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2024/2/4 ヨハネの福音書13章36~38節「主よ、どこにおいでに」

イエスが明日十字架にかかろうとしているその前夜、最後の晩餐の席で、イエスはもうすぐ別れる弟子たちへの最後の時間を大切にされた。そのことがこの13章から17章まで続いています。イエスの死は、悲しい別れという以上に、人を罪と死の生き方から救い、永遠のいのちを与えるための死、栄光の贈り物です。ですからイエスは、弟子たちに別れを告げるとともに、ご自分の死による新しい生き方、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えます。

しかしこう言われても、弟子たちはまだその意味が分からず、別れの言葉に驚いて、悲しみで心がいっぱいになったことが、今日の36節のシモン・ペテロの言葉に現れています。

36シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」…

この「どこにおいでになるのですか」の質問に、イエスはどこにとは答えず、こう答えます。

「わたしが行くところには、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

不思議な答です。しかし拒絶でもありません。7節でも言われました。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

この「後で」とは十字架の死と復活、罪の赦しと新しいいのちのわざを果たして、聖霊によってそれが弟子たちに届けられ、分からせてくれる将来のことでした。今日の36節の「後にはついて来ます」も十字架と復活の救いに与らせていただいた後に、ペテロはイエスについて行く、イエスが愛されたように愛する、イエスが歩んだ足跡に従う、という言葉です。しかしペテロは言い返します。

37…「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」

38イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

実際、この数時間後にイエスが捕まった時(18章17~27節)で、ペテロは三回イエスとの関係を「違う、弟子ではない」と否定するのです。一番弟子ペテロの三度のイエスの否認。これは四つの福音書が揃って伝える、ペテロの裏切りの記事です。人間の弱さ、信仰の脆さ、自分の挫折や後悔を重ねずにおれない、強烈なエピソードです。このペテロの否認の予告を、ヨハネの福音書は特にイエスの愛を語って来た中に置きます[i]。イエスは弟子たちの足を洗って計り知れない愛を示し、その「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「新しい戒め」を与えました。その言葉をきっかけにペテロの裏切りの予告が語られるのはヨハネの特徴です。ペテロは、愛の新しい戒めよりも「どこへ」が気にかかってしまいますが、

「あなたのためならいのちも捨てます」

と言い返す言葉(これもヨハネだけが伝えます)も、極端な台詞というより、イエスご自身が「いのちを捨てる」という表現で最も深い愛を何度も言い表していたのです。

「良い牧者は羊のためにいのちを捨てる」[ii]

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」[iii]

であればペテロは、自分のイエスに対する愛の強さを「あなたのためならいのちも捨てます」と主張したのでしょう。愛したい、という願い自体は美しいものですし、人が自分のいのちや命のように大事にしていたものをも、他者のために投げ出す行為には心打たれるものです。しかし、そこに自分の誇りとか虚栄心が入り込んでしまうことも多くあるでしょう[iv]

ペテロのこの言葉――純粋にイエスを愛したい思いと思い上がったプライドやあれこれがないまぜになった決意は、数時間後に粉々に砕けます[v]。これはヨハネの福音書では特に、ペテロの愛を試したことだと言えるでしょう。イエスが言われる「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」この言葉に静かに聞かず、自分の信仰や愛を握りしめて頑張ろうとしても、その態度自体が大きな勘違いです。また、イエスが言ったように、互いに足を洗い合おうとしないなら、イエスについて行くこともあり得ません。イエスの私に対する計り知れない愛と、「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉を離れたなら、遅かれ早かれ私たちはイエスを知らないと言う事になるのです。

でもそれは、残念な失敗でしょうか。

「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」

とイエスが言った時、その目はペテロへの蔑みや高慢ちきへの呆れた失望があったのでしょうか。いいえ、ここでは終始、イエスは弟子たちを愛していたことが大前提です。イエスのために死ぬことなど今のペテロには出来ないこともイエスはご存じです。まもなくイエスを知らないと言ってしまい、ペテロが大泣きせずにおれないこともご存じだったでしょう。だからこそ、そのペテロにイエスは決して失望したり、責めたりしないことが、この言葉には込められているのではないでしょうか。また、「三度わたしを知らないと言います」という言葉が予告通り成就したように、最初に

「今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」

と言われていた約束も、確かに成就するのです。それもまた主イエスの約束なのです。

ヨハネの福音書最後の21章は、復活のイエスとペテロの会話です。イエスを知らないと言った後のペテロとイエスとの会話でこの福音書は閉じるのです。イエスはペテロに

「あなたはわたしを愛していますか」

と問われます。もうペテロは「知らないのですか、あなたのためならいのちも捨てます」と胸を張ったりはしません。

「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」

と朴訥にいうのです。そして、そのペテロにイエスはご自身の羊(イエスの民、信徒たち)の養育を託すのです。そしてその後、イエスはペテロが晩年に、自分の望まないところに連れて行かれること、どのような死に方で神の栄光を現すか、予告するのです。そしてもう一度

「わたしに従いなさい」

と言われます。ですから今日の所でイエスの言葉を聞きながら、ペテロが大きく勘違いして答えていたことが、全部回収されるわけです。イエスはペテロを、愛することへと引き戻しました。自分の我を張ることから、教会の牧会・羊を養うことへと方向を直しました。「いのちも捨てます」と言った威勢のよさは木端微塵に砕けましたが、この事を通してペテロはイエスの深い大きな愛を知り、新しい戒めに生きるように変えられ始めるのです。

「後にはついて来ます」

と言った通りにイエスはしてくださるのです。この後の長い生涯をかけて、ペテロは教会の指導者として仕えます。

後にペテロが書いた手紙でペテロは

「互いに愛し合いなさい」

と勧め[vi]、長老たちに

「同じ長老の一人として」

勧めをします[vii]。絶筆である「第二の手紙」も困難な中にある信徒を丁寧に励まし、

「愛する人たち」

と4回も繰り返して養っています[viii]。その手紙を、ヨハネの福音書の読者である教会も読んでいたかもしれません。そしてペテロは最後、教会のためにいのちを捨てます。最後は迫害下にあるローマの教会の牧師として、殉教したと伝えられます。

そのペテロの最後の様子を小説にした『クォ・ヴァディス』という小説があります[ix]。クォ・ヴァディスとは「主よ、どこにおいでになるのですか」という意味です。今日のヨハネ13章36節の問い。この言葉がインスピレーションになった小説で、映画にもなり日本で漫画にもされました[x]。あの時のペテロは何も分かっていなかった。けれどイエスはその言葉を受けて「今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」と言ってくださっていた。その通りに、ペテロは誇りを砕かれましたが、それは失敗で終わらず、そこでこそイエスに出会いました。そして、イエスに従う者とされました。イエスが行くところについて行きました。

私たちの人生は、私たちの見たいと願う筋書きは引っ繰り返る連続です。その事を通し、もっと大きな主の御手の中にあると知り、主が愛されたように、互いに愛し合うこと、仕え合い、養い合うことを教えられる歩みです。それこそ、主について行く人生、主が下さる旅路です。

「主よ、あなたはどこに行かれるのですか。どこに私たちはついて行くのですか。今、この問いに砕かれた、柔らかな思いで、この口に授けてください。自分を過信した思い上がりを砕き、あなたの約束を信じない諦めからも救い出し、私たち一人一人に用意されているあなたの招きを信じ、求めさせてください。あなたが私のためにいのちを捨ててくださいました。その計り知れない赦しと恵みを、今からの聖餐に戴き、私たちをその恵みに与らせ、養ってください」

[i] ペテロの三度の否認を、他の福音書はイエスへの信仰・忠実さという面から見ているといえます。

[ii] ヨハネの福音書10章11節、15節。また、同17~18節。

[iii] ヨハネの福音書15章14節。

[iv] いいえ実際、たとえ自分のからだを焼かれるために渡してもそこに愛がない、ということはあるとⅠコリント13章で使徒パウロは言うのです。そして、それは空しく、無用だと言います。Ⅰコリント13章3節:たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

[v] 砕けて良かったのです。もし頑張り通りしてイエスとともに殉教したとしても、そこはイエスについて行くところではないのです。イエスについて行くこと、それはイエスが愛したように、互いに愛し合うこと。「私は自分のいのちも捨てます」などと言う「俺が俺が」という背伸びをこそ捨てて、私の弱さも汚れも過去も私以上に知っておられるイエスが、私を愛していることに立ち戻り、そのように、互いに愛し合うこと――そこにこそ、イエスは招いてくださるのです。

[vi] ペテロの手紙第一4章8~11節:何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。10それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。11語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。

[vii] ペテロの手紙第一5章1~2節:私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。3割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

[viii] ペテロの手紙第二3章1節(愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。)、8節(しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。)、14節(ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。)、17節(ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。)

[ix] シェキェヴィチ『クォ・ヴァディス 上』福音館古典童話シリーズ、津田 櫓冬訳、2000年

[x] 藍真理人作画・シェンキェヴィチ原作『クォ・ヴァディス1 愛の追っ手をのがれて』(全三巻)、映画「クォ・ヴァディス」 https://filmarks.com/movies/31137