2026/8/9 イザヤ書43章16〜28節「ジャッカルやダチョウも」招詞:ピリピ3・13c~14
16海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主…
と言われます。聖書を映像化した「十戒」や「プリンス・オブ・エジプト」などを観た方にはクライマックスのシーン、エジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民が、海が割れて出来た道の間を通って行った、あの場面のことです。両側に海が壁としてそそり立つ中を進んで行った、あのドキドキするシーンです。その後を追って迫って来たエジプトの大軍、戦車や馬の大軍勢は、道を進むことが出来ず、海に呑まれてしまいました。あの海の中の道を思い出させます。あの時はエジプトで奴隷生活を続けていた民が救い出されました。その子孫である、このイザヤの時代の民は、奴隷ではありませんが、違う意味で囚われていました。当時、アッシリア帝国やバビロン帝国が脅威となって、圧倒していたのです。到底太刀打ちできない武力に囲まれて、気力も希望も失って、考えはすっかり後ろ向きでチマチマしたものになっていた。そういう彼らに対して、預言者イザヤは、主の言葉を告げます。出エジプトを思い出させて、
17…彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
海の中に出来た道を逃れた出来事は、今でもビジュアルにされる迫力満点の場面でした。それを主は「先のこと」「心に留めるな」と言われて、「新しいことを行う」と言われるのです。17節の「彼ら」とは14、15節の「バビロン…カルデア人」の事で、この時のイスラエル人にとっての脅威となっていた勢力です。今ここにある危機です。その彼らを「倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる」と言われ、新しいことを行う、と言われるのです。更に「わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」と表現される、「新しいこと」なのです。これは、ある意味では文字通りの約束です。イスラエルの民が広い荒野・砂漠地帯の遥か遠いバビロンの地に連れて行かれたところから、主は不思議にも道なき道を設けて、一部の民がエルサレムへと帰るようにしてくださいました。聖書の動きの中でも、南の奴隷生活から引き出された出エジプトの約一千年後に、北の捕囚生活から帰って来たバビロン帰還は、ダイナミックな主の救いを表わす双璧です。同時に、ここで言われているのは、それ以上のことでもあるでしょう。
20野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。21わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。
ここには「道を設ける」に替わって「水を流れさせる」のイメージが膨らまされます。その水を主の民が飲んで、潤い、生き生きと、瑞々しく生まれ変わって、主の栄誉を宣べ伝えるように変わるのです。20節のジャッカルやダチョウは律法の食物規定では「汚れた動物」とされた動物でした。食べたり生贄に献げたり出来ない動物だったはずです。そんな「ジャッカルやダチョウもわたしをあがめる。」のです。汚れているとされた動物が主を崇める――思いつきもしない大変化です。常識を覆す新しいことです。ただ民が道を帰って来るとか、獣や鳥が賛美をする以上のことです。何しろ当時は、人々の信仰は本当に生温かったのです。
22節から言われるのは、全然礼拝をしていなかったことではありません。礼拝に来てはいるけれど主を心から「呼び求めなかった。」「全焼のささげ物の羊…いけにえを献げて」も、「わたしをあがめようと…しなかった」、主への恐れも感謝も欠いた宗教生活の事でしょう[i]。主が求めるのは、生贄や儀式を義務的にこなすことなんかでは全くないのに、人々は心無い行事を繰り返すだけ。そして、自分の生き方、人との関係、神との関係の罪を悔いたり嘆くこともない。そんな義務感だけでの宗教は、疲れ果てるだけですし、主も煩わしいと思われます[ii]。
そこで、主はどんなことを言われるでしょうか。怒りや叱責、反省か、時間切れでしょうか。
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。26わたしに思い出させよ。ともにさばきに向かおう。あなたが正しいとされるために、あなたのほうから申し立てよ。[iii]
こんなふうに力強く、主の方から罪を拭い去り、思い出さない、と宣言がされるのです。人間が頑張っているから、見込みがあるから、反省の色を見せたから、いい所もないわけじゃないから…というのなら分かります。でもそんな望みはちっともない、待っていたら永久にそんな時はない。だから主は「わたし自身のために」と言われます。言ってくださいます。ここに私たちの救いの希望があるのです。私たちの側の行いや業によらない、ただ一方的な、神の恵みによって差し出される救いがあります。神との関係が回復して、主の恵みによって生き生きと生かされるいのちが始まります。罪の赦しを求めも考えさえもしなかった民のために、主の方から「わたしに背いた罪をわたしは赦したい、わたしとあなたの間にある罪をわたしは拭い去りたい、そうしてわたしは新しいことをし、あなたを新しくする」と立ち上がる神なのです。
勿論それは、神に背いたまま、罪があるままでもいい、ということではありません。だから、27、28節ではキッチリと彼らの背きの罪を繰り返し、それに対する主の対処が述べられます。
27あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲保者たちはわたしに背いた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるように、イスラエルがののしられるようにした。」
「最初の先祖」は、ヤコブ(イスラエル)と言われるように、兄と父親を騙し、四人の妻と12人の子どもを設けて、その中の一人だけを偏愛して、家族をボロボロにしたあのヤコブでしょう。そのダメージは子々孫々にまで受け継がれ、主は度々その罪に厳しく向き合われます。でもそれは、主が彼らをご自分の民とされたからこそでした。そして、主が愛されるからこそ、その愛を損なう罪を捨てよう、赦してほしいと願い、喜び生きることが始まります。神は救いを主ご自身のために――私たちの可愛さとか健気さとか真面目さのためでは一切なしに――主ご自身の中の根拠に基づいて、私たちに下さいます。それは、罪を拭い去る救いであり、罪の感覚も鈍感な者たちにさえ、神に背いた生き方を捨てて、礼拝を楽しみ、喜ぼうという新しい生き方をもたらす救いです。その新しい生き方の丸ごとが、主が下さる救いの贈り物なのです。
この約束の延長にイエス・キリストが来られました。19節欄外にあるⅡコリント5・17は、
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
と言います。私たちがキリストのうちにある者となった。それは「新しく造られた者」とされたのだ。パウロはイザヤの言っていた「新しいこと」を他にも沢山繰り返します。福音は私たちを新しくします。でもそれは私たちが強く、ピカピカに輝く人になる事ではありません。むしろⅡコリントでは私たちの弱さをいいます。土の器だと言います。未だに信仰生活が気のないルーティンになることもあります。赦されたはずの罪を思い出しては、責める気持ちと葛藤します[iv]。だからこそ、私の何かに左右される救いではなく、ただ主の側から贈り物としていただいた救いに与っていることに立ち戻ります。私たちが求める先に、主イエスが来られ、荒野の人生を歩まれ、十字架の死にまでご自身を捧げてくださいました。その恵みにより、私たちは新しく造られた者とされました。奴隷のように強いられたり捕虜のように縛られたりした生き方・考え方から、生涯かけて救い出されている途上にあるのです。私たちが過去や罪や自分自身から救われる事。それは主にとって、海に道を造る大奇蹟や、獣や駝鳥が神を称えるにも遥かに尊い、新しいことなのです。
「海に道を、荒地に川を流れさせる神、主よ。あなたが私たちを今も生かし、赦しと新しい歩みを下さいます。人の脆く貧しい信仰にも優って、あなたご自身が、罪を拭い去り、あなたを喜んで生きるよう、新しいことを創造する神です。それは、私たちを新しくする御業だと知り、御名を崇めるばかりです。後ろのものを忘れ、古い生き方を脱ぎ捨てて、今を、渇いた心を潤す恵みを戴きながら、歩ませてください。心からの礼拝に今日もどこででも与らせてください」
[i] 22しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼び求めなかった。むしろ、イスラエルよ、あなたはわたしのことで疲れ果てた。23あなたはわたしに全焼のささげ物の羊を携えて来ることはなく、いけにえを献げてわたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことであなたに苦労をさせず、乳香のことで、あなたを煩わせてもいない。24あなたはわたしのために、金で菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪でわたしに苦労をさせ、あなたの咎でわたしを煩わせただけだ。
[ii] 「けれども、あなたがたはわたしを罪でもってわずらわせた」ということである。主は出エジプトによってエジプトでの奴隷から解放し(出エジプト6・6)、もう奴隷ではないことのしるしとして、道徳的、祭儀的な律法を与えられた(出エジプト20・2、3以下)。しかし、それでも彼らには自由があった(詩篇10・45)。しかしイザヤ1・10-15を見ると、彼らは祭儀を厳しく守るという新しい奴隷制度をつくりだしたのである。律法を道徳的、霊的な意味で守るのではなく、神を満足させるためでもなく(1・1、13)、民に祝福をもたらすものでもない(1.155)。反対に、彼らが祭儀を祝福を増すための単なる技術的な手続きとし、主が彼らを重荷と感じてしまうようにしてしまったのである。こうして、もう一度自分たち自身に奴隷のくびきを負わせて、神ご自身をも彼らの奴隷にしようとしたのである。」、モティア、363ページ
[iii] 「しかし、これらすべてが真実であるならば、神はどうしてイスラエルが捕囚を生き延び、ご自身が彼らを救い出すという希望を確信をもって与えることができるのでしょうか。神は聖書の偉大な宣言の一つで答えます。神は43章10節や他の箇所に見られる自己述語の宣言で始めます。「わたしは彼である」。66 ここでは、独立代名詞(’ānōkî)の長い形が用いられ、それが二度繰り返されることで、その重みがさらに増しています。神は、唯一無二の自存する者としての性格で語っているのです。40章と42章で先に述べたように、神の永遠の性格は分詞の使用によって表現されています。神の本質は、神の行いによって明らかにされ、神の行いは、神が何者であるかの表現なのです。この場合、神の行いは、民の背きと罪の痕跡を、一度だけでなく、絶えず、そして永遠に、記録から消し去ることです。そのため、神はそれを思い出すことができません(44章22節、詩篇51篇3節、11節[英語訳1、9]も参照)。彼はこれを、私のため(文字通り「私のために」)に、ご自身の性質の表れとして行ってくださるのです。」、オズワルト
[iv] 「バビロンの外的救済(14-15節)と、内的な赦しの行為(25節)は、異なる根拠と動機を想起させるかもしれません。しかし、私はヤハウェの動機は、深い愛と激しい苦痛の関係においてよくあるように、複雑で不明瞭であると考えたいのです。寛大な行為が相手を高めるためなのか、それとも相手に対する自分の傾向を満たすためなのか、決して確信を持つことはできません。どちらも特徴的に作用し、どちらもヤハウェのために作用するのです。おそらく最終的には、ヤハウェとイスラエルの関係のように、深い愛情と情熱に満ちた関係においては、両者は融合し、「あなたのため」と「私のため」の区別がつかなくなる。ヤハウェは原理でも自動人形でも、一次元的な力でもない。イスラエルの想像の中では、ヤハウェは生きた役者であり、力強く真剣でありながらも完全には整理されていない様々な傾向や感情を表現し、声を与えることができる。イスラエルは、この特異で、不可解で、率直で、捉えどころがなく、決断力があり、抗しがたい神の働きを、常に受け身の立場で受けている。結局、この赦しと厳しさのやり取りの中で分かるのは、この神が「新しいこと」の神であるということだ。イスラエルはそれを証言し、諸国はそれが起こるのを目にすることができる。」、ブルッゲマン
