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2024/4/7 ヨハネの福音書15節18〜25節「世のものではない」

18世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

先の17節までで「互いに愛し合うこと」と繰り返されていたのとは打って変わって、憎む、憎んだ、20節では「迫害した」、そして23節から25節でまた「憎む」が4回も繰り返され、なんとも物騒な雰囲気で張り詰めるこの部分です。これは17節からの続きです。互いに愛し合うことをイエスが命じられた、これは実に驚きの、深く慰めに満ちた命令です。しかし、それは私たちがロマンチックな期待を人生に抱くことではない。愛することを命じられたキリスト者の存在が、周囲に感銘を与え、魅力になる、と甘く夢見ることに釘をさしてくれます。憎まれても不思議に思うな、なのです[i]。なぜなら、イエスは世をも愛されました。そのイエスを、世は受け入れませんでした。イエスが憎まれ、迫害されたのであれば、イエスの弟子たちをも憎まれる、そう思い出すように、ここでイエスは語ってくださっています。

ヨハネの福音書が書かれた時、一世紀の末、教会に対する迫害は深刻になり始めていました。この福音書の記述にも、周囲からの反対、村八分、困難が見て取れます。前後して書かれたヨハネの黙示録はもっとはっきりと、迫害と殉教が指摘されています。そういう中で、この言葉が読まれる。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

19もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです」。身の引き締まる思いだったでしょう。

21世紀の現代、決して「迫害」は過去の歴史ではなく、多くのキリスト者が信教の自由を認められず、困難な状況に置かれています。投獄や制裁を受けています。私たちにとっても他人事ではありません。キリスト者であることへの圧力がかかることはある。信仰を捨てるか、信仰を選んでいのちを捨てるか、選択を迫られる時がありうる。そんな脅しに対して、堂々と喜んでキリストを選ぶ者でありたい。そういう思いをもしっかり確認させられるところです。

しかしそれは所謂(いわゆる)「殉教者精神」という被害者意識を持つことではありません。初期のローマ帝国のキリスト教迫害にも、殉教者には二種類いたそうです。一方は、殉教自体に英雄的な憧れを抱き、刑を見守る人々を呪い、見下しながら、陶酔的に殉教していく人々。もう一方は、死に急ぐことなく、最後まで周囲の人々に愛と奉仕を現しながら、支え合い、殉教の死を受け入れた人々。前者のようなタイプに見られるのが「殉教者精神」という事でしょう。そして、そのように「迫害」される時、今日の箇所は格好の聖句として引用されるでしょう。それは引いては、厳しい時代ではなくても、信仰生活や教理に対して、外から反対をされたら、「迫害だ。試練だ。信仰が試されているのだ」と自分たちの教えに閉じ籠っていく。でも、そういう事がここで伝えられているのでしょうか。ヨハネはその第一の手紙3章13節でも

兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません

と言いますが、それもまた、互いに愛し合うこと、いのちを置いて、言葉や口先だけでなく行いと真実をもって愛しましょう、とますます具体的に勧める中での言葉です[ii]。主の愛に留まる生き方が、理解されず、憎まれても、それでも主の愛に留まろう、イエスもそうされたのだから、なのです。

マザー・テレサが孤児院の壁に貼っていた詩があります。

人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
気にすることなく、作り続けなさい。
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。
たとえそれが十分でなくても 気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい。
最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。[iii]」 

こういう柔らかな読み方で、今日の箇所も聞かれるものでしょう。

ヨハネの福音書全体を見ても、イエスは世を愛してくださった、憎まれても、迫害されても、殺されても、世を愛してくださった。それがイエスと世との関係です[iv]。その愛ゆえに、他ならぬ自分も選び出され、この世界にありながらも、この世界に属する者ではなく、主に属するもの、神の民、イエスの羊、葡萄の枝とされている。そこに立ち返りながら、自分が憎まれても迫害されても、イエスもそうだったと思い起こして、イエスの愛に留まり続けよう、互いに愛し合うこと、仕え合うことが無駄に見えても、ここに留まろう、と聴きたいのです。

21しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らない[知ろうとしない]からです。22もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。24もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょ。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」

イエスのわざとは凄い奇蹟とか目覚ましい癒し、ではありません。神殿の商売人を追い出し、貧しい結婚式を祝福し、安息日に病人を癒す、当時の常識を覆して人を新しくするわざ、愛のわざでした[v]。その、人を作り変える愛のわざを見ても、信じるどころかかえって反発し、愛に憎しみで返すとしても、気にするな、というのです。

25これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。

「彼らの律法」とは当時は旧約聖書のことで、これは詩篇69篇4節の引用です[vi]。他にも二箇所、ゆえもなく憎まれる、という訴えが聖書には出てきます。聖書にはそんな現実が掬い取られています。そしてイエスはその生涯、不条理な憎しみをも受けてくださいました。そして、その理不尽な仕打ちに対しても、敵意や呪いで返さず、愛をもってご自分を与えてくださいました。憎しみの中でも御父の愛を表すことで、憎しみを無効化・無力化されて、イエスは愛を成就してくださいました。ヨハネは「成就」という言葉も繰り返して、そう宣言します[vii]

「ゆえもなく[viii]」憎んだ憎しみがイエスに降りかかっても、イエスは世を愛し、私たちを決して失わず、見捨てません。私たちの理由があるから、私たちの正しさ、立派さ、殉教や迫害も厭わない熱心さ、なんかの「ゆえ」でなく[ix]、イエスは私たちに愛を与え、いのち、喜び、平安を成就してくださいます。だからイエスは、世の憎しみや迫害にあっても、わたしが先に憎まれたこと、わたしと父とが憎まれる悲しみを知っている事を思い出させるのです。このイエスを思い出し、このイエスの愛に留まる。それは、私たちが反対に対して、力んで「戦闘モード」になることから守ってくれます。自分が正しいゆえに主に結ばれているのではないのですから、理由がある批判には、心を開いて聞く耳を持つのです。やたらと「迫害だ、試練だ」などとは慎んで言わないのです[x]。そのような心へと私たちを変えるのは、他の宗教や誰も行ったことのない、イエスだけのわざです。

だから次に聖霊の約束が続くのです。次週26節以下を共に読みましょう。

「私たちを愛される主よ。それはひとえにあなたのゆえです。私たちを、憎しみや疑いの心から救い、闇の中でもますます輝くあなたの愛を信じる者としてくださった恵みを褒め称えます。どうぞ私たちをあなたの愛によって強めてください。憎まれても怯まない愛を、批判の中には真実と飛躍とを聞き分ける洞察を、求めさせてください。恵みならざるもの、自分を正しいとする頑なさから、強いてでも救い出し、私たちを主の恵みを表すあなたの御業としてください」

[i] 憎む ミセオー 12回(マタイ5、マルコ1、ルカ7。使徒0)3章20節(悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。)、7章7節(世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。)、12章25節(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、15章18〜19節(世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。)、23〜25節(わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。24もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。25これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。)、17章14節(わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。))

[ii] ヨハネの手紙第一3章11〜24節:3:11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。12カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。14たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。15兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。16キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。19そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。20たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。21愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。22そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。23私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。24神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。

[iii] 同志社キリスト教文化センター それでも愛しましょう!

[iv] 世 コスモス ヨハネで78回(マタイ9、マルコ3、ルカ3):1章9〜10節(すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。)、29節(その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。)、3章16〜17節(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。)、19節(そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。)、4章42節(彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」)、6章14節(人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。)、33節(神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」)、51節(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、7章4節(自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」)、7節(世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。)、8章12節(イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」)、23節(イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。)、26節(わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」)、9章5節(わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」)、39節(そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」)、10章36節(『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒瀆している』と言うのですか。)、11章9節(イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。)、27節(彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」)、12章19節(それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」)、25節(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)12章31節(今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。)。46〜47節(わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。47だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。)、13章1節(さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。)、14章17節(この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。)、19節(あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。)、22節(イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」)、27節(わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。)、30〜31節(わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。31それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。)、15章18〜19節(世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。)、16章8節(その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。)、11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。)、20〜21節(まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。)、28節(わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」)、33節(これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」)、17章5〜6節(父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。6あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、9節(わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。)、11節(わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。)、13〜16節(わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。14わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。15わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。)、18節(あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。)、21節(父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。)、23〜25節(わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。24父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。25正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。)、18章20節(イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。)、36〜37節(イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」37そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」)、21章25節(イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。)

[v] ヨハネの福音書3章2節()、4章34節(イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。)、5章20節(それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。)、36節(しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。)、6章28~29節(すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」29イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」)、7章21節(イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。)、9章3~4節(イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。4わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。)、10章25節(イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、)、32~33節(イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」33ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」)、37~38もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。38しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」)、14章10~12節(わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。12まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。)、15章24節(もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。)、17章4節(わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。)

[vi] 詩篇69篇4節:ゆえなく私を憎む者は 私の髪の毛よりも多く 私を滅ぼそうとする者 私の敵 偽り者は強いのです。 私は 奪わなかった物さえ 返さなければならないのですか。

[vii] 成就 プレーロオー(成就する、満たす、いっぱいにする) ヨハネの福音書で15回:3章29節(花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。)、7章8節(あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」)、12章3節(一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。)、12章38節(それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」)、13章18節(わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。)、15章11節(わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。)、25節(これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。)、16章6節(むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。)、24節(今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。)、17章12〜13節(彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。13わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。)、18章9節(これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。)、32節(これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。)、19章24節(そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。)、36節(これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、)。
19章28節(それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。)は、テレイオオー(完成する、終了する、全うする)で4章34節(イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。)、5章36節(しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。)、17章4節(わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。)

[viii] ヨブ記には、主とサタンとの対決に、「ゆえもなく(七十人訳:ドーレアン)」が二度出てきます。1章9節(サタンは主に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。)、2章3節(主はサタンに言われた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を吞み尽くそうとしたが。」) 神が求めている、人間の信仰は、御利益や何かの理由があるものではないのですが、サタンはそんな無私の関係はあり得ないと信じています。そのような「理由」で、サタンがヨブを滅ぼそうとしたことを、主は、理由と呼ぶには当たらないとしています。神が求めている人格的な関係には、恐れる(愛する)にせよ、憎むにせよ、理由はありません。それは本人の心を動かしている心性そのものに根ざしています。すべての「理由」は後付けです。

[ix] ゆえもなく ドーレアン。ヨハネではここのみ。名詞形ドーレアは4章10節(イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物(ドーレア)を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」)。マタイ10章8節(病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。)、ここ、ローマ書3章24節(神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。)、IIコリント11章7節(それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことで、私は罪を犯したのでしょうか。)、ガラテヤ2章21節(私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。)、IIテサロニケ3章8節(人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。) ヨブ1章9節の「理由もなく」も、LXXではドーレアン。

[x] そうでないと、この後18章10節でペテロがしてしまうように、イエスの思いとは真反対に、剣を振り回すようなことをして、イエスの味方であるかのような攻撃的な集団となってしまうのです。