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2024/3/31 ルカの福音書24節13〜34節「イエスご自身が近づいて」

キリスト教会の大きなお祭りは三つあります。冬には父なる神が御子イエスを下さったクリスマス、春には御子イエスが十字架の死からよみがえったイースター、そして初夏には聖霊なる神が弟子たちに注がれたペンテコステ。今日はイースター、主イエスの復活のお祝いです。イエス・キリストの十字架と復活はキリスト教会が告白する信仰の最も中心です。キリストは死から復活した! これは、キリストがお生まれになったクリスマスに勝る素晴らしい知らせ、喜ばしいお祝いです。弟子たちの幻想でも神話でもないし、本当は死んでいなかったということでもない。イエスは間違いなく十字架で息を引き取り、葬られ、そして三日目に墓から出て復活の体で復活した。この告白を、教会は墓の前に立つキリストの勝利の絵で表してきました。

しかしそれは弟子たちが最初から期待したり、喜んで信じたりした絵ではありませんでした。それどころか、墓の前に立ってご自身の勝利を示すようなイエスとか、どう復活したか、という描写も聖書はしません。その朝、墓は空だった。そこにいた神の使いが

「イエスはここにはいません」

と告げる、というパターンが聖書の福音書が伝える、最初のイースターです。

では復活したイエスはどこに現れたのでしょうか。後の教会や私たちも、最大の奇蹟、死と言う最大の敵への勝利と信じる復活のイエスの登場に相応しい晴れ舞台はどこか、と思いきや、今日の福音書が伝えるのは、全く予想外の、二人の所になのです。

13ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。

19節から24節の台詞を考えますと、この二人はこの朝、女性たちがイエスの墓に行き、イエスのからだが見当たらず、み使いたちが

「イエス様が生きておられる」

と告げたと報告するのを聞いた人々です。しかしそれを聞いて「本当かしら、見に行こう」とは思いませんでした。それよりも、彼らはイエスが殺されてしまった喪失が大きかったのです。

21私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました」。

当時のイスラエルはローマ帝国の支配下に屈していて、その解放は悲願でした。イエスこそその解放者だと望みをかけていた、その希望が打ち砕かれてしまった。それは実に深い挫折、失望、諦めだったのでしょう。彼らがエルサレムからエマオに向かったのは、用事があったのではなさそうです。彼らはイエスに望みをともにかけていた仲間から離れ、弟子としての生活を抜け出て、失意のままイエスを過去にして違う人生を歩もうとしていました。イエスに従ってきた人生に訣別して、離れて行く旅。それがエマオへの道でした[i]。その道にある二人に、復活したイエスは近づきました。立派な弟子、イエスの復活を信じ、疑いそうでもそこに留まり続けた弟子たちの所ではなく、この脱落していく弟子たち(それも過去形でしょう)をイエスは見つけ出し、彼らに近づくのです。それこそが、復活のイエスなのです[ii]。それは、前回ルカの23章で、イエスが「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と明言した目的を思い出させます。

しかも、イエスが近づいてきたのに、二人にはそれがイエスだと分かりません。イエスが話しかけても、彼らは暗い顔をして立ち止まり、

「エルサレムに滞在していながら…あなただけがご存じないのですか。」

と答える始末です。そしてイエス本人に向かって、説明をします。ここには、彼らの目から見た期待と、十字架という挫折と、今朝の出来事への困惑が伺えます。

これに対してイエスは、決定的に欠けている見方を与えます。

25…「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」」

復活したイエスは、ご自身が復活したイエスだと知らせるより前に、この事を知らせます。キリストは苦しんだり殺されたりするはずのない方ではない。必ず苦しみ、その上で解放してくださる。そう諭して、27節で

「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」

のです。その聖書の説き明かしを、ご自身の正体は明かさないまま続けて、彼らは目的の村エマオの近くに来ます。ずっと、二人と一緒に歩んでくださっていました。それでもまだ彼らは気づかないのです。

しかし

29彼らが「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。」

ある説教者は言います。

「私の知る限り、彼を夕食に招待したことだけが、二人が正しく行った唯一の行動であり、それで十分でした」

[iii]。そして宿に入ったイエスは

30…彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。31すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

なんとビックリ。パンを渡された途端に、彼らはイエスが分かりました。しかしその瞬間に、イエスは姿を消してしまう。しかし

32二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」」

イエスだと分かるに先んじて、この御言葉の説き明かしがありました。キリストは必ず苦しみを受け、それから、その栄光に入ることが、預言者たち旧約聖書に書かれていることだと説き明かされました。それを聞きながら、彼らは心が内にふつふつと燃えて来る体験をしました。だからイエスが見えなくなっても、彼らは残念さや寂しさや後悔で愚図愚図してはいません。

33二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、34「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。35そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。

仲間と決別した二人は、イエスが近づいてくださって、仲間のところに戻って来たのです。それが復活のイエスのしてくださったことでした。人の子は失われた人を捜して救うために来た方なのですから。

二人の目が開かれたのはイエスがパンを裂いた時でした[iv]。この出来事を、私たちは聖餐式に与る時に思い出します。来週もパンを裂きながら思い起こします。復活したイエスは、復活を信じて集まる弟子たちに姿を現すより、その輪から飛び出して遠くに行こうとする元弟子を追いかけ、御心を説き明かし、心を燃やしてくださり、エマオでパンを裂きました。その裂いたパンは、イエスが苦しみを受け、十字架で肉を裂かれ、私たちのために心裂かれて、そして、私たちを呼び集め、一つの群れ、一つのパンとして結び合わせてくださることを、聖餐式で思い起こします。いいえ、その聖餐や礼拝の場に来ていない人、失意や諦めのうちに歩んでいる人にも近づいて、語りかけてくださっている。それが、復活して今も生きておられるイエスです。それはその人には分からなくても、イエスがともに歩んでいて、心に火を灯そうとしている。そう信じて良いのです。イエスの復活は、私たちの期待するキリスト(救い主、解放、栄光、力のイメージが壊れる、苦しみ、犠牲、死の後にありました。人の失望、敗北、逃避、諦め、愚かで頑固な選択を回れ右させるものです。逃亡、語らい、食事…キリストも神もいないと見える平凡な中で、既に墓は殻になり、キリストは復活し、イエスは人に近づいて、帰るべき家に帰る思いを温め始めてくださっている[v]。そういう勝利のイースターが語られています。

「ハレルヤ、復活の主、よみがえりの日、最も遠くに向かう弟子とともに歩まんだ主。それでも鈍くてなお先に行くなら、まだまだ付き合うおつもりだったでしょう。本当に主は失われた者を捜し、迷う羊を見つけ、連れ帰る主、私たちをも復活のいのちに与らせてくださる主です。私たち一人一人の歩みそのものが、復活の主が今も生きておられる証しです。主の復活を知った目で、世界の希望も苦難も平凡な事々も、新しく見つめさせ、御業を賛美させてください」

[i] バーバラ・ブラウン・テイラーは、「ルカは、その道で起こったことを私たちに語る唯一の福音書作家ですが、誰もが一度や二度は歩いたことがあるでしょう。それは、チームが敗北し、候補者が敗北し、愛する人が亡くなったときに歩む道であり、空っぽの家、未開封の郵便物の山、いつも通りの生活に戻る長い道のりです。それは深い失望の道であり、それを歩むことは、今日の物語の二人の弟子のように、悲しみの生きた定義です。過去形の希望は、人間が発しうる最も悲しい音の一つです」と言います。 説教ブログ エマオに向かう途中でおかしなことが起こった |20代 (wordpress.com) より

[ii] バーバラ・ブラウン・テイラーは続けて言います。「二人の弟子が盲目だからといって、キリストが彼らのもとに来るのを妨げるものではない。神は復活後に現れるのは、ご自分に全幅の信頼を置いている人々に限定されません。彼は失望した人、疑問を抱いた人、落ち込んでいる人のところにやって来ます。聖書を知らない人、すぐ隣を歩いていてもイエスに気づかない人たちのところにイエスは来られます。彼は諦めて家に帰ろうとしている人たちのところにやって来て、この物語全体を失恋の祝福についての物語にしています。イエスは、壊れた世界で、壊れた夢を持つ人々と協力することを好むようです。」」(『祝福された砕け散り』、22ページ)。同上

[iii] ジョン・ブキャナン、最も起こりそうにない瞬間でも

[iv] ここで思い出すのは、最後の晩餐でパンを裂いたことですが、ルカではそれ以上に重なるのは、五つのパンと二匹の魚で五千人以上を養った給食の席です。ルカの福音書9章16節:そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

[v]「神聖な瞬間、奇跡の瞬間は、しばしば日常的な瞬間であり、私たちが目以上のもので見たり、耳以上のもので耳を傾けたりしなければ、明らかにするだけの瞬間である…見知らぬ人が私たちの後ろの道を下ってきて、他の食事と同じような食事をしました。しかし、もし私たちが心で見つめ、想像力のすべてで耳を傾けるなら、もし私たちが逃避から逃避へとではなく、私たちの尊い人生の一瞬の奇跡から次の瞬間の奇跡へと人生を生きるなら、私たちが見るのはイエスご自身であり、私たちが聞くのは、私たちの心の奥底のどこかで、この人生には目的があると言っている声の最初のかすかな音です。 私たちの生活の中で、それを完全に理解できるかどうか。そして、その目的は、私たちのすべての疑いと恐れを通して、私たちの背後に続きます。突然、すべてが神の御手の中にあるのだから、すべてが理にかなっていると確信する瞬間、その名前の一つは赦しであり、もう一つは愛である。」(フレデリック・ビュークナー) 同上

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