2026/8/30 イザヤ書44章9〜20節(6〜23節)「木の切れ端の前にひれ伏しながら」
イザヤ書44章6節から23節に聴きますが、朗読は真ん中の9~20節をともに聴きました。偶像を造ることの滑稽さを、一頁余りかけて歌ったものです。イザヤ書にはこのような言葉は何か所にもありますし[i]、聖書の他の箇所にも見つかりますが[ii]、このイザヤ書44・9~20は最も長く、詳しく、また生き生きとした描写の歌です。今ならラップでしょう[iii]。この歌を前後で挟むのは、6~8節の歌、まことの神である主からの歌であり、21~23節も同じく、主からの歌です。この主ご自身からの歌へと私たちを引き上げるため、9~20節があるのです。
6イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。7わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べ立ててみよ。彼らに未来のこと、来たるべきことを告げさせてみよ。
聖書の神は世界を創造した神であり、この神以外にほかの神はいません。その神から離れた人間は、色々な神々を考え出し、運命を占ったり、未来をコントロールしようとしたりしますが、それは無駄な、無理な注文でしかないのです。必要なのは唯一つ、主に立ち帰ることです。
8おののくな。恐れるな。わたしが、以前からあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があるか。ほかに岩はない。わたしは知らない。
神である主が「わたしは知らない」と言うのは、つまり「他に神はいない」ということのはずです。「でも主がご存じでなくても、ひょっとして何か抜け道・裏口があるんじゃないか…」と思うのは愚の骨頂のはずです。でもそんな期待が、神から離れた人間の中にはあります。その思いを先回りして扱っていくのが、9節からの歌です。偶像崇拝とは単純にどういうことかを描き出していく歌です。先ほど読みましたので、いくつかのポイントを見ておきましょう[iv]。
まず偶像は人が造った物だ、ということです。
10だれが神を造り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。
は2節で主が「あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り」と言われていたのと同じ語です。人を造ってくださった主こそ神であるのに、自分が造った物を神にしようとするとはおかしなことです。それは人間が技巧を凝らした細工でしょうし、手間暇をかけた作品ではあるでしょう。だとしても、それは人間の作品以上のものではありません。腹を減らし、疲れもする人間が、丁寧に仕上げた像以上のものではないのです。
またそれは、既にある木から造られたものです。14杉の木を切り、うばめ樫や樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。月桂樹を植えると、大雨がそれを生長させる。
聳え立つ杉の木、堅い樫の木、美しく香ばしい月桂樹…。そうした既にあるものから彫り出した二次的なものです。まことの神が、何もない所に天地を創造されたのとは全く違います。
これに続く15~19節は
それは人間のために薪になり、人はその一部を取って暖をとり、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
この図を三度も言い換えて念を押しながら、考えさせるのです。木の半分で暖を取ったりパンを焼いて、残りの半分から彫った像を「神さま」と呼んでひれ伏したり、「救ってください」と祈るなんて、どう思う?と問う――いやそれを可笑しいとも思えない所に、偶像崇拝に陥っている愚かさの姿があると言います。
18彼らはよく知りもせず、理解もしない。その目はふさがれていて見ることもできず、その心が賢くなることはない。」
これは、ただ薪にした木の残りを神々にして気づかないなんて馬鹿だなぁと軽蔑しているのでしょうか。この歌は、偶像崇拝を神に対する冒涜、由々しい罪として道徳的に責めるというものでもありません。そして、木の像を神にして、それがおかしいと気づかないなんて、と軽蔑しているのでもなく、それがおかしいと気づけない、疑うことが出来ない、その姿を直視しているのではないかと思うのです。それは、それほど人間が、何か神なるもの、礼拝するもの、自分が頼り、祈り、助けてもらえるものを欲している証しです。神は人を、神の前に生きる者として造られました。主を礼拝し、主を信頼し、主の愛と恵みを常にいただき、主を愛する生物として造られました。だから、礼拝する存在である人間は、神から離れても何かしら礼拝する対象、信頼し、祈り、安心させてくれるものを求めずにはおれないのです[v]。
現代、こうしたあからさまな宗教は随分廃れたようです。「宗教はもたない。迷信も信じない」と言える人は多いでしょう。しかし、木でできた像は拝まなくても、違う何かが幸せをくれると信じられはどうでしょう。木もそれ自体が悪いのではなく、良く、素晴らしく、美しい物でしたが、問題はその良い物に分不相応な期待をしてしまうことでした。同じように、お金や高級な生活、健康や能力、つかの間の楽しみ、素晴らしい人や恋人や子どもや家族、アイドルや推しやペット…誰かでも何かでも、それを、自分を救い、未来や安全、幸せをくれる神にしてしまうことです[vi]。でも、それをせずにはおれないのが人間でもある[vii]。神の代わりに何か良い物が神となり、それを失うことを恐れ、握りしめ、そこに犠牲を捧げるようになって、その礼拝者となってしまうことです[viii]。何も礼拝していない人はいません。何かを礼拝せずにはおれません[ix]。それは本当の神ではないから、行き詰まりますし、疲れますし、不安はぬぐえません[x]。それでもおかしいと自分で気づけないくらい、目が見えなくなっているのです。
この歌の後、主は言われます。
21ヤコブよ、これらのことを心に留めよ。イスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたを形造った。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ、あなたはわたしに忘れられることがない。22わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」」
まことの神である主がこう宣言されます。主は、偶像とは違う、本物の神であるだけでなく、偶像崇拝に陥っている人間をなお救い、間違った礼拝から救い出してくださる主です[xi]。主は、主に背いて、神ならぬものにしがみついて目が塞がれている人間をも、なお愛し続け、その罪から救い出してくださる方です。22節の「あなたの背き」とは何よりも、イスラエルの民の二心、主を礼拝しつつ、実際には被造物に心を許している背きでしょう。それは、神と人との間に立ちはだかる雲や霧のように、視界を覆っていました。それを神は消し去ったと言います。人間の回心や気づきを待つのでなく、主ご自身の方から立ち上がって、神ならぬものを神とする生き方から救い出してくださるのです。ただ罪を赦す、というにもまして、主に背いていた本心をも主に向き直らせてくださる。霧が晴れるように、あるいはティム・ケラーが「魔法が解けるように」と表現したように[xii]、神はただ御自身だけが神であることを現してくださいます。私たちを、神ならぬものを神とする生き方から救い出すことを通しても、主はご自身が主であることを現してくださいます。そのことを「心に留めよ」と言われます。人が――私たちがこの主から心を彷徨わせるとしても、主は「あなたはわたしのしもべ。…あなたはわたしに忘れられることはない。」と言われます。だから
「わたしに帰れ」
と主は言われるのです。
人間は絶えざる偶像製造工場であると言ったのはカルヴァンです。今日の9~20節の歌は、私たちの鏡です。その私たちを、真の神、主は十分に知り、なお離れず、私たちを間違った礼拝から救い出し続けていてくださいます。そして、私たちの心に秘めたすべての恐れや思いが行き詰まった先に、心から主に安らぎを見出し、主を喜ぶことが出来ます。「私たちは主のもの」と言える日が来ます。こんな言葉が今はピンと来なくても、必ずその日は来ます。それは、私たちの努力や信仰に拠るのでなく、この神である主ご自身の恵みだからです。
「唯一の神、創造主であり私たちを愛したもう主よ。あなたの栄光と慈しみは計り知れません。そのあなたを差し置いて、私たちはあれこれに現を抜かし、今も思いはあちこちに彷徨います。この私たちのため、あなたは贖いの御業を果たし、御子イエスさえ惜しまずに与えてくださいました。あなたに今日も立ち帰り、あなたを礼拝します。私たちの心に、違う神殿があるでしょうか。どうぞ私たちの目を開き、主イエスの恵みと愛を仰いで生きる幸いを与えてください」
[i] 偶像崇拝の問題は繰り返し言及:40・18〜20、41・7、42・17、44・9〜20、45・16〜17、46・1〜2、46・5〜7 その中でもここは最長、描写も豊か。
- 40・18〜20 あなたがたは神をだれになぞらえ、
神をどんな似姿に似せようとするのか。
鋳物師は鋳像を鋳て造り、
金細工人はそれに金をかぶせ、
銀の鎖を作る。
貧しい者は、奉納物として
朽ちない木を選び、
巧みな細工人を探して、
動かない彫像を据える。
- 41・7 鋳物師は金細工人を励まし、
金槌で打つ者は、鉄床をたたく者を励まして、
はんだ付けについて『それで良い』と言い、
釘で打ち付けて動かないようにする。
- 42・17 彫像に拠り頼み、鋳像に向かって
『あなたがたこそ私たちの神々』と言う者は、
退けられて恥を見る。
- 44・9〜20 今回
- 45・16〜17 偶像を細工する者どもはみな
恥を見、辱めを受ける。
彼らはともに、辱めのうちに去る。
イスラエルは主によって救われ、
永遠の救いに入れられる。
あなたがたは恥を見ることも
辱めを受けることもない。
永遠に至るまで。
- 46・1〜2 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
彼らの像は獣と家畜に載せられる。
あなたがたの荷物は、
疲れた動物の重荷となって運ばれる。
彼らはともにかがみ、ひざまずく。
重荷を解くこともできず、
自分自身も捕らわれの身となって行く。
- 46・5〜7 わたしをだれになぞらえて比べ、
わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
袋から金を惜しげなく出し、
銀を天秤で量る者たちは、
金細工人を雇って、それで神を造り、
ひざまずいては、これを拝む。
彼らはこれを肩に担いで運び、
それがあったところに安置すると、
それはそこに立ったままである。
これはその場所から動かない。
これに叫んでも答えず、
苦しみから救ってもくれない。
[ii] 他ではハバクク2・18〜19、エレミヤ10・1〜5(16)
ハバクク2・18〜19 彫像はいったい何の役に立つのか。
彫刻師がそれを刻んだところで。
鋳像や、偽りを教える物は何の役に立つのか。
これを造った者がそれに頼ったところで。
その者は、もの言わぬ偽りの神々を造ったのだ。
わざわいだ。
木に向かって目を覚ませと言い、
黙っている石に起きろと言う者。
これが教えることができるというのか。
見よ、それは金や銀をかぶせたもの。
その中には何の息もない。
エレミヤ10・1〜5 イスラエルの家よ、主があなたがたに語られたことばを聞け。
「主はこう言われる。
諸国の道を見習うな。
天のしるしにうろたえるな。
諸国がそれらにうろたえても。
国々の民の慣わしは空しいからだ。
それは、林から切り出された木、
木工が、なたで作った物にすぎない。
それは銀と金で飾られ、
釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられる。
それは、きゅうり畑のかかしのようで、
ものも言えず、歩けないので、
運んでやらなければならない。
そんなものを恐れるな。
害になることも益になることもしないからだ。」
主よ、あなたに並ぶものはありません。
あなたは大いなる方。
あなたの御名は、力ある大いなるものです。
国々の王である方、
あなたを恐れない者がいるでしょうか。
そのことは、あなたにとっては当然のことです。
まことに、国々のすべての知恵ある者の中にも、
そのすべての王国の中にも、
あなたに並ぶものはありません。
彼らはみな間抜けであり、愚かなことをする。
空しい神々の訓戒──それは木にすぎない。
銀箔はタルシシュから、
金はウファズから運ばれる。
これは木工と金細工人の手のわざ。
これらの衣は青色と紫色、
すべて名匠の作。
しかし、主はまことの神、
生ける神、とこしえの王。
その御怒りに地は震え、
その憤りに国々は耐えられない。
「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」
主は、御力をもって地を造り、
知恵をもって世界を堅く据え、
英知をもって天を張られた。
主の御声に、天では水のざわめきが起こる。
主は地の果てから雲を上らせ、
雨のために稲妻を造り、
ご自分の倉から風を出される。
すべての人間は愚かで無知だ。
すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。
その鋳た像は偽りで、その中には息がない。
それは空しいもの、物笑いの種だ。
刑罰の時に、それらは滅びる。
ヤコブの受ける分はこのようなものではない。
主は万物を造る方。
イスラエルは主のゆずりの民。
その御名は万軍の主である。
[iii] 残念ながらラップにした本節はYoutubeに見つかりませんでしたが、ロック調でこんなものがありました。https://youtu.be/uDtq5Uk7b-I?si=7EFhWMQ2CrDwlotS
[iv] 9偶像を造る者はみな、空しい。
彼らが慕うものは何の役にも立たない。
それら自身が彼らの証人だ。
見ることもできず、知ることもできない。
彼らはただ恥を見るだけだ。
10だれが神を造り、偶像を鋳たのか。
何の役にも立たないものを。
11見よ、その人の仲間たちはみな恥を見る。
それを細工した者が人間にすぎないからだ。
彼らはみな集まり、立つがよい。
彼らはおののいて、ともに恥を見る。
12鉄で細工する者は工具を用い、
炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、
力ある腕でそれを造る。
腹が減ると、力がなくなり、
水を飲まないと、疲れてしまう。
13木で細工する者は測り縄で測り、
朱で輪郭をとり、かんなで削り、
コンパスで線を引き、
人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、
神殿に安置する。
14杉の木を切り、
うばめ樫や樫の木を選んで、
林の木の中で自分のために育てる。
月桂樹を植えると、大雨がそれを生長させる。
15それは人間のために薪になり、
人はその一部を取って暖をとり、
これを燃やしてパンを焼く。
また、これで神を造って拝み、
これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
16半分を火に燃やし、
その半分の上で肉を食べ、
肉をあぶって満腹する。
また、温まって、
『ああ、温まった。炎が見える』と言う。
17その残りで神を造って自分の偶像とし、
ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。
『私を救ってください。あなたは私の神だから』と。
18彼らはよく知りもせず、理解もしない。
その目はふさがれていて見ることもできず、
その心が賢くなることはない。
19彼らは考え直すこともなく、
このように言う知識も英知もない。
『私は、その半分を火に燃やし、
その炭火の上でパンを焼き、
肉をあぶって食べている。
それなのに、その残りで忌み嫌うべきものを造り、
木の切れ端の前にひれ伏すのか。』
20灰を食物とする者は、心が欺かれ、
惑わされて、自分を救い出せず、
『私の右の手に偽りはないか』とさえ言わない。
[v] 「1月22日
あなたも私も、巷にあふれる偶像から救われるだけでなく、偶像礼拝に傾く自分の心からも救われなければいけないのです。
インドの北部に、ヒンズー教の聖地となっている都市があります。そこで初めて奉仕をしたとき、4日間のヒンズー教入門ツアーに参加しました。ある寺に入ると、今まで見たこともない、とんでもない偶像がありました。それまでああいうものがこの世に存在していることすら、私は知りませんでした。なんと、高さ6メートルはあるかと思われる、巨大な男性器の像がそびえていたのです。寺に入って来たヒンズー教の巡礼者たちは高揚していて、そこにいることを大いに喜び感謝しているようでした。多くの人が像の前にひれ伏して、土台に口づけさえしていたのです。今まで目にした中で、最も霊的に暗い光景でした。何か月も歩いてこの聖地へ、この「暗闇の寺」へと巡礼にやって来た貧しいインドの家族に、通訳を介してインタビューをすることもできました。ただ、そこがとても霊的に圧迫感のある場所だったので、私は「早くここから出たい」とばかり思っていました。
そしてようやく混雑した道を車まで引き返す道中、私はひたすら「あぁ、自分はこの人たちのようでなくてよかった、本当によかった……」と繰り返していました。でもそのとき、突然わかったのです。「私も同じだ!」と。確かに、私の偶像はいわゆる異邦の宗教の偶像ではなく、日常の世界に巧妙に隠れた偶像です。でもこうした偶像が、私の心の中の「神がおられるべき場所」を占拠しているのです。そして、あの寺の像が私にとって忌み嫌うべきものであったように、私の偶像も、神にとっては忌み嫌うべきものなのです。これがわかったとき、自分の心の中で毎日繰り返される「礼拝戦争」の罪を告白しました。主イエス・キリストの恵みによってのみ与えられる、この闘いからの救いを求めて叫びました。そしてこの戦争がついに終結する「その日」を待ち望みました。
私たちは週に一度、正式な宗教の場だけで礼拝しているのではありません。神は人間を礼拝する者として創造されました。私たちのすることはすべて、礼拝の産物です。私たちは常に自分の心を何かに献げています。もしその何かが神でないのであれば、私たちは神の造られた被造物を礼拝していることになります。こうした小さな礼拝の瞬間が私たちの人生に絶え間なくあり、私たちにはその時々に神の恵みが必要なのです。ヨハネが、ヨハネの手紙第一5章21節で
偶像から自分を守りなさい
と教えているのも、まさにこのためです。私たちに恵みが必要なことを論証するのに、私たちの心がいとも簡単に神以外のものに支配されてしまうという事実以上に雄弁な証拠はありません。でも、私たちが必要とする恵みは私たちに差し伸べられています。ですから今日、その恵みの中に生きましょう。そしてあなたの心の「神が占めるべき場所」を占拠しようとする偶像に抵抗し、そうした偶像から離れて生きようではありませんか。」ポール・デービッド・トリップ『365日の恵み浴』1月22日。
[vi] 「「偶像」と聞いて私たちの頭に浮かぶのは、文字どおりつくられた像か、あるいはサイモン・コーウェル(訳注・イギリス出身の音楽プロデューサー。「ポップアイドル」「アメリカンアイドル」などのスター輩出オーディション番組の審査員として知られる)によって認められた次世代ポップアイドルかもしれません。世界中のあちこちで昔ながらの偶像礼拝が行われている一方、それぞれの心の中で行われる内的偶像礼拝が珍しくないのも事実です。エゼキエル書14・3には、神がイスラエルの長老たちについてこう言っている箇所があります。「これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め」ている。きっと私たちがするように、長老たちはこう反論したことでしょう。「偶像?何の偶像ですか。偶像なんて見えないですけど」。神が言っているのはこうです。人の心は、成功したキャリア、愛、物質的な豊かさ、あるいは家族といった、それだけ見れば良いものさえ究極的な対象としてしまえる、ということです。私たちの心の中心にそういったものが神として居座っているのは、ひとえに私たちがそこに向かってひたすら努力すれば人生の意義、安心、安全、達成感が得られると考えるからです。」、ティモシー・ケラー、『偽りの神々』、13ページ
[vii] 「偶像礼拝の罪 私がマンハッタンで伝道を始めたとき、人々がキリスト教の罪の概念に対する文化的なアレルギー反応を持っていることに気づいた。しかし、偶像礼拝に関する聖書の教えを掘り下げて取り扱う中で、人々の関心の度合いが高まっていったのである。私はこう説明した。罪とは、神以外の土台の上に人生の意味(たとえそれがどんなに良いものであっても)を見出そうとすることである。私たちが自分の人生の土台とするものによって、情熱をかきたてられ、それによって人生の選択をし、最後には私たちはその奴隷になる。私はよく、アウグスティヌスが「告白」で罪を愛の混乱として説明している定義を引用する。例えば、真理より自分の評判を愛するなら、結局嘘をつかざるを得ない。家族より金銭を愛するなら、仕事のために子どもを疎かにするだろう。愛の混乱は、常に不幸と崩壊をもたらすのである。その混乱に「秩序をもたらす」唯一の方法は、どんなものよりも神を愛することである。
現代の若い世代にとってこの説明が効果的だったのには2つの理由がある。第1に、ポストモダン世代の文化的多様性に対する感受性を(ひとまずは)中和するからだ。「罪とは神の律法を破ることだ」と言った途端、彼らはこう反応する。「いや、道徳的な基準は文化や時代によって異なるはずだ。それぞれが異なる基準を持っているんだ」。もちろん、最終的には、ポストモダン世代の単純な真理観は問われなければならない。しかし、そういった哲学的課題に取り組む前に、偶像礼拝という概念を提示することで、キリストの必要性に気づかせることができる。偶像礼拝の概念は、彼らが自分自身の衝動、恐れ、依存、誠実さの欠如、ねたみ、怒りなどを適切な神学的用語によって理解する助けとなる。彼らがキャリアや恋愛に救いを求めていたことに気づき、神のみに見出すべきものをそれらに求めていたことがわかるようになる。最も重要なのは、このアプローチが、彼らが受け入れることができる「A」教理(あなたは自由になるために造られた)に基づいて、「B」教理(あなたは神の前に罪人である)と主張している点だ。前世代の欧米社会では善人になることが人にとって最も重要なことだった。現代の欧米文化では、その価値観は変化し、自由な人であることこそ最も重要なことであるとされる。偶像礼拝という聖書的テーマは、まさにその点について、現代の人々に挑戦しているのである。逆説的に言えば、神に仕えないならば、彼らが求めている自由を手にすることはできないということを示しているのである。
旧約聖書の預言者からパウロに至るまで(使徒17-20章における説教などにも見られるように)、そしてそれ以降の聖書神学者や注解者たちは、偶像礼拝という用語を用いて文化批判を行ってきた。例えば、アレクシ・ド・トクヴィルは、アメリカに関する有名な著作において、いかにアメリカ人が繁栄による幸福を信じていたかについて論じている。トクヴィルはそのような希望は幻想だと言う。なぜなら、「この世の不完全な喜びは、決して(人の心を)満足させることはない」からである。その結果、彼は「豊かさのただ中で民主主義国家の住民にしばしば取り憑く奇妙な憂鬱」について語った。この憂鬱は、もちろん偶像から生まれた苦い実であり、常に失望をもたらす。偽りの神々は、約束したものを決して与えてはくれない。
デイヴィッド・フォスター・ウォレスの力強い洞察については前述した。「日々の生活において、無神論といったようなものは実は存在しない。礼拝をしないなどということはあり得ない。誰もが何かを礼拝している。私たちにできる唯一の選択は、何を礼拝するかだ」。ウォレスはクリスチャンではなかったので、なおさらのこと説得力がある。まず彼は、聖書の教え―――私たちは「礼拝する者」(homo religioso)である――が正しいと論じる。これは衝撃的な暴露である。ほとんどの人は、このように考えている。「私は作家として成功するために頑張っているだけだ。私はただ、私を愛してくれる人を求めているだけだ。私は自己管理のために運動している。政界で成功するために努力している。キャリアを積みために頑張っている。将来の安心のために少しばかり貯蓄しているだけだ」。しかし、ウォレスは、そんな私たちを突き落とす。私たちが認めようとしなくても、これらの行為すべてが「礼拝」だと彼は言いきる。そして、創造主なる神ではなく創造されたものを礼拝することは、霊的絶望へと私たちを導くことになる。「やむにやまれず神のような何かを・・・・・拝むとしたら、・・・それが何であれ君たちはそれに生きたまま食われるだろう」。自分たちがしていることが礼拝だと気づかなければ、私たちはそれによって生きたまま食われてしまう。何かに囚われ不幸なのにそれがなぜかわからないのである。
私たちの人生を突き動かす衝動を、偶像礼拝という表現を用いて説明すると、ポストモダンの人々はあまり抵抗しないことがわかった。彼らはすぐに、そして弱々しいと思えるほど、それこそ自分の姿だと認めるのだ。心の偶像という聖書のメッセージは、罪という教えを彼らの文化的感受性に適合させるが、それは彼らが聞きたいと思う内容をはるかに上回るものである。それは、彼らに罪を自覚させ、罪をより個人的ものとして認識させる。何かを偶像にするとは、創造主でありいのちの源である神に対する愛を他に向けているということである。罪を単なる律法違反というだけではなく、的外れの愛情として描写することで、多くの現代人を説得することができる。
聖書が語る罪と恵みは、神の律法の権威に対する私たちの反抗を認めることを含む。人々が自分の罪を偶像礼拝と的外れの愛として理解するなら、神に敵対して生きていることを示すことは容易なことである。それはなぜだろうか。偶像礼拝は依存症のようなものである(依存症ということばは、現代人々にとってより身近である)。人が酒やドラッグに溺れるのと同じように、私たちは霊的な偶像の奴隷となるのである。このことを理解すれば、ローマ1章の語りかけを理解し、神に敵対して生きていることを認めることができるようになる。つまり、私たちが神に反逆して生きているという真理を認めずに生きているということである。ポストモダンの考えを持つ人々に対し、偶像礼拝という聖書の教えを用いて罪の概念を伝えることは効果的である。
偶像礼拝という罪の理解は、信仰のみによる義認というパウロの語る福音の教えと矛盾しないだろうか。矛盾するどころか、その福音にたどり着くために必要な道筋を与えているのである。ルターは大教理問答の中で、偶像礼拝(第1戒を破る)は、イエス以外の何かによって義とされようとすることと同じだと示している。ということは、偶像礼拝は、キリストのみを信じる信仰を通して恵みによって救われるということを受け入れないことである。偶像からの悔い改めを求め、キリストにある自由を語る説教は、行いによる義認から信仰のみによる義認へと人々を導くことができるのである。」、ティモシー・ケラー『センターチャーチ』211〜213ページ。
[viii] 「自分が何を礼拝しているかは、日曜の朝に明らかになるのではありません。それ以外の時間の、自分の言動によって明らかになるのです。
「礼拝」という言葉は、広く誤解されています。「礼拝」と聞くと多くの人が、集団での正式な宗教行為をすぐに思い浮かべます。それは仏像の足元にろうそくの火を灯す巡礼者の集まりであったり、千人のクリスチャンが賛美するシーンであったり、あるいは、水曜の夜のスモールグループの集まりであったりするかもしれません。いずれにせよ、多くの人にとって「礼拝」という単語は、外に表れる霊的な活動をまとめて使われるものです。しかしながら聖書は、この単語を全く違った用法で用いています。
聖書は私たちを「時として礼拝する者」ではなく「礼拝者」として描写しています。私たちの生活には霊的な一面があるというのではなく、人間にとって礼拝はもっと根本的なものなのです。私たちは神によって礼拝者として創造されました。つまり、礼拝は私たちが行う活動である前に、私たちのアイデンティティなのです。私たちみんなの心の中にある礼拝傾向、あるいは礼拝したいと思う気持ちは、私たちが神に近づくようにと、神によって与えられたものです。この神こそ、私たちが礼拝をささげるべきお方です。礼拝しない人間はいません。人間を分けているのは、礼拝するかしないかではなく、何を、また誰を礼拝しているかです。
人間はみな礼拝者だと言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。これはつまり、私たちはみな、自分のアイデンティティや願い、夢、心の健康、人生の意味や目的を、何かに見いだしているということです。その何かが私たちの心を支配しています。私たちはその何かを求めて生きています。私たちは誰しも、いのちを与えてくれると思わせる何かに、自分をささげ、仕えているのです。
聖書によれば礼拝の対象はふたつしかありません。あなたの神学がどうであれ、突き詰めて言えば、あなたは創造主を拝み、自分のいのちをささげているか、あるいは、この創造主によって造られた被造物を拝んでいるかのどちらかです。罪により、私たちはみな、多かれ少なかれ偶像礼拝者となってしまいました。そうして、主がおられるべき場所に、自分自身や他の人、他の物を据えてしまっています。
唯一の真の神、生きておられる神を礼拝することにおいてのみ、いのちが見つかります。何であれ、他のものを礼拝すれば、滅びの道を歩むことになるのです。
今日あなたが発する一つひとつの言葉、あなたがする一つひとつの選択、あなたの取る一つひとつの行動は、あなたが何を礼拝するかによって決まってきます。あなたの心の中で今日も繰り広げられる「礼拝戦争」以上に、あなたがイエスの恵みを必要としていることを端的に示すものはありません。」、トリップ、7月22日。
[ix] 「「私たちは礼拝するかしないか」ではなく「私たちは何を礼拝しているか」を問うべきです。栄光に満ちた創造主か、被造物か、あなたはどちらを礼拝しますか。
昨日、落ち込むことがありました。「こうありたい」という自分の基準に達しなかったからです。その後で、もし自分の基準にさえ達することができないなら、神の律法など、絶対に守れるわけがないではないかと思いました。昨日何が起こったか、お話ししましょう。
私は仕事で読まなければいけないものがあり、読んでいました。静かに落ち着いて読んでいたんです。そこヘルエラが質問しに来たので、私の読書は中断されました。私はイラっとして、「忙しいんだ、邪魔をしないでくれ」と突き放しました。ルエラは静かに立ち去ったのですが、数分後に戻って来て、「どうしてあんな風な応答をしたのか説明してちょうだい」と言いました。言われた瞬間、「あぁ、またやってしまった」と悲しくなり、落ち込みました。私はまたもや、「こんな夫ではありたくない」と思っている夫になってしまったのです。愛していると言っている相手に対して、短気に、イライラと対応してしまったのです。
なぜこのようなことが起きたのでしょうか。謙虚にならなければ認められないことですが、私の問題はルエラとの関係でも、予定が立てこんでいたことでも、誤解でもありませんでした。私があのような応答をしたのは、私にまだ礼拝の問題があるからです。私たちの心は常に何かの支配下で生き、応答しています。そしてこの「何か」には2通りの可能性しかありません。神か、神の創造したものかです。「神が私たちの心の中でおられるべき場所におられ、私たちの心を支配されて初めて、私たちの人生で他の人もきちんとした場所に収まる」と説明すれば良いでしょうか。あなたも私も、
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
という第一の戒め(マルコ12:30)を守って初めて、
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マルコ12:31)
という第二の戒めを守ることができるということです。私たちの心の中で、神がおられるべき場所におられないとき、私たちは代わりに何をそこへ据えるでしょうか。あのルエラとの残念なやり取りがあった瞬間、私は偶像の中でも最も誘惑が強く、常習性があり、人を惑わす、「自己」という偶像に負けたのです。
私たちを打ち負かす偶像は、多くの場合、いわゆる宗教的な偶像ではありません。神の代わりとなるありとあらゆるものが偶像なのであって、その最たるものが自分自身です。ですから私には、外に存在する偶像からだけでなく、私自身という偶像からも、何度も何度も救い出してくれる贖い主が、どうしようもなく必要なのです。
人を「礼拝する人」と「礼拝しない人」に分けることはできません。最も非宗教的な人も礼拝しますから。人にとって、礼拝とは行動である前に本質なのです。私たちの言動のすべてが礼拝に基づいています。私たちの選択や決定も礼拝から出ています。礼拝こそ、回避できない、全人類が従事している仕事だと言えるのです。ですから「私たちは礼拝するかしないか」ではなく、「私たちは何に心を向けて礼拝しているか」が問われるべきなのです。
神以外のものを礼拝しているからこそ、私たちは神の律法を守ることができないのです。そしてそのために、イエスが来られました。神以外のすべてのものを礼拝する罪を打ち負かすためです。キリストの十字架の目的は、私たちの偶像礼拝の罪を赦すだけでなく、神を礼拝するという、人間本来の営みに私たちが再び従事するようになるためでもあったのです。本来礼拝すべき対象を私たちが礼拝できるようになる恵みこそ、私たち全員が必要としている恵みです。」、トリップ、11月25日。
[x] 「十戒の第二戒では、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない」(出エジプト20・4)と偶像を造ることが厳しく禁じられている。第一戒の「ほかの神」は複数形であるのに対し、第二戒の偶像は単数形である。神が造ることを厳しく禁じた「The 偶像」とは、天地万物の神を自分にとって都合の良い神に置き換えることである。神は、ご自身の真の姿が著しく歪められた像(イメージ)を忌み嫌われる。また、神がご自身を像に置き換えることを禁じられたのは、神のかたちとして造られた人だけが神の御姿を表す存在だからだ。人が神の御姿を歪めることは、神の似姿として生きる使命を放棄することになる。そればかりではない。根源的なアイデンティティを喪失する苦しみを背負うことになる。
この戒めのなかで、神は第一戒に背く者、すなわちみだりに礼拝する者を罰すると約束していることに目を向けたい。なぜ神はそれほどまでに排他的である必要があるのだろうか。なぜ人々のほんのちょっとの偶像崇拝を大げさに取り上げなければならないのだろうか。私たちは、私たちの罪のために罰せられているのではなく、むしろ、私たちの罪そのものが、私たちの創造された姿から逸脱した苦しみを負うという罰である。(S・M・ハワーワス/W・H・ウィリモン『神の真理』四八頁)」豊田信行、『真の自己となる旅路』、30〜31ページ
[xi] こちらの説教を参照:https://www.harvestdesmoines.org/episode/gods-faithfulness-to-an-unfaithful-people-part-2%E2%80%A2-02-09-25-2/
[xii] 『偽りの神々』、24ページ

