ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2026/8/2 イザヤ書43章8〜15節「だから、あなたがたはわたしの証人」交読マタイ5章

目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。

と始まります。前々回、42章18節からも同じ言葉がありました。

耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。」

主の民イスラエルが、主の恵みに与っているのに、そのみことばを聞いていない、その恵みが見えない(見ようとしない)鈍感さ、頑なさを責めていました。その言葉が、今日また繰り返されます。しかしその間に43章1~7節がありました。前回読んだように、その目が見えず、耳があっても聞こえない民に対して、

恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

と言われました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

――聖書の中でも飛び抜けてド直球の恵みの告白がありました。その言葉を挟んだ今、8節からは「目があっても見えない民」という呼びかけは、新しい響きを持つのです[i]

 この8節の呼びかけを、9節で

すべての国々をともに集わせ、諸国の民を集めよ。

と呼び掛けられている、諸外国の民と読む人もいますが[ii]、ここでは法廷(裁判)が開かれる形でイスラエルの民も、すべての民も集められている、と読むのが自然でしょう。諸外国の民もそれぞれに宗教を持ち、偶像を神々と崇めてはいますが、それらは主とは違い、力もなく、人格もありません。「恐れるな。わたしがあなたがたとともにいる。」と言うことも出来ないし、過去に「わたしがあなたがたを創造した」と言うことも出来ないし、将来に「遠くの国からもわたしがあなたがたを連れ戻す」と言うことも出来ません。

…彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、初めのことを聞かせることができるだろうか。彼らが自分たちの証人を出して証言し、人々がそれを聞いて、『本当だ』と言うようにせよ。

そんなことは出来ないのです。人間が造るものは、どんなに頑張っても、造り物でしかなく、造り主とは比較になりません。この法廷では、神である主が神であること、主だけが神であると立証されるのです。

 しかし、ここで主の側の証人として呼び出されるのは誰なのでしょうか。それが10節です。

10あなたがたはわたしの証人。――主のことば――わたしが選んだわたしのしもべである。

あなたがた、なのです。目も見えず耳も聞こえないと言われた民を証人席に立たせるのです。どうでしょう、主が開く裁判に立つとしたら、自分はどこに立たされますか[iii]。傍聴席ですか。裁判官席ですか?[iv] 被告席に立たされ、罪を裁かれるでしょうか。それが、主は

あなたがたはわたしの証人

と言われ、判事席でも傍聴席でも被告席でもなく、証人席に招くのです[v]

勿論、主が彼らを証人とするのは、人間の証言が必要だから、証人として有利なことを言ってくれないと不利だから(困るから)ではありません。神はそんなものは不要です。天地をその言葉で御心のままに創造された神は偉大で、奉仕やヘルプは一切無用です[vi]。神は神であり、人間やこの世界の中にあるものとは違う、創造主なる神です。この世界を造り、人にいのちを与え、人がそれに応じきれなくとも、決して諦めたり挫折したりせずに、むしろ死んだ人の中にいのちを回復される神です。その神の神たるいのちのご性質が、神の民に証しされます。

10…これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしよりの地にも、それはいない。11わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。

ここで主は、ご自分だけが神であること、他に神は先にも後にもないことだけでなく、ご自分だけが主であり、つまり救い主であって他にはいないことを一気に語っています。主が唯一の神であることと、唯一の救い主であることは表裏一体です。11節の欄外にあるのが、今日の招詞、使徒の働き4章12節です。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

天下にイエス以外、救い無し。こうペテロは証言しました。それはある意味で、勇敢で雄弁で立派な証しでした。でもペテロからすれば、決して自分が優れた証言をしなければ、なんて意識は全くなかったでしょう。主イエスの弟子でありながら、鈍感でした。自惚れていました。頑固でしたが、イエスが捕まった時には、三度もイエスなんて知らないと関係を否定した裏切り者でした。まさしく、目の見えない弟子、聞く耳をもたない不肖の弟子でした。けれども、そんな自分たちを愛し、罪の赦しを与え、主の弟子として選び、証人として遣わしてくださる所に、主イエスの救い主たる所以ゆえんがありました。人の自慢、人間の信仰深さ、頭のよさや能力の優劣…そうしたものが、耳を塞ぎ、目の梁となっているのが、砕かれて、自分の無力さ、無知、心の貧しさを痛み知る者が、主のことばを聞くときに、そのまま主の証人となるのです。

12このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はいなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。――主のことば――わたしが神だ。

私たちのうちに、主がいてくださいます。「わたしがいる」と仰ってくださる神がいます。私たちがどんなであろうと、変わることなく「わたしがいる」と言われる神がおられます。その神の恵みによって、私たちが深く変えられていくので、私たちは主の生き証人となります。そうして、私たちを通して、主はご自身のことを世界に証言されるのです。

13これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。」

主の手から救い出せる者、というのは皮肉な表現に聞こえますが、主の救いから運び去る、奪い去る者はいない、ということです。パウロは、ローマ人への手紙8章で「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか…」云々と告白する言葉への伏線でしょう[vii]。そして、これは本当に現実的に、実際のこの世界の長い歴史の中で、主が働いてくださって、私たちを救い出して、そのように私たちを通して証ししてくださることだと、14~15節で約束されています。捕囚にされる遠いバビロンの地にも、主はバビロンのカルデヤ人に妨げられることなく、主の民を贖い出すと約束されます。[viii]

14あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデア人を彼らの喜びの船で。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

こう予告して、主はこの世界に、私たちの生活に(長いスパンで、ではありますけれど)、生きて働いて、人間の力や誇り、権力や繁栄、恐れたり慕ったりするものが神ではなく、ただ御自身だけが神であることを、私たちを通して明らかに証しされる、というのです[ix]。それが、神が神であることであり、私たちが救われて、神の民となる/なった、ということです。

「人の生きる主な目的は何ですか。答 人の生きる主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」[x]

 神は私たちを、御自身の栄光を現すためにお造りになりました。その目的を神は必ず果たされます。私たちが、立派なこと、神業を成し遂げる、というよりむしろ、自分の目の見えなさ、耳の聞こえなさ、心の貧しさ、外なる人の衰えを覚えながら、その私たちと神がともにいてくださり、高価で尊いと言ってくださる、その言葉に生かされるのです。そして私たちも互いに、また他の人に、神がともにおられる、あなたは高価で尊いと心から告げる者となるのです。私たち自身を見るなら、罪があり、問題だらけで、見えていることは僅かです。その私たちと主がともにおられ、壊れた私たちを築き直し、たいせつな者として回復してくださいます。天下にこのイエス以外、救いはなく、イエスは私たちの中におられます。

「耳があっても聞こえない私たちです。見えていると思い込んでいた勘違いに気づかされ、それでもまた分かっていると思いたがる…。そんな私たちを選び、証人とされることに、神、主の測り知れない栄光があることを今日、味わいます。何も見えず、独り不安で、心の真っ暗闇しか思えない、世界の底にいる思いをするとしても、主イエスがともにおられ、その私たちを通して、現そうとしておられることがある。この慰めを、私たち一人一人に果たしてください」

[i] この部分の構造には、諸説があります。

 

大島 油井 モティア
42・14~43・13

42・14〜17

42・18〜25

43・1〜7

43・8〜13

43・14〜44・23

43・14〜21

43・22〜28

44・1〜20

44・21〜23

 

42・1〜9

しもべの歌

42・10〜17

神への賛美

42・18〜25

悟りのないイスラエル

43・1〜9

イスラエルの贖い主、主

43・10〜13

イスラエルは主の力を証しする

43・14〜21

バビロンを滅ぼす王

43・22〜28

イスラエルの不信仰と神のあわれみ

42・18〜44・23

展開されていく主のご計画

 

42・18〜43・21

イスラエルの束縛と解放

 

42・18〜25 捕囚

盲目のしもべ

43・1〜7 この必要が満たされること

変わることのない愛

43・8〜13 唯一の神

ほかに神はいない

43・14〜21 贖い

新しい出エジプト

 

43・22〜44・23

イスラエルの罪と贖い

 

43・22〜24 罪

43・25〜44・5

この必要が満たされること

44・6〜20 唯一の神

44・21〜23 贖い

 

[ii] 油井など。

[iii] 「形式としては、この章句 はもう一つの法廷劇である(41・21-20参照)。法廷が召集され(8-9b)、問題が提出され(9c-f)、主の証言が出され(10ale)、その主張が確かめられ(100fl11節)、問題が決着し(12節)、判決が下される(13節)。この疑似法律的呈示の中心は、イザヤが主に関して主張していること(1-12節)が単に夢物語のようなものではなく、律法に照らして真実であり、証拠に基づく結論であることである。」、モティア、358ページ

[iv] 実際、彼らは神をさばいていました。神に造られ、神の民とされて、それさえ裏切って、それでも忍耐され、アッシリア帝国に包囲されたところからも救い出していただいた、それでもなお、耳も目も閉ざして、自分たちの方が裁判官になってきたような彼らです。C・S・ルイス『被告席に立つ神 C・S・ルイス宗教著作集別巻2』(本田峰子訳、1998年)、表題エッセイは82ページから。

[v] 「神の証人イスラエル

最後に8~13節において法廷論争の様式が用いられ、この部分の全体が俯瞰されています。ここで 裁判官は神であり、被告は諸国民、そしてテーマはバビロン捕囚からの解放に向けた歴史の動きです。

第二イザヤはこれまで法廷論争の様式で何度か語りかけてきましたが(41・1~4、1~20等)、この部分で新しいことは、イスラエルが「私(神)の証人」と呼ばれ、明確にこの論争に参与していることです(9、10、12節)。42章18節で「耳の聞こえない者たちよ」「目の見えない者たちよ」と言われている者たちが、もう一度ほぼ同様な呼びかけによって、この「法廷」に連れ出されています(8節)。それは裁判の被告としてではなく、「私(神)の証人」としての出廷です。ですから、大きな飛躍があります。それは神による一方的な選びに他なりません。1~7節の救済の託宣に聞くことによってイスラエルは「私(神)の証人」として立てられたと言えるでしょう。しかも、その証言の中心は「私より前に造られた神はなく 私より後にもない」という重大事です。」、大島、下、36ページ

「ここでは、これまでの論争の演説には見られなかった新しい特徴があります。ここでは、「盲目で耳が聞こえない」イスラエルが、ヤハウェの証人として、証拠を提出し、ヤハウェに代わって真実を語るよう召喚されます(8節)。

8節で証人として召喚された人々は、盲人で耳が聞こえないとされています。彼らがヤハウェの証人として特定されるのは10節になってからです。イスラエルが証人として描かれている点は注目に値します。6章9-10節でイスラエルはヤハウェによって盲目と耳が聞こえない運命にあるとされ、42章19節でもその宣告は覆されておらず、イスラエルは依然としてこの節にあるようにこれらの障害を抱えているとされています。それにもかかわらず、障害を抱えたまさにこのイスラエル人が、今や証人として法廷に出廷し、ヤハウェが真の神である資格があることを目撃証言するのです。障害を抱えているにもかかわらず、イスラエルはそのような証言をするのに十分な、そして唯一の資格のある証人であるとみなされているのです。」、ブルッゲマン

[vi] 使徒の働き17章24~27節、参照。

[vii] ローマ人への手紙8章31~39節:では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。33だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか。苦悩ですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。36こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

[viii] 「イザヤはおそらく、メシアの到来はキリストの再臨後すぐに起こると予想していたのだろう。それが起こらなかったからといって、彼の幻の本質が損なわれるわけではない。この包括的な救済の概念は預言者に過大な期待を抱かせていると主張する者に対しては、ハガイ書2章6-9節やゼカリヤ書12-14節のような箇所を挙げることができる。これらの箇所には、まさにそのような幻が明確に示されている。この点を証明するものではないが、続く部分が、福音のメッセージである、身に余る恵み(43章22-28節)と聖霊の授与(44章1-5節)に焦点を当てていることは、確かに示唆に富む。総じて、これがこの問題に対する最も納得のいく解決策だと私には思える。神は確かに、出エジプトをはるかに凌駕する証拠を示し、ご自身が世界の唯一の救い主であることを示そうとされたのだ。」、オズワルト

[ix] 「43:14から44:5の節では、イスラエルを通して、神が唯一の救い主であることを世に示すという神の約束が詳しく述べられています。この節は3つの部分に分かれています。最初の部分、43:14-21では、神の主張は単に過去に基づくものではなく、新しい救いの業を行うことによって主権を示すことが強調されています。2番目の部分、43:22-28では、イスラエルのために神が力を行使するのは、彼らの正しい行いによるものではないことが再び明らかにされています。しかし、3番目の部分、44:1-5では、神がその罪深い傾向に対して、人々に御霊を与えることによって、彼らが喜んで神の民であると認めるようになることを約束しています。43:8-13だけを見ると、神の救い主であることの証拠は過去からしか挙げられない(12節参照)と示唆しているように思えるかもしれません。しかしイザヤは急いで(43:14-21)新たな証拠が現れるので、イスラエル人は神が過去に彼らのためにしてくださったことにばかり気を取られて、神が彼らのためにこれからしてくださる新しいことを見失ってはならないと付け加えている。預言者の心の中でその新しいことが何であったかは、一部は明らかだが、一部は不明瞭である。一方では、彼が強大なバビロンの滅亡を念頭に置いていたことは明らかである。しかし、彼が念頭に置いていたのはそれだけだったのだろうか?」、オズワルト

[x] ウェストミンスター小教理問答1。