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2024/3/17 ヨハネの福音書15節12〜17節「これよりも大きな愛はだれも」

12節は今年の教会年間聖句です。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

これはここで初めて出て来る言葉ではなく、13章34節に始まって、わたしの戒め、あなたがたを愛する、と繰り返されてきました[i]。今日の箇所も12節だけでなく17節でも

「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」

と結びます。この戒めに挟まれた、サンドイッチでいえば具になる13~16節は、「友」という言葉を繰り返します。また、先の「ぶどうの木」の譬えを踏まえた、木に繋がった枝が実を結び、豊かに残す、生き生きとした図です。このあんこがあっての「互いに愛し合いなさい」なのです。これ以降「互いに愛し合う」も「戒め」も、この福音書には出て来ません。最後に「これがわたしの戒めです」と確り念を押す、そういう箇所です。

13人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

イエスは「神のために命を捨てるのが最大の愛である」とは言いませんでした。友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はない、というのです。そして、神の子イエスはそのような愛を実践したのです。逆に「友のためより、見知らぬ人のためにいのちを捨てるほうがもっと大きな愛ではないですか。敵を愛する、というのがイエスの教えでしょう?」と言われるかもしれません。ローマ書5章6~10節は

「…正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。…」

と言い、

10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、…」

と言い換えます[ii]。敵であった者、罪人であった私たちのためにイエスが死んでくださった。それが神の愛です。その愛の中で、敵は敵でなくなり、敵対関係は和解して友情に代わる。それが神の愛です。「敵を愛しなさい」というのも、誰をももう「敵」とは見なくなる、誰も「敵」とは見做さなくさせる言葉です。

しかしその敵をも和解させ、友と変える「愛」が抜け落ちると、「あなたのためにイエスが死んでくれた」とは、有難さを超えて、重すぎる負担になります。誰かが死んだことで自分が生きている、というのは負いきれない圧力、返しきれない罪悪感になりかねません。私には生後まもなく早逝した兄が二人います。「兄が死んだから私が生きているんじゃないか」というのは恐ろしい感覚でした。まして、神の子イエスがあなたのために死んだのだから、あなたも人のために命を捧げるべきだ、と言うなら、人を生かすより、文字通りの殺し文句にもなりかねません。この

「いのちを捨てる」

とは15節で「任命する」と訳されているのと同じ「置く、取る」という言葉です[iii]。「死んだ、犠牲になった、殺された」というより、自分のいのちを置く、贈り物のようにそっと置く仕草です。それは、弟子たち、私たちが「友」だからです。

14わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

イエスが愛したように、互いに愛する、いのちを捨てるほどに愛する――そんなことは決して出来ません。出来なければ、イエスの友には残念ながらなれません――ではないでしょう。順番は、イエスが「あなたがはわたしの友です」と先に言ってくださることです。そこに、イエスが命じること、新しい戒めに生きることは切り離しがたく伴うのです。また、「友」という関係には自分が何をするのか明かす、自分の思いを分かち合う関係があります。

15わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

しもべには行動だけを伝え、命令通りの従順が求められます。イエスと弟子、私たちの関係はそうではありません。イエスは自分がすること、父なる神から託されていることを私たちに明かしてくれています[iv]。そこには愛と信頼があります。当時の政治にも、王や皇帝の「友」と呼ばれる人はわずかにいました。それは特別な信頼でした。旧約聖書で「神の友」と呼ばれるのは、直接にはアブラハムだけ[v]、遠回しにはモーセだけです[vi]。その他の人には許されない呼び方です。イエスの弟子たち、学のない平民、宗教家とは縁遠い彼らは、イエスが「あなたがたはわたしの友です」と言われた時、嬉しかったでしょうか。嬉しいより驚いて、戸惑ったでしょうか。讃美歌312番「慈しみ深き」といえば、日本の教会の礼拝や伝道会、結婚式でも葬儀でも、なぜか定番賛美です。よく歌い、伝道には使うだけでなく、本当にイエスは私たちを喜び、心を躊躇わず明かす「友」です[vii]。祈りは「神との友情を育むこと」です[viii]。友なるイエスとの語らいを楽しんでいますか。イエスは更に続けます。

16あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

弟子たちは自分でイエスを選んできた心算(つもり)だったでしょう。しかしイエスは、そうではなく、わたしがあなたがたを選んで、その実まで準備していたのだ、と仰るのです[ix]

私たちが教会に来、求道し、信仰を決心したことも、イエスの選びが先にあったから、これまでも今も私たちはここにいます。これからもイエスが友でいてくれます。それはイエスとの関係だけではなく、外に出て行って実を結び、その実が残ることに繋がります。前回見た通り、私たちが何か活躍して、残る成果を出す、ということではありません。命じられるのはイエスに繋がっていること――。葡萄の枝が木に繋がっていれば、時が来れば実がなるように――そうでなければ農夫がちゃんと手入れを必ずする――そのように人は主に繋がっていれば、主の時の中で不思議と実を結びます。主の言葉、主の愛、主イエスご自身に留まる時、自ずと結ばれる実、それこそ「残る」実です。大事なのは私たちの努力や頑張りでなく、イエスが私たちを選び、友と呼び、働きに召し、実も結ばせてくださること[x]。この信頼関係、惜しみない愛で与えられた友情を味わい、分かるにつれて、私たちが愛を与え、愛を受け取れるようになります。私たちも人を、もはや敵や批評家ではなく、友として見るようになっていくことのです。

17節は

あなたがたが互いに愛し合うようにと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

とも訳せます。この「友」と呼ぶ関係に基づく任命やその目的までが命じられているから、互いに愛し合えるのです。そこを大切にせずに「互いに愛し合う」ばかりが強調されて、それも「優しくする/良い子になる/親切にしなきゃ」という行為にしやすいのです。主の大きな愛にゆっくりじっくり十分につながることなしに、実を結ばなければと言われているように思うのです[xi]。しかし、イエスは義務感や義理や罪悪感から従順を求める神ではありません。友であるという中身抜きに愛し合うことは、なんと味気ない愛でしょう。私たちに心を明かし、命を置いた「友」であるイエスは、私たちの心にある正直な思いを私たちが打ち明けることをも喜び、聞いて受け止めてくださり、深く知っています。それが「友」という関係です。

「慈しみ深き友なるイエスは」

作者ジョセフ・スクライヴェンは、婚約者との死別という悲嘆を二度も体験した中、案ずる母に宛ててこの詩を送りました[xii]。その悲しみも罪悪感もイエスは知りたもう。なんて素晴らしい友を私たちは持っているのだろう、と歌ったこの詩に曲がつけられ、各地で歌われるようになりました[xiii]。ジョセフ自身は自分の作品として発表するつもりはなかった、結ぼうとして結んだ実ではなく、イエスとの友情の結果、溢れ出た実に他なりませんでした。

祈りの後、その讃美歌312番「慈しみ深き」を歌います。ø

「私たちの友なる主。あなたが私たちのすべてを知り、またあなたの思いを私たちに余さず分かち合い、慰めと平安、罪の赦し、そして互いに愛する愛を下さいます。その恵みに十分浸らせてください。慈しみ深き友よと、毎日歌わせてください。あなたとの友情を育まず、見せかけや従順を求めるような、そんなギスギスした信仰への誘惑から、絶えず救い出してください。あなたが私たちを選び、任命し、実を結ばせてくださる。この聖なる御計画に信頼します」

 

[i] 14章15節、21節、15章10節。

[ii] ローマ人への手紙5章6~10節:実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

[iii] ギティセーミです。:2章10節(こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」)、10章11節(わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。)、15節(ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。)、17〜18節(わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、11章34節(「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。)、13章4節(イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。)、37〜38節(ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、15章13節(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、16節(あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。)、19章19節(ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。)、41〜42節(イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。)、20章2節(それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」)、13節(彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」)、15節(イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」)

[iv] イエスが人々を「友」と直接呼んだ聖句は次の通り:マタイの福音書26章50節(イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。)、マルコの福音書2章19節(イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。)、ルカの福音書5章20節(イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。)、34節(イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。)、12章4節(わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。)、ヨハネの福音書3章29節(花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。)、11章11節(イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」)、そして、15章13~15節(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。15わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。)

[v] イザヤ書41章8節:だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。

[vi] 出エジプト記33章11節:主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。

[vii] この意味で、「ともだち」を名乗った教祖の物語『二十世紀少年』(浦沢直樹、小学館、1999〜2006年)は、「友」では決してありませんでした。

[viii] 教父アレクサンドリアのクレメンスの言葉。ジェームズ・フーストン『神との友情』(坂野慧吉訳、いのちのことば社、1999年)9ページ。なお、同書も推薦します。その他に、C・S・ルイス『四つの愛』(蛭沼寿雄訳、新教出版社、1977年)も、「友情」を第4章で扱っています。

[ix]

[x] エペソ2章10節:実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その善い行いをあらかじめ備えてくださいました。

[xi] 「互いに愛し合いなさい」が、聖書で一番嫌いな言葉、という人もいるのです。note 聖書の”毒”教え「互いに愛し合いなさい」 

[xii] 中通りコミュニティチャーチ いつくしみ深き

[xiii] 賛美歌『いつくしみ深き』の作詞年 城俊幸