospel-specifically を参照。

[vii] この時、イエスの衣はくじ引きされていたのですから、イエスは服も下着もはがされて丸裸でした。十字架で身動き出来ない苦しみと、裸で晒された辱めと、人々から嘲笑われ続ける、十字架は人間の尊厳とか理性、タテマエなどを引き剥がす場です。その十字架で、イエスが、他でもなく、目の前の人々の赦しを祈ったことは、イエスが私たち人間の赦しを本気で求めていたことの証しです。

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