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2024/2/18 ヨハネの福音書14章7~14節「さらに大きなわざを」[i]

1~6節でイエスは、自分が去るのは、弟子たちを父なる神へと繋ぐ道そのものだから、と言いました。イエスは父なる神と私たちを橋渡す道そのものです。これはヨハネの福音書で、イエスとは誰か、ということを最初からチラチラ仄めかしてきたテーマでした[ii]。それが、

 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。

こうは言われて弟子たちは戸惑います。

ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。…」

聖書最大の驚きの言葉です。教師や偉人は決して「自分を見た者は神を見たのだ、自分の言葉は神の言葉だ」とは言いませんし、宗教家や聖人がこんなことを言い出したなら直ぐに逃げることです。そんなとんでもないことをイエスは言います。それは、イエスが誰かという事に加えて、父なる神ご自身を、生き生きと働きかけ熱く語りかける神とすることでした。

…どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」

8節のピリポの言葉とどんなに違うでしょう。ピリポはイエスが御父を表している御子だと知らなかっただけでなく、神を、見ることが叶わず、遠く離れた、見ることが出来ればそりゃ満足できる方だ、と言っているように聞こえます。それは私たちが思い描きがちな、神に対する、遠く、曖昧で、知ることが出来れば満足だけど、知れなくても仕方がない、関係の薄いものです。それに対してイエスは語る神は実に動的です。

10節で

「わたしがあなたがたに言うことばは、」

を受けて、

「わたしのうちにおられる父が」

ご自分の言葉を言う、

ではなく

「ご自分のわざを行っておられる」

と言われます。言葉が、わざと等しくされています。聖書――旧約聖書の書かれたヘブル語では「ことば」と訳される名詞は「わざ・出来事」とも訳せます。言葉=わざ。神の言葉は、出来事を産み出すのです[iii]。イエスは単に、真理や愛、神についての知識を伝えただけではありません。イエスにおいて神はご自分のわざを行い、その言葉を通して、弟子たちや私たちの中に働いて、信仰を起こし、信じる者としての新しい生き方を育てる――そういう出来事を行っている。ピリポの台詞の神、離れた、遠い、腰の重い神とは大違い。生きておられ、私たちにイエスを通して自らを知らせ、私たちに関わらずにおられないダイナミックな神。それがここに示されています。

11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

イエスと長い間一緒に過ごしても弟子たちはまだ分かっていませんでした。ここでハッキリ言われても、まだ信じられない。それなら、イエスがしたわざのゆえに信じなさい、と言われてもそれでも信じられないこともイエスは見越しています。それぐらい人間の心は神に対して壊れており、鈍く、暗く、遠くなっています。だからこそ、神はイエスを遣わして人とし、これまで一緒に過ごさせ、癒しや教えや人を変えるわざを弟子たちに見せてくれました。何より、イエスはご自身のいのちを捧げて、人間の罪を償う代価となり、十字架の死を遂げて、そのいのちを聖霊によって私たちに確かに届けてくださる。そのおかげで弟子たちや私たちは、神との関係を回復させていただけるのです。そればかりではありません。

12まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。…」

耳を疑うような言葉です。イエスのわざを行い、それよりも大きなわざを行うだなんて…。こうイエスが言う理由は、

「わたしが父のもとに行くからです。」

一つには、イエスが父のもとに行き不在になるので、残された弟子たちが、イエスの始めたわざを託されて、地上で行います。それはイエスが地上で果たし切れなかったわざを受け継いで果たす、とも言えます。もう一つには、イエスが父のもとに帰ること自体がイエスの主としての即位です。「使徒信条」で告白する

「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」

…神の王座の隣で共同統治者となること、救いを成し遂げて天に凱旋し、御座から世界や私たちを支配する時が始まるのです。だから弟子たちは、イエスが地上でなした以上のわざを行うようにされるのです。

実際イエスの地上での活動はユダヤとガリラヤだけで、残った弟子はわずかでしたが、その弟子たちはイエスの福音を証しする使徒となり、多くの人々を信仰に導きます。ここで質問したピリポは小アジアのヒエラポリスまで福音のために労し、最後は二人の娘と共に殉教したと伝えられています[iv]。ペテロは西のローマへ、トマスは東のインドへ行ったと伝えられます。

でも思い出してください。彼らはかつてローマを憎み、異邦人を蔑み、インドなんて思いをかすめもしない余所の話でした。その彼らの心をイエスは変えて、外国人のためにいのちも生涯も献げるほどの愛を下さったのです[v]

「大きなこと」

と言えば私たちは直ぐに奇蹟とか派手派手しいことを連想しますが、イエスの目に

「大きなこと」

とは、そういう見た目の大きさを追い求めていては見えない尊いことです。

「大切です」

と訳される言葉であり、何より15章13節で

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」

と言われます。そういう「大きなわざ」をイエスは見ています。それは、神ご自身が、人が思い描くのとは違う、しかし私たちが想像も出来ない程に熱く、深く、私たちに関わり、御子を惜しまずに与える程の方だからです[vi]。だからこそ、

13またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

イエスという名に呪文のような力があるのではありません。「わたしの名によって」は

「わたしに留まりなさい」

の言い換えです。イエスの下さるいのちに留まること、イエスを信頼し、その恵みの中に浸り、イエスの視線に私たちも視線を向け、イエスの言葉によって教えられていく。そういう生き方の中でイエスに何でも願い求めなさい、というのです[vii]。こんなことを言ってくださるイエスの愛、これもイエスを遣わした父なる神がどんなアツい方かを表します。

Ⅰヨハネ5章14節「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神のみこころをボンヤリとしか思えなければ、自分の願いが聞かれる宗教に惹かれるでしょう。しかし、イエスは神がボンヤリした神でなく、生きて働き、愛をもっていのちを惜しまない神を見せてくださいました。だから、私たちが自分の狭く、早とちりも沢山ある、小っぽけな願いよりも大きな神の御心に信頼して祈ることが出来る。そういう確信をも私たちは戴いているのです。

「わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」。支配型のリーダーは自分よりも部下が突出することを好みません。イエスは違いました。イエスは徹底的な謙ったお方です。このイエスを信じる私たちがどんな大きなことが出来るだろうか、と大きな夢や野心を膨らませるよりも、私たちもまた、人を大切にし、人に対して「あなたは大切なことをするよ。イエスはあなたに、誰にも出来ない大切なことをさせてくださるよ」と心から言うように変えられるとしたら…それこそ、それよりも大きな変化はないでしょう[viii]

「主よ、造り主なるあなたは、私たち一人一人にどんなにか深い愛を注ぎ、人知を超えた御計画を抱き、どんな業を備えておいででしょうか。御子イエスを通して、私たちに出会い、ご自身を見せてくださったことを感謝します。私たちの目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。どうぞ、私たちの心をあなたで満たしてください。私たちが心で造り上げた神の偶像を、主イエスご自身によって塗り替え、新しくして、あなたの業を行わせてください。」

[i] ヨハネの福音書は新約聖書でも最も遅く書かれた書とされます。イエスが地上にいた時代から半世紀も過ぎ、イエスに会ったことがない、直接教えを聞き、癒しを見たことがない…そういう信徒が増えた中で書かれた書です。それから二千年近く、今の私たちもますますそうです。そういう私たちに、最後の晩餐の席でイエスが語った、宣言と約束とに、今日も聞くのです。

[ii] ヨハネの福音書1章14節(ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。)、18節(いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。)、5章19節(イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子には、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。)、22~23節(また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。23それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。)、8章26節(わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」)、12章49節(わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。)、他。

[iii] 更に詳しくは、有賀鉄太郎『キリスト教思想における存在論の問題』を参照。

[iv] https://www.lets-bible.com/twelve_apostles/f05.php 。

[v] イエスは先に弟子たちの足を、自らたらいに水を汲んで洗い、手ぬぐいで拭いてくれました。その足が、やがてイエスが行ったことのない遠い地へ歩いて行き、イエスのいのちの言葉を伝えることを知っていて、自分には出来なかった働きをすることを思いながら、洗っていたのでしょうか。しかし、その前には、その足はイエスに背を向け、逃げてしまいます。そしてまた集められて、主の働きをしながらも、何度も迷う足――迫害から逃げ、迷い、躊躇ったり踏みとどまったりする足――そうした一生で、この者でなければ出来ないことをしていくと、思いながら、一人一人の足を洗われたイエスの心を思います。そしてそれは私たち一人一人へもイエスが抱いてくださっている思いなのです。

[vi]大きい メイゾナス 1章50節(イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」)、4章12節(あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」)、5章20節(それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。)、36節(しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。)、6章18節(強風が吹いて湖は荒れ始めた。)、7章37節(さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。)、8章53節(あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」)、10章29節(わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。)、11章43節(そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」)、13章16節(まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。)、14章12節(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。)、28節(『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。)、15章13節(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、15章20節(しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。)、19章11節(イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」)、31節(その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。)、21章11節(シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。)

[vii] ヨハネの手紙第一5章14節:何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

[viii] 「わたしの名において」は、この後7回使用される。13~14節(またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。)、26節(しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。)、15章16節(あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。)、16章23~24節(その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。)、26節(その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。)