2026/7/19 イザヤ書43章1〜7節「わたしの目にはあなたは高価で尊い」
「だが今」
と始まります。この直前、42章18節から25節は、主の民の目の見えなさ、耳の聞こえなさが責められていました。既に神である主が、イスラエルの民を救い出してくださっているのに、心が囚われたまま、目が見えない――見ようとしない頑なさを嘆きました。それに続くのがこの43章です。「だが今」と始まる言葉なのです。
だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。…
当時のイスラエルも、その後の教会も、今の私たちも、たいして変わりはないのでしょう。主の恵みをいただいていても、みことばの力強く思いがけない約束をいただいていても、ピンと来ない、忘れやすい、キョロキョロよそ見をしてしまうのです。その私たちが懲りて、改心して、変わるのを神が待っているとしたら、私たちに希望はあるでしょうか。私たちが神妙にならなければ、神の怒りも収まらないのだとしたら、私たちは変われるのでしょうか。しかし、神はそんな条件を要求する神ではなく、神の方から立ち上がってくださるのです。神の側から、宣言してくださるのです[i]。「あなたを創造した方…あなたを形造った方」として行動してくださり、こう言われます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」贖った、とは借金で身売りしたり、捕虜になったりした人のために、近親者が犠牲を払って、その人を買い戻してくれることです。あなたの借金は全部私が支払った、と言い換えてよいでしょうか。名を呼ぶ、とは、捕虜で囚われたり身売りしていれば、本当の名前を呼んでもらえないことの裏返しです。勝手な新しい名前をつけられたり、番号で呼ばれたり、「おい、そこの」と顎で使われる――本当の名前で呼ばれることはないのです。そんな、人間扱いされない状態から、神は名前を呼んでくださいます。その人の名前を本当に呼んでくださる――その人をその人として、私を私として、扱ってくださる。そして
あなたは、わたしのもの。
この「もの」というと「モノ扱い」みたいな響きがありますが、モノ、よりも「わたしの」というつながり、関係、愛着が大事なのです。だから、
2あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
何が起ころうと、どんなに大変な災いを潜るとしても、主はともにいて、守ると言われます。水、川、火が表す禍に合わないわけではないのです。でもそれは、主が見捨てたとか、もうダメだということではないのです。主は、変わらずともにいる、あなたを守ると言われます。
3わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
「あなたはわたしのもの、わたしはあなたの神、主」、この親しい間柄は聖書に繰り返される契約関係です。この強い結びつきで、主はご自分を縛るのです。あなたとの特別な関係をわたしは決して変えないと言われます。そのために、エジプトを身代金や身代わりとする、というのは、贔屓が過ぎて酷いとも思いますが、これは我が子可愛さで他はどうでもいい、という事実というより、誤解も恐れない大胆な熱情の言葉ということでしょう[ii]。何より、かつての歴史的事実として、エジプトにいたイスラエルの民を主は救い出してくださいました。その時、彼らを奴隷として虐げていたエジプト人は禍を報いられました[iii]。イスラエルを解放するため、エジプト人は厳しく罰せられました。それは、エジプト人への罰だけでなく、主の民に対する深い深い愛、「わたしはあなたの神」と言って憚らない愛からの特別な事だったのです。この主の愛が、聖書の中でも最大級に美しい言葉になっているのが、4節です。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
主はこんな熱い言葉を言われます。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
しかしこの時の民はどうですか。主の恵みを忘れ、すっかりイジケて、信仰も薄過ぎて透けて見えるぐらいだったのでしょう? とても高価とか尊いなんて言葉は似つかわしくなかったのです。その彼らを、主の目は「高価で尊い」と見る目なのです。決して、彼らの中に高価で尊い何かなんてないのです。ただ、主の目が、ご自身が造られた彼らを(私たちをも)高価で尊いと見てくださる目だから、
わたしの目には、あなたは高価で尊い
と言われるのですね。私たちは高い価値があり、だれもが無条件に重要人物なのです。しかし、作り主なる神から離れて、人間はお互いに価値を値踏みして、自分の価値をも滅茶滅茶引き下げて、安っぽい生き方で値付けをするようになってしまいました。「お前は自分の価値を証明しなければいけない」「そのままでは何の価値もない」という嘘に駆り立てられるようになりました。その無価値感こそ、この時のイスラエルの民の根底にあった悲惨だと主は見ておられるのでしょうか。いや、様々な根深い問題があるにせよ、主が私を高価で尊いと見ていてくださる、私を愛していてくださるとの言葉が、あれこれの問題を無効化・無力化する、力強い恵みになるということでしょうか。
5節でもう一度、主は
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ
と言われます[iv]。東や西、6節では北、南と出てきて、世界中の遠い四方八方に散らされた主の民も帰らせる――何か引き留めようとするものがあろうとも、必ず帰らせるとの宣言です。因みに、6節に「わたしの息子たち…娘たち」とありますが、このような帰還で男性だけでなく、女性にも呼びかけがされるのは珍しく[v]、イザヤ書のこことあと2回だけです[vi]。主の言葉は、自分だけでなく、あなたが蔑んでいるすべての人にも告げられているのです。
こんな言葉を告げ、実現できるのは、まことの神、主だけです。他の神、イスラエルの民が心を寄せかけていた造り物の偶像には到底できません。8節以降ではそのことを告げます。唯一まことの神は、人に本当に深く関わってくださいます。その神、主だけが本当の神なのです。
この43章では、あれをせよ、これをせよ、と行動や応答は殆ど命じられていません。1節と5節の
恐れるな
だけです。主がこんなに真実なのだから、高価で尊い、愛しているなんて言ってくださっているんだから、あなたもちゃんと答えよ、申し訳ないと思え、などとは言わない。ただ恐れるな、だけです。じゃあ、何もしなくていい、でもない。魂の深くにある恐れ、自分は価値がないんじゃないか、愛されないんじゃないか、という恐れが、主の言葉によってひっくり返される。天地の造り主の目に高価で尊いとされている者、愛されている者として、主と共に生き始めるよう変えられるのです。そこでもなお「だからこそお答えしなきゃ失礼だ」と余計な義理をくっつける事が起きがちです。そんな上面な義理堅さもひっくり返されて、まず今、間違いだらけで何も出来ていない時点で、主の目には私は高価で尊いのだ、愛されているのだ、と知る。それは本当に私たちの生き方を根底から覆し、癒し、新しくする恵みです[vii]。
4節の言葉は、40年前(私が神学生の頃)余り聞かれなかった聖句ですが、いつの頃からか頻繁に引用されるようになりました[viii]。神の愛を伝えるだけでなく、高価で尊いと無条件に言われる言葉が発見されたのです。ここから生まれた絵本『たいせつなきみ』もあります。神が私たちを尊いと見てくださっている。美しい言葉です。同時に、この言葉を文脈の流れで味わって初めて気づけることもあります。高価で尊いとは、すべてがOKで尊いのではなく、人が変わるべき問題、不信仰や偶像崇拝から救われる必要は常にあるのです。主の愛によって深く変えられ、私たちも互いに尊いと見る目を必要としています[ix]。高価で尊いと見る眼差しは、私たちの眼差しも心をも変えずにはおらない眼差しです。ますますこの言葉に憩いたいのです。
「私たちの創造主、私たちを「わたしのもの」と呼びたもう主。なんと尊い眼差しを私たちに注いでくださっているのでしょう。他でもない、御子イエスが私の身代わりとなり、十字架をも厭わないほど、あなたは私たちを愛しておられます。その愛を見失う時もあなたは私たちを決して見捨てません。自分には価値がないなどと頑なになる傲慢から、どうにかして救い出し、私たちを新しくし、あなたからの愛を、新しい命を喜び祝い、届ける者と変え続けてください」
[i] 「これは、彼らが何かをしたからではない。彼らがより洞察力に富むようになったとか、より従順になったとか言われているわけではないし、神の救いが彼らの悔い改めを条件としているわけでもない。イザヤは、神の民は、神の罰の行為が彼らの選民の否定や神の愛の配慮の停止を意味するのではないかと恐れる必要はないと告げているだけである。10 この理解によって、42:18-25 はより大きな部分(42:10-44:22)の中で適切な位置づけとなる。この部分の全体的なテーマは神の恵みによる救いであり、冒頭の部分(42:10-17)は、救うという神の能力と意志に対する挑戦を扱っていた。問題は神の側にあるのではないことを示した預言者は、ここで本題に戻る準備ができた。すなわち、神が民のために行う働きである。」、オズワルト
[ii] 「このようなイメージは、私たちには粗野で物質主義的に聞こえるかもしれませんし、遠く離れた私たちは、ヤハウェによって容易に他所に送り込まれて服従させられる「他の人々」について疑問に思うかもしれません。しかし、イスラエルの想像力は、そのような粗野さをひるむことはありません。彼らはヤハウェを別のところで非難することを厭いません。「あなたはあなたの民をわずかな代価で売り、高い代価を要求しない」(詩篇44:12)。ここで主張されているのは、人身売買という行為が間違っているということではなく、ヤハウェが安値で売りすぎたということだけです。つまり、ヤハウェは自分の貧しい民を大切にしているからこそ、他の民に値段をつけることを厭わないのです。実際、「身代金」に関する福音主義のレトリック全体は、高額な交渉に満ちています。ペーター・シュトゥールマッハーは、3節の「身代金」の使用が、マルコ10:45でイエスの働きに関して言及されている「身代金」の直接の源泉であると示唆しています(和解、16-29)。この比喩を極端かつ論理的な結論まで追うのではなく、イスラエルを極端に大切にするという一つの特徴としてのみ捉えるべきであることは明らかです。」、ブルッゲマン
[iii] 「② 過去の証拠によって。「人をあなたの代わりにし」は未来のことと理解される場合が多い。もちろんへブル語の動詞の完了形であっても未来のための確信(「わたしは代わりにすることにすでに決めている」)を表すことがあるが、「わたしは代わりにすることに決めている」という意味だと解釈する場合にのみ適合する。それというのも、エジプトは将来における御民への主のご配慮の中に入っていないからである。さらに、ここの完了形を英語などで言う未来形のように訳すと、節の最後で「代わりにし」との対比を壊してしまう。むしろ、3a-cの主の称号は、自然に出エジプトを思い起こさせる。主がヤハウェであられ、イスラエルの神であり聖なる者であり、救い主であるから、エジプトを彼らの身代金とするのである。エジプト人が妥協せずにイスラエルの人々を行かせようとしないのを見て、主は言わばイスラエルを自由にするためにエジプトを打ち砕くことをお考えになったのである。ここに「競合」はなく、エジプトを代価として(「身代金」kōper6.7を見よ)、イスラエルは自由にされたのである。「クシュ」「セバ」はそれぞれエジプトの南の極限と、またそれより南の方である。払われた代価として詩的に描かれている。「あなたの代わりとする」は、あるものが別のものの代わりとなることを表している(創世22・13、I列王1・16)。イスラエルは死の宣告を受けていたが(出エジプト1・16、2)、代わりにエジプトが「死んだ」のである(出エジプト4・27、33)。この過去の出来事が現在へと流れ込み、その中で主は民を大事にし(「高価で」)、主の民としての「尊い」立場を奪い取らないのである。結果として、将来には、人間(「人」)ばかりか、すべての「国民」もまた高価な存在となるのである。」、モティア、357〜358ページ
[iv] 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。
わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。
[v] 「これに続けて、六節後半に、「わが子らを遠くからこさせ」と言っていますが、それと並行 して「わが娘らを地の果てからこさせよ」と言います。ここに語りかけられている相手は男 性だけでなく、女性たちを言葉に出して言い表わしているのは、旧約聖書には珍しい箇所で す。残念ながら、旧約聖書はほとんど男性優位に書物なのです。しかし、ここでは救いの預 言を語りかける相手は息子たちだけでなく、「わたしの娘たち」と呼ばれる女性たちです。こ のことが非常にはっきり明言されています。」、柏井宣夫、『平和な未来を告げる イザヤ書による説教』(新教出版社)、115ページ。
[vi] 43:6 北に向かっては『引き渡せ』と言い、南に向かっては『引き止めるな』と言う。わたしの息子たちを遠くから来させ、娘たちを地の果てから来させよ。
49:22 神である主はこう言われる。「見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちを懐に抱いて来る。あなたの娘たちは肩に担がれて来る。
60:4 目を上げて、あたりを見渡せ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。
[vii] 「罪のない世界では、「真の自己」が「ありのままの自分」であり、唯一の自己認識であった。
神の目に映る自分たちの姿を自らのアイデンティティとして正しく認識していた。神の無条件の愛が存在価値であった。神は預言者イザヤを通して、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)と語られたが、彼らは自分たちが高価で尊い存在であることを言われなくても分かっていた。しかし、彼らの目が開かれ、自分たちの裸、「ありのままの姿」を目にしたとき、拒絶の恐れを抱き、いちじくの葉で自分たちの裸を覆い隠した。」、豊田信行『真の自己となる旅路』、35ページ。
[viii] 「② 「自己卑下」から自由になること
「自分を低くすること」と自己卑下は混同されやすい。高ぶりへの警戒心から自己を著しく低くするのは自己を卑下することになる。自分を低くするとは神に対してへりくだることである。
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(Ⅰペテロ5・6)
「自分を捨てる」とは、自尊心を捨て、自己を卑下することではない。なぜなら、自己卑下は自己への執着でしかないからだ。自己卑下に対して、自己肯定の大切さが語られるが、自分の何を肯定するのか、それが重要になる。自己の存在価値に根差した自己肯定感は健全であり、揺るがない。
神は預言者イザヤを通して、バビロニア帝国の捕囚の民となったイスラエルの民に向かって「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)と語られた。神は捕囚の民となり、自尊心を踏みにじられ、蔑みの中にいたイスラエルの民に向かって、「あなたは私の宝だ」と語られた。神の似姿となる営みには「神の宝」とされている自らの存在を尊ぶことが欠かせない。自分の存在価値を神の愛の中に見いだすとき、人は高ぶることなく、自分を誇ることができる。いつの日か、神に向かって、「わたしはあなたの目にとって高価で尊い」と告白できるようになるだろう」、豊田、前掲書、167ページ。
[ix] こちらを参照。自分は高価で尊いと思えるか——|高木高正

