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2026/8/16 イザヤ書44章1〜5節「ある者は手に『主のもの』と記して」

今、聞け。わたしのしもべヤコブ。わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。恐れるな。…

前半は、何度も聞いてきたような言葉です。確かに「今聞け」も「わたしのしもべ」「わたしの選んだ」も何度も出て来ました。主は当時のイスラエルの民に呼びかけて、救いの約束と、想定されるそれへの抵抗と、それでも救う恵みと、法廷劇での確証、という四段構えの二巡目です[i]。後半は初めてです。「母の胎内にいるときから形造り」――勿論、神が創造した、というのと同じではあるのですが[ii]「母の胎内にいるときから形造り」と言われると、グッと生々しさが違います。これは先には詩篇139篇でダビデ王が、後にはガラテヤ書1章で使徒パウロも同じ言い方をする「母の胎内から」の告白ですが、ここでは主自らが言われます。「あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主は」。神である主は、人を一人一人、生まれる前、母親の子宮にいる時から形造って、その生まれた後の生涯も、決して目を離さず、ずっと守り、育て、一人一人の人生の物語を紡ぎ出されるお方です。これは、この44章の最後の段落、24節でも繰り返され、44章の最初と最後をサンドイッチします。

24あなたを贖い、あなたを母の胎内で形造った方、主はこう言われる。…[iii]

 わたしがあなたを母の胎内で形造ったのだ、あなたは生まれる前、胎児だった時、(覚えていない最初から)わたしがあなたを造り、存在させ、あなたというかけがえのない人格は今ここにあるのだ。わたしこそあなたの造り主だ、と言われます。そしてその方の言葉はこれです。

…恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。

エシュルンという言葉は「まっすぐな、高潔な」という語に由来します[iv]。一方、ヤコブというのはイスラエル民像の父祖ですが、名前の由来は「かかとをつかむ=出し抜く」という名前です。真っ直ぐとか高潔とは程遠いのです。実際、父祖ヤコブの人生は騙したり墓穴を掘ったり欺瞞に満ちていました。そしてこの時のイスラエルの民も、誠実とは真逆の、不誠実で、歪んだものでした。神を儀式的に礼拝しながら、他の宗教にも引かれ、大国の顔を伺い、預言者の言葉には耳を貸さない…そういう末に、イスラエルの国は存亡の危機に瀕していました。そんな彼らに対して主は「わたしの選んだエシュルンよ」と言われます。真っ直ぐな民、高潔な民族と言われます。彼らの歪み、不実、罪を十分に知り、その背きを強く怒りつつ、なお主はご自分が形造った人間を、真っ直ぐに生きる者、高潔な生き方をする者とする決意でいられます。彼らにはそんな力はありません。私たちには自分で自分を変える事は不可能です。

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。

この水を流れさせるイメージも、イザヤ書が何度も何度も描き出すものですね。乾いた所に豊かな流れが注がれる、日照りで乾ききった地にスコールが降って、木や草も生き返るように、主はご自身の霊をもって、人間を深く潤し、生き返らせてくださるというのです。その生き生きと甦っている様子が

彼らは流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。

と描かれます。勿論、象徴的・詩的な表現であって、本当に木や植物になるわけではありません。むしろ、ここで続く生き生きとした――青々と芽生えて育つ姿はこう描写されます。

ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼び、ある者は手に『主のもの』と記して イスラエルの名を名乗る。」

「私は主のもの」そう名乗る様子が3つのパターンで語られますね。私は主のもの。ここに喜んで立つ姿が、主が霊を注いで豊かに潤された姿、流れの畔で育った木のように瑞々しい人の姿として焼き付けられるのです。私は主のもの。

宗教改革期に造られたハイデルベルグ信仰問答第一問は言います。

生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです(略)[v]

私は主のものであること、これこそ私たちの根本的な慰め、希望、幸いだとの告白です。私たちが何かを持っていることが、ではなくて、私たちが持てるものは失われるし、命さえも死が避けられない中で、私を主が主のものとしてくださった。主イエスが十字架にいのちを献げて、私を主のものとして、今もこれからも守っていてくださる。これこそ私たちの慰め。ここを原点としました。イザヤの時代の人々も、この原点に立ち戻るようになる、と言えるでしょう。

こうは言っても、「私は主のもの」という告白が喜びだとは、正直どうもピンと来ない、という方もいるかもしれません。私も神学生時代にこの言葉に最初触れた時、感動はしたものの、直ぐに忘れてしまいました。十年以上経って、長老教会に出席するようになって再び聞いた時、その時からじわじわと体に染み始めたと振り返ります。ちょうど、牧師職を休まざるを得ず、自分のひ弱さ、愛のなさ、先行きの見えない中にいた頃でした。そんな自分をも、主はご自身のものと言ってくださっている。何が無くても、私は主のものと言えることは、主イエス・キリストのゆえに、決して失われたり揺らいだりしない。この聖書の教えに慰められました。今は「私は主のもの」という言葉がピンと来ない人も、少しずつこう言える幸いを味わい始めている人も、やがて大喜びして、「私は主のもの」と言うようになる。こう名乗れる素晴らしさを味わい知る、というこの5節の幻に胸が躍ります。私は何者か、ということで悩んだり、肩書きを比べたり、これと言える所属がないと自分を軽視していた――それが「私は主のもの」と言うように変わる。造り主なる神を知ることは、その神によって造られた自分をも初めて知り始めることです[vi]。そしてその時、他の人との関係も大きく変わります。今まで自分が拠って立って来たもの――生まれとか能力とか会社や仕事、経歴の自慢とか、誰それの子孫とか誰々ちゃんのお母さんとかいう肩書で呼ばれてきたりしたのが、「私は(何よりも)主のもの」というように変わる時、他の人も同じように「主のもの」とされている人として出会うのです。

旧約・新約どちらにも「私たちは主のもの」という告白は鏤められています[vii]。特に新約の書簡で、私たちが神のもの、主のものであると思い出させる時、それは教会内の問題を扱っていることが何度もあります。ローマ人への手紙では、食習慣の違い、祭日を重視するかどうか、コリント人への手紙では、どの指導者が推しかを巡っての分派を窘めて、「私たちは主のものです…あなたがたはキリストのもの…です」と語るのです[viii]。好みや考え、表現の違いはあれ、その違う相手もひっくるめて、「私たちは主のもの」という告白に立つのが教会なのです。

ここでも同じに思えます「『私は主のもの』と言」う人、「ヤコブの名で自分を呼」ぶ人、「手に『主のもの』と記してイスラエルの名を名乗る」人…どれか一つの方法でなくても良いのです。いや、それぞれが喜んで自分らしい方法で、主のものである幸いを表現しているように思えます。「主のもの」とバックプリントした服を着る人、あの食わせ物のヤコブや一癖も二癖もある聖書の人物に自分を重ねて、それでも主は見捨てなかった愛に自分もあると歌う人、腕に「私は主のもの」と入れ墨タトゥーを入れる人…。タトゥーでも小物でも、何かしら自分の好きな形で、「主のもの」という喜びを確かめる。人と違っても、気にしたりとやかく言ったりせず、また誰かに見せるためではなく、自分が嬉しいから、自分らしい方法でそうする。

私は主のもの――この原点を見失って、比べたり争ったり、裁き、自惚れる。いや、主ならぬ何かを神のように偶像化して、自分自身を見失ってしまう。そういう世界にイエスは来てくださり、私たちを主のものとして取り戻してくださり、回復の道を歩ませてくださっています。

「母の胎内にいた時から私たちを形造り、今までもこれからも、私たちの神である主。あなたは、造られたこの世界にある私たちの戦いも喜びもご存じです。歪んだ罪も熟知した上で、なお高潔なものとなる将来を備えたもう神です。私たちが、あなたのものであることを感謝します。この慰めに立たなければ倒れて立ち上がれない出来事が沢山あります。どうぞ、一人一人が『主のもの』と喜び、夫々それぞれの仕方で賛美に溢れて告白する日まで、私たちをお守りください」

[i] モティアは、ここから44章23節までを、43・21までと、それ以降の二つの平行関係に分析して、以下のような構造でまとめている(モティア、352ページ)

42・18〜43・21 捕囚は国家の解放によって終わりを告げる 43・22〜44・23 罪は霊的贖いによって取り扱われる
42・18〜25 捕囚 43・22〜24
43・1〜7 この必要が満たされること 43・25〜44・5 この必要が満たされること
43・8〜13 偶像と対照的な救い主であり、唯一の神であられる主 44・6〜20 偶像と対照的な贖い主であり唯一の神である主
43・14〜21 バビロンからの贖い(買い戻し) 44・21〜23 罪からの贖い

大島は、以下のような構造分析をします。(太字はモティアと一致する部分)

42・14〜43・13 あなたがたは私の証人 43・14〜44・8  
42・14〜17 沈黙を破って告げられる神による救済の開始 43・14〜21 新しい出エジプト 救済宣言
42・18〜25 無感覚なイスラエルの民に対する論議 43・22〜28 イスラエルの罪と赦し
43・1〜7 イスラエルへの救済託宣 44・1〜5 イスラエルの未来に対する救いの託宣
43・8〜13 証人イスラエルが出廷する論争 44・6〜8 証人としてのイスラエル
    44・21~23 神への立ち返り

ここでも、「救済預言」→「イスラエルを巡る論議」→「救済の託宣」→「法廷論争」という四つの段階が、繰り返されるパターンとなっている、という構造分析が共通しています。

(大島、32、38ページ)

[ii] イザヤ書43・1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。…

[iii] イザヤ書ではこの44章の二か所のみです。他には、詩篇22・9~10(まことに、あなたは私を母の胎から取り出した方、母の乳房に拠り頼ませた方。10生まれる前から、私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから あなたは私の神です。)、71・5~6(神である主よ あなたは私の望み 若い日からの拠り所。私は生まれたときから あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。)、エレミヤ書1・5(「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」)など。

[iv] 申命記32・15 エシュルンは肥え太ったとき、足で蹴った。あなたは肥え太り、頑丈でつややかになり、自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。

33・5 民のかしらたちがイスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」

33・26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。

[v] 問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。主は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。(山下正雄訳)

[vi] 「第1章 神認識と自己認識は結び合った事柄である。それらはどのように相互に関連しているか。

我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵と見做さるべきものの殆ど全ては、2つの部分から成り立つ。すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することである。ところが、この二者は多くの絆によって結び合っているので、どちらが他方に先立つか、どちらが他方を生み出すかを識別するのは容易でない。すなわち、先ず我々がその内に生きかつ動く神(使徒行伝17:28)、この神への瞑想に己が思いを真っ直ぐに向けない限り、誰一人として自分自身について考察することはできない。なぜなら、我々の力の由来する賜物のどれ一つとして己自身からのものでないことは明らかであるのみか、我々がこうして生きている生存自体が一人の神において成り立っている以外の何ものでもないからである。第二に、天から我々のうえに滴り落ちるこれらの恵みを辿って行けば、ちょうど小川に沿って泉へと遡るように、我々はその恵みの源泉に導かれる。更にその上、自分自身の卑小さによって、神の内にある恵みの測りがたい豊かさが我々にはいよいよはっきり分かる。特に、初めの人間の背反によって陥ったこの悲惨な破滅は、我々の目を高く挙げざるを得なくさせ、こうして我々は、自らにないものを飢え渇きつつ請い求めるが、それのみでなく、また恐怖に目覚めて遜りを学ばせられる。すなわち、人間の内にはいわば飛散に満ちた世界が見られ、更に我々は神の装わせたもうた飾りを剝ぎ取られているので、裸の恥を曝し、極まりない汚辱の堆積物を露わにするとともに、他方、自分自身の不幸についての意識が我々一人一人を駆り立てて、神について少なくとも何らかのことを知ろうとせずにはおられなくさせる。このようにして、我々は己が無知、虚妄、窮乏、無力、そしてついに堕落と退廃の感に打ちのめされて、主においての他にまことの知恵の光、確固たる力、満ち満ちた一切の善、および義の純潔はないのだと認識するに到る。すなわち、我々は、自己の悲惨によってこそ神にある諸々の善を考えざるを得ないように迫られるのであり、また自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできないのである。自己について無自覚な状態、つまり、自分の賜物に満足し、己が悲惨について無知あるいは忘却した状態にある限りは嬉々として安んじている――こうでない人がどこにいるだろうか。そのようなわけで、自分自身についての知覚は、各々を駆り立てて神の探求に向かわせるのみでなく、言うならば手を取って導くようにして、神を発見するように各々を引いて行くのである。」、ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇』(渡辺信夫訳、新教出版社、2007年)、38~39ページ。

[vii] 主のもの/わたしのもの:

レビ記20:26 あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである。』

マラキ3:17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

ヨハネ10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。

14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。

ローマ人への手紙1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──

8:9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

コリント人への手紙第一3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。

ガラテヤ人への手紙3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

エペソ人への手紙1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

ペテロの手紙第一2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。

[viii] ローマ人への手紙14・1~12、コリント人への手紙1・10~3・23、参照。