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2024/2/11 ヨハネの福音書14章1~6節「わたしが道であり、真理であり、いのち」

聖書にある章節は元々なかった区切りです。今日のヨハネ「14章」も元はなく、スムーズに続いていたのです。最後の晩餐でイエスは別れを予告しました。ペテロは抵抗しますが、イエスは

「…鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

と告げました。それに続けて、

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」

と切れ目なしに語られたのです[i]。ここから15章16章までかけて、イエスの「訣別説教」「遺言説教」と言われる説教が始まり、17章で祈り(「大祭司の祈り」)まで続きます。14章から17章という長さで、イエスが去った後への配慮、予想される困難、聖霊の約束、弟子たちが持つべき態度が語られます。それは当時の記録という以上に、この福音書が書かれた一世紀末を考慮しています。イエスが地上にいた時代から半世紀以上経ち、キリスト者へのローマ帝国からの迫害も強まって、教会の中に、イエスがいないこと、イエスの不在を嘆き、心許なく思う声があったことをヨハネの福音書は意識しています。今も、イエスが見えない――二千年も前に生きていたイエスと私とどう関係があるのか、という声に繋がります。そうした中、このヨハネ14章以降は、今に至るまで教会を照らし、神とイエスを信じさせている言葉です。

イエスがこの最初に語ったのは、

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。…」

イエスが去るのは、私たちのために住む所、場所を用意しに行くため。素直に有難い、嬉しい言葉です。

「わが父の家には住まい多し」(文語訳)

葬儀において読まれることの多い慰めの言葉です。この「住む所」を昔は「大邸宅」と訳した翻訳もあったらしいのですが、今は「部屋」と訳されたりします。広いかこじんまりか、が問題でなく、肝心なのは「父の家には住む所」です。所謂「天国」に自分の大邸宅や小屋が用意される、という事ではなく、父なる神の家に、私たちの住む所が用意される――父が私たちを家族として迎え入れて、そこにともに住む、それこそがイエスの「用意」すること、イエスの願いです。だから

…わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

イエスがいるところに私たちもいる。そういう「住む所」なのです。

更に、この「住む所」という言葉は、ここと23節にしかない言葉ですが[ii]、その元になる動詞は「留まる」と訳される語で、ヨハネに40回も使われます[iii]。特にこの14~16章で

「わたしに留まりなさい」「わたしの愛に留まりなさい」

と仰る「留まる」に通じていくのが「住む所」です。父の家でイエスとともにいることそのものが「住む場所」です。

とすれば「用意」とは場所の準備(セッティング)より、住む者のための手続きや、着替えを出しておくような用意でしょう。神の家にあがるための足を洗い、心の罪を聖霊によってきよめ、私たちの生き方を整えてくださる用意が必要です。私たちには神の家にどんなに小さな部屋を持つにも相応しくない罪があります。いいえ、どんなに大きな部屋を与えられても「父の家にいるなど窮屈だ」と飛び出すような、父に対する歪んだ不信に目が曇っています。その私たちの問題を解決するためにこそ、イエスはひとり十字架に向かい、復活の後に父のもとに行き、そこから聖霊を遣わして、私たちを新しくします。それが、この用意なのです。

父の家の住む所が、結局はイエスとともにいることであるのと同様、イエスは続けます。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

道とはどこか、と問われて、

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

と答える。わたしこそが道である、と言うのです。「道、真理、いのち」と三つを上げますが、続けて「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言うように、要は道、父のもとに行く道です。詩篇25篇が「あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き 教えてください」[iv]と歌うように、聖書において、道とは命に至る真理です。

この言葉をイエスは最後の晩餐の席で、まもなく別れる弟子たちに初めて言います。三年間、曲がりなしにもイエスと一緒に過ごしてきた、そのイエスからの別れの言葉を告げられて、深く心騒いだ弟子への言葉です。その言葉は、もちろん初めて教会に来た方やキリスト教を知らない方に伝えることも出来ますし、それでイエスを知り、信じる人もいます。しかし、いきなりこんなことを言われてもピンと来ないとしたらそれもまた無理のないことです。まずイエスはどんな方かをジックリ知った上で、この言葉は聞かれるものでもあるのです。

ここまで弟子たちはイエスとともに過ごし、イエスのなさることに驚かされてきました。イエスは

「わたしについてきなさい」

という弟子となる招きをそれぞれにユニークな形で下さいました。

折角の結婚式がお祝いの葡萄酒が底を突くほど貧しかった時、イエスは水をぶどう酒に変えて惜しみなくもてなしてくださった。

迷える宗教指導者や、外国人の曰くありげな女性、病気で長年伏せっていたとらえどころのない人、お腹の空いた群衆に、イエスがどんな風に近づくかを見て驚かされてきた弟子たちです。

生まれつき目が見えないような不幸など、何か罪の罰に違いないと考える常識を一変したイエスです。

墓の前で涙をボロボロと零し、高価な香油を自分の足に注いで髪の毛で拭う女性の思いを、無駄と思わず受け止めた方です。

そして、この夜は、自分たちの汚れた足を、自ら上着を脱ぎ、水を汲んで洗って拭ってくださいました。

従うことを強く求めながら、弟子が信じ切れずに裏切る未来をも見通して、その先の希望を約束したイエスです。

「あなたは三度わたしを知らないと」

言うと断言した直後に、

「心を騒がしてはなりません」

という言葉を、語ってくださる[v]。弟子たちにとってこの驚きに満ちたイエスとの別れは「心を騒がせ」ずにおれないショックでした。そういうイエスが、言うのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

と。神は、人間の哲学や頭で精一杯こしらえ上げた絶対者とか究極の存在、遠く、捉えどころない何かとは違います。そんなものはどこまで行っても、人間が想像するクリーチャーです。まことの神は、イエスを送って私たちにご自身を示し、イエスこそが私たちに、神とはどんなお方か、どんなに人間を愛し、罪と悲惨を我慢できず、あらゆる破れを繕い、癒せるお方かを表してくださいました。そして、このイエスこそが、神への道そのものとして、ご自分を今弟子たちに「わたしが道です」と語られたのです。

今イエスは見えなくとも、確かに私たちを父の御許に行く道となってくださって、そのために場所をも、私たちをも整えています。そのための具体的な内容は、この先、16章までかけて詳しく丁寧に語られて行きます。その要素は、反対や苦難、イエスが遣わす聖霊の働き、そして互いに愛し合うという戒め、この三つです。それは来週から見ていくとします。マザー・テレサの言葉を紹介しましょう。それは

「平和への道などありません。平和こそが道なのです」

と言う言葉です。この言葉は、イエスの言葉の手がかりになるでしょう。イエスこそ道です。神への道、イエスへの道などありません。イエスこそが道なのです。それは、高尚な思想とか、禅問答のような言葉遊びではありません。イエスの生涯や言葉、みわざにハッキリ現されていること、本当に生々しく、心燃やされること、父の家に住む所が用意されていることです。今既に、父の家に帰る帰郷の旅を、苦難や聖霊、御言葉の戒めに支えられ、整えられながら歩む、そういう道となってくださったイエスとともに、また互いにともに歩んでいるのです。

「『心を騒がせるな、神を信じ、またわたしを信じなさい。』主よ、あなたこそは道、真理です。あなただけが、私たちの唯一のいのちです。私たちにも父の家に迎えられ、幼子のように「ただいま」と言わせてくださる約束に、感謝します。あなた以外のもの、私たちの頭で造り上げた薄っぺらい神のイメージを壊してください。深い慰めと喜びから、襟を正すような思いです。道であるあなたが今週も私たちを支え、教え、いのちを注ぎ、恵みを表す証人としてください」

[i] イエスとともに三年を過ごした弟子たちが、イエスがまもなく去ると告げられて、動揺しざわついている。ペテロが「あなたのためならいのちも捨てます」と強く言ったのも、言わば不安の裏返しでした。イエスはその虚勢をあっさりと窘(たしな)めながら、心騒ぐ思いに触れてくださって、「神を信じ、わたしを信じなさい」と言うのです。

[ii] 「住む場所」モネー ここと14章23節(イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。)のみ。

[iii] メノー。ヨハネの福音書1章32~33節(そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』)、1章38~39節(イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。)、2章12節(その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。)、3章36節(御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。)、4章40節(それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。)、5章38節(また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。)、6章27節(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、56節(わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。)、7章9節(こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。)、8章31節(イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。)、35節(奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。)、9章41節(イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」)、10章40節(そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。)、11章6節(しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。)、54節(そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。)、12章24節(まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。)、34節(そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」)、46節(わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。)、14章10節(わたしが父にいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。)、17節(この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。)、25節(これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。)、15章4~7節(わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。)、9~10節(父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。そうすれば、それはかなえられます。10わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。)、16節(あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。)、19章31節(その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。)、21章22~23節(イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。)

[iv] 詩篇25篇4~5節:主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。5あなたの真理に私を導き 教えてください。 あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。

[v] 「…またある人はこんなふうにも書いています。トマスにとって、ただ主イエスが目の前からいなくなってしまうということだけが、彼にとっての不安の種であったのではない。トマスは主イエスの傍らにあって力強く福音を説かれる主のみ言葉を開き続けていた。おそらく聞き惚れていたに違いない。それがもう聞かれなくなる。歩く道の傍らに目の見えない男がいれば、主イエスの方から近寄って声をかけてその目を開いてくださる。その主イエスのお言葉とお姿を見ていて、トマスはどんなに誇らしい思いになったか分からない。何千人という人びとに主イエスがパンを分け、魚をお与えになる。いくら配っても、次から次へとパンがあふれてくるような籠を手にして配ったその時の感触を、トマスは忘れることができない。涙に暮れているやもめの傍らに立って、もう泣くのをよせ、と言って柩に横たわっているその子を呼び起こしてくださった主イエスがおられた。驚きの目を見張ってそれを見ていた。その主イエスのみわざはもう見られなくなる。ラザロの墓に向かって「ラザロよ、出てこい」と言われたあの叫びはもう聞こえなくなる。その時既に、ラザロの姉妹たちマルタ、マリアは、ラザロが死に瀕した時にイエスがいてくださらなかったことを深く嘆いた。だから後からやって来られた主イエスに、「あの時いてくださったならば」と涙ながらに訴えている。イエスがおられないということは、ただいつも見慣れた背中が見えなくなるというようなことではない。それらがみんな消えてしまうことであって、どうしていいのか分からなくなってしまう。私どももどうしていいのか分からない思いを知っている。愛する者が苦しんでいるのをじっと見ながら、自分の声も、助けの手のつもりで差し出すものも、何の役にもたたない時に、ああ、主イエスがここにいてくださったならば、と私どもも嘆く。自分自身が行き詰まってどうしようもない、どうして自分はこんなに弱いのだろうと胸を打ちながら、どうやったら立てるかと思っているときに、主イエスがここにいて手を差し伸べてくださったならば立てるはずだと思っているのに、主イエスがおられないそのつらさに、主よ、あなたはどこに行かれたのかと問わずにおれなくなるのではないか。この私どもの悲しみは、この福音書を書いた人たちも知っていたのであります。ヨハネ福音書を書き記した頃は、主イエスが地上で働きをなさってからまだ一〇〇年とは経っておりません」加藤常昭、ヨハネによる福音書4、310~311頁