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2026/5/24 イザヤ書40章12〜31節「力を与える神」

イザヤ書40章の後半は、9節で「見よ、あなたがたの神を」と指さし、10節でも「見よ、見よ」と繰り返した神を、更に具体的にどれほど偉大で、大いなるお方か、を教えていきます。

12だれが手のひらで水を量り、手の幅で点を測り、地のちりを升に盛り、山々を天秤で量ったのか。…18あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。…21あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。…27ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。…

こう畳みかけて、神の偉大さを思い出させ、考えさせようとするこの後半です。まず12節からは神の知恵、知識の大きさです。掌で水を量り、手の幅で天を測り、地の塵を升に盛り、山々を天秤で量るなど人には出来ない、神のとてつもないスケールです。人が科学や技術を駆使してやっと計算することはできても、偉大な神が正確に知り、量り、把握しておられるのには及びもつきません。15節も強烈です[i]。「見よ。国々は手桶の一しずく、秤の上のごみのように見なされる。…」イザヤ書の前半では、イスラエルの王やアッシリア帝国やエジプト、バビロンなどの脅威が名指しされました。今のあれこれの大国と重なる国々が、ここでは手桶の一雫ひとしずく、秤を傾けるどころかその上のゴミ屑のように見做されるという桁違いのスケールです。

16レバノンも、薪にするには足りない。その獣も、全焼のささげ物にするには足りない。

杉材で知られたレバノンも、そこに住む獣も、と想像してみてください。改めて、自分たちが考えているのは実にちっぽけでお粗末な、小さな神でしかないと思い知らされます。そこで、18~20節の問いかけは、鋳物師の造る鋳造に金細工人が金を被せて作る偶像や、貧しい人が精一杯、長持ちする木を選んで彫像を据える様子を描きます。精一杯、煌びやかでよく出来た像を造る、でもそれは動かない、造り物でしかない。そんなものと似た神を考えていませんか。

21あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。初めから、告げられていなかったのか。悟っていなかったのか。地の基のことを。22主は、地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はバッタのようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。

当時、宇宙は天蓋=ドームのようなものと考えられ、そこにある星々は礼拝の対象でした。学者はその動きから世界の運命を占い、王たちの動きは星々に反映されると思われていました。ここで主は、君主たち、権力者たちよりも上にある方としてご自身を示します。25節は18節を言い直した主の言葉です。人間が造る工芸品と並べて考えているのか、と問うた言葉は、26節でダイナミックに展開します。「あなたがたは目を高く上げて、だれがこれら[天の星々]を創造したかを見よ。この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない。」宇宙の星の数は、当時、どうやって数えたのでしょうか。でも現在の天文学では、私たちのいる天の川銀河だけでも一千億から四千億の恒星(太陽)があり、全宇宙の星は、数千億の銀河に、それぞれ数百億から一兆の恒星があるとされます。途方もない星。主はそれを一つ一つ数え、名を付け、治めておられる…。ここに人間の理解を超えた神の偉大さの一端が知られるのです。それに続けて、

27ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。

この声は、イスラエルの民が本当に苦しい時、外国勢力や異教の偶像に圧倒される中で発せられた声だったのでしょうね。神様は見ちゃいないのだ。私の訴えなんて聞いてはいないのだ。そういう思いだったのでしょう。そしてその声は、この後もイザヤ書の中で意識されています。

41・21あなたがたの訴えを出せ。――主は言われる――あなたがたの証拠を持って来い。――ヤコブの王は言われる――持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。

49・14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。

希望を欠いた信仰、諦めた倦怠感、皮肉で自嘲的な呟き…をイザヤ書は見据えています。

聖書において語られる神は、唯一の神であり世界の創造主、すべてを知り、自然法則や権力者の上におられ、人知を遥かに超えた方です。この神を中心とする視座を「キリスト教有神論的世界観」と言います。神を小さく考えがちな私たちには大事な出発点です。イザヤ書が繰り返して語る言葉は、キリスト教有神論的世界観を教えてくれます。しかし、それは教室での講義として始まっているのでありません。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている。」――口にはそう出さないとしても、心ではそう言い張る思いが拭えない…そのような人々に対しての言葉です。とりわけ、この「訴え」という言葉は、さばき・公正と訳されるイザヤ書の肝心な言葉の一つです[ii]。主は公正であることを強く求める神です。それなのに人間の求める訴え・公正を見過ごすことがあるでしょうか。或いは、道という言葉も[iii]、隠れるとか[iv]、見過ごすという言葉も[v]、イザヤ書で繰り返される大事な言葉です。それは主が、形ばかりの礼拝で済まそうとする民に対して語って来た主の訴えです。それを、民がさも尤もらしく、

「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている。」

と言い張っている。

あなたもこう言っていますか。

「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」

――ならば、12節からの言葉はあなたのためです。水を量り、手の幅で天を測る方、国々を手桶の一滴、秤の上のゴミと見なされる方、天蓋の上におられ、何千億の何兆倍もの星をご存じの方は、あなたの道を知らないなどという事があろうか。あなたの訴えを見過ごすことがあると思っているなら、真の神を、鋳物師や細工人の造る「神々もどき」の延長でしか考えていないのだ、あなたが考えている神は小さすぎるのだ、主はそんな神ではないのだ。

28あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。

そしてこの主だからこそ、主が全知全能であるだけでなく、人を力づけずにおかない神です。

29疲れた者には力を与え、勢力のない者には勢いを与えられる。30若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

鷲のように、とは当時の理解で、その力強さとともに、年を重ねると、古い羽を抜き、古い嘴を叩き折って、新しいものとする、とされたことを指すのでしょうか[vi]。決して不死鳥や空飛ぶ魔法使いになるのではありません。状況は変わらず、主には見えないのだ、と言い続けることも出来ます。その状況は変わらなくても、主を待ち望む者は、その只中で力を得る――飛び立つ力も、走る必要があれば走り続ける力を、歩き続けるのであれば疲れないよう精力を与えられるのです[vii]。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」――いいえ、天地を測る主は、人の道が隠れて見えないはずがなく、人の心の訴えもそれを疑う頑なさも知り尽くしています。いいえ、それ以上に、力の限りない神は、その力で、疲れて力尽きる人、つまずき倒れる人をも、新しく力を得させる方です。私たちのことを知っている、という事は疑わないとしても、この私に新しい力を与えてくださるとまで信じていないのなら、その「神」は小さすぎる神、あなたはまだ神を知らないのです。全知全能なだけのそんな神は、人間が考え出す神を基準にして、精一杯引き伸ばしただけの偶像です。私たちを内側から力付けてくださる神です。「私の祈りなんか聞いていないんだろうな」と決めつけているとしても、そんな私たちの考えなど及ばないほど、大きく、また近く、力強い神でいてくださいます。

「主よ、あなたの力によって私たちを強めてください。祈りを聞きたもう主とは信じていても、私を強めてくださるとは期待しない、不信仰な私たちです。この私たちが新しくなるのも、ひとえにあなたの恵みの力です。小さく閉じ込めたあなたを伝えるのでなく、あなたのいのちによって私たちが新しくされることによって、あなたを証しさせてください。そうです、この世界はあなたのあわれみを必要としています。まず私たちをあなたの愛で新しくしてください」

[i] 13、14節(だれが主の霊を推し量り、主の助言者として主に教えたのか。14主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。)は、新約聖書において、2回、ローマ11・34(ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」)、Ⅰコリント2・16(「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。)に引用されています。

[ii] イザヤ書における訴え:מִשְׁפָּט ミシュパト

[iii] イザヤ書における「道」 דֶּרֶךְ

[iv] イザヤ書における「隠れ(る)」 21回、原語は10の動詞・名詞

[v] イザヤ書における「見過ごす」עָבַר アーバル 36回:

8:8 ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって首にまで達する。その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす。」

8:21:その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。

10・28:彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。

10:29 彼らは峠を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。

16:8:ヘシュボンの畑もシブマのぶどうの木も枯れた。国々の主たちがその房を打ったのだ。その房はヤゼルに達し、荒野を巡り、つるは伸びて海を越えていたのに。

23:2海辺の住民よ、黙れ。海を渡るシドンの商人はおまえを富ませた。

23:6 海辺の住民よ、タルシシュへ渡って、泣き叫べ。

23・10:娘タルシシュよ、ナイル川のように自分の国にあふれよ。もうこれを制する者はいない。

23:12 そして言われた。「もう二度と喜び躍るな。虐げられたおとめ、娘シドンよ、立ってキティムに渡れ。そこでも、おまえは休めない。」

24:5 地はその住民の下で汚されている。彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである。

26:20 さあ、私の民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ。

28・15 あなたがたがこう言ったからだ。「われわれは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとえ、洪水が押し寄せても、それはわれわれには届かない。われわれは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」

28:18 あなたがたの、死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。みなぎる天罰が押し寄せると、あなたがたはそれに踏みにじられる。19それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕らえる。しかも朝ごとに押し寄せる。昼にも夜にも。この知らせを悟るなら、ただ恐怖あるのみ。

29・5 しかし、敵の群れは細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは吹き飛ぶ籾殻のようになる。しかも、それは突然、不意に起こる。

31:9 その岩は恐怖のために過ぎ去り、その首長たちも旗を捨て、おののき逃げ去る。──シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主のことば。」

33・8 大路は荒れ果てて、道行く者は途絶え、契約は破られて、町々は捨てられ、人は顧みられることがない。

33・21 しかも、そこには威厳ある主が私たちとともにいてくださる。そこには多くの川があり、幅の広い川がある。櫂で漕ぐ舟もそこを通わず、大船もそこを通らない。

34・10 それは夜も昼も消えず、その煙はいつまでも立ち上る。そこは代々にわたって廃墟となり、もうそこを通る者はだれもいない。

35:8 そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。

40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。

41・3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。まだ自分の足で行ったことのない道を。

43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

45:14 主はこう言われる。「エジプトの産物とクシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らはあなたの後に従い、鎖につながれてやって来る。そして、あなたにひれ伏して、あなたに祈る。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』と。」

47:2 ひき臼を取って粉をひけ。ベールを取り去り、裾をまくってすねを出し、川を渡れ。

51:10 海を、大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々が通るようにしたのは、あなたではないか。

51:23 わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らは、かつてあなたに『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう』と言った。それで、あなたは背中を地面のように、また歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのに任せた。」

54:9 これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。

60:15 あなたは捨てられ、憎まれて、通り過ぎる人もなかったが、わたしはあなたを永遠の誇り、代々の喜びに変える。

62:10通れ通れ、城門を。この民の道を整えよ。盛り上げ、土を盛り上げて、大路を造れ。石を除いて、もろもろの民の上に旗を揚げよ。

[vi] 「ワシ EAGLE 鳥の中で最も威厳のあるワシについては、32回も言及 されている。ほとんどが、その特質のイメージを比喩と して使ったものである。飛ぶ速さ(申命28:49、サムエ ル下1:23、エレミヤ4:13、48:40、哀歌4:19、ヨ ブ9:26、箴言23:5)、高く舞い上がること(オバデヤ 4節、イザヤ40:31)、高くて近づき難い所に巣を作るこ と(エレミヤ49:16)、そして、おそらく博物学の観点か ら最も興味深いことは、ワシがひなを世話し、訓練する際の行動に関する記述である。「鷲が巣を揺り動かし、雛 の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶ ように」(申命32:11)。初期の註釈者たちは、これをワ シの習性を目撃した者による正確な報告と解した。ワシ は意図的に巣を揺り動かし、羽が生えそろったばかりの 若鳥が飛び立つように促す。そして、若鳥が巣を離れる 時、たいてい周囲の岩や枝の上に不安げな様子ではい出 るが、母鳥はその上ではばたき、彼らに飛ぶことを教え る。母鳥は、その背に若鳥を乗せ、飛んで木や岩から遠 く離れ、彼らを放り出して舞い降り、翼の上に受けとめ る。そのようなことまでして、徐々に飛ぶことを教える。 この独特の習性に関して現代の記録はない。しかしこれ は、たいへん感動的な描写であり、人間に対する神の配慮を表わしている。神は、われわれの独立を促すために、 時折巣を揺り動かされるが、われわれが落ちたら受け止 めようと、いつでも用意しておいでになる。そのイメー ジは、モーセに語られた主の言葉の中に繰り返されてい る。神は、イスラエルの子らに対するその配慮を、次の ように表現される。「あなたたちを鷲の翼に乗せて、わた しのもとに連れて来た」(出エジプト19:4)。ミカ書1 章16節の頭部がはげているワシは、おそらくハゲワシ (Vulture、その項を見よ)のことを指しているのであろ う。すなわち、頭と首が白い綿毛でおおわれているため、 遠くからは羽毛がないように見えるシロエリハゲワシ (Griffon Vulture)のことか、あるいは頭と首の赤い皮膚 が露出しているミミヒダハゲワシ(Lappet-faced Vul- ture)のことであろう。

また、「鷲のよう」(詩篇103: 5)に若さを回復するこ とについても語られている。それは、ワシが年老いた時、 ある日空高く舞い上がり、次に海の中へまっすぐに飛び 込む。そのようにして、羽衣を新しくする、と古代に信 じられていたことに由来するのであろう。しかし、初期 キリスト教美術において、エジプトのフェニックスはワ シに変わり、それが火の中に飛び込み、灰の中から新た に生まれて現われるという伝説のために、復活の象徴と して用いられた。

ヘブライの昔話に、ワシの力と長寿について語ったも のがある。ある日、ソロモンは、壮麗な建物を見つけた が、扉が見あたらず、入ることができなかった。彼は700 歳のワシに出会い、どこに扉があるのか尋ねた。ワシは 答えることができなかったが、王をその兄のところへ行 かせた。兄は900歳で、その巣は弟のものより高い所に あった。兄は答えることができなかったが、さらに上の 兄のところにソロモンを行かせた。その兄は1300歳で、 西側に扉があると父が話したのを覚えていると言った。 王は、長い年月を経て、すっかりちりにおおわれた、大 きな鉄の扉を見つけた。そこには文字が刻まれていた。 「この宮殿の住人である我らは、長い間、快適にぜいたく に暮らした。その後、飢えのためによぎなく、小麦に代 えて、真珠を砕き粉にした。しかし、何の役にも立たず、 死を前にして、我らはこの宮殿を鷲に譲る」。

ワシは、福音書記者ヨハネの表象となった。それは、 ワシの視力のためと、ヨハネが霊感を求めて聖霊を凝視 することができたように、ワシも太陽を見つめることに よってその目を強くすることができた、という適切な比較のためである。欽定訳の訳者たちは、博物学者バーソ ロミューの記録によって、この習性を知ったことであろ う。

母鳥は、まだひなの翼が十分に成育する前に、彼ら を鉤爪でつかみ、太陽を見つめさせる。もしひなが 動かずにしっかりと太陽を見ていないと、母鳥は彼 らを翼でたたき、太陽の方に向かせる。そしてもし、 どれかのひなの目から涙が出たら、母鳥はそのひな を殺す。

この習性は、プリニウスの著書の中にも記されている。

現代の翻訳者たちのほとんどが、Eagle (ワシ)にふれ ている箇所- Eagle(ワシ) と訳されているヘブライ 語はネシェルで、アラビア語のニスルと同族―――は、 Eagle (ワシ)ではなくて、Griffon Vulture (シロエリ ハゲワシ)を指すことについて、トリストラムと意見を 同じくする。しかしながら、これらの猛禽が、雲の上の 到達不可能な高さに舞い上がり、山の頂の近づきがたい 場所に巣を作ることを考えれば、それらを区別するのは、 非常に困難であろう。したがって、厳密な同定は難しい が、伝説の中では間違いなくワシの方がよく登場する。 「死体のある所には、はげ鷹(AV-eagles) が集まるもの である」(マタイ24:28) というキリストの言葉も、現代 の翻訳では‘vultures’ (ハゲワシ)と訳されているが、文 字通りに Eagle(ワシ 〔ギリシア語アエトス〕)と解釈す ることもできる。それは、Eagle (ワシ)も、Vulture (ハゲワシ)と同じように、腐肉を食うからである。

今日、聖書の地のワシは、主に渡り鳥、あるいは越冬 するものである。イヌワシ (Golden Eagle (Aquila chrysaetos〕)は、大きく、黒く、普通は音を立てず、堂々 とした姿で空を駆ける。何時間も飛び続けることができ、 山頂の最も高い所に住む。これは時折来訪する。それよ りわずかに小さい、ボネリークマタカ (Bonelli’s Eagle [Hieraaetus fasciatus))は、斑点のある白い下羽を持ち、 ここに常住する。ずっと小さい、チュウヒワシ(Short- toed Eagle (Circaetus gallicus)) はヘビを食う習性から、 ヘビクイワシ (Snake Eagle) とも呼ばれ、飛んでいる – 時の大きな白いノスリ(Buzzard)にかなり似ており、 派である。カタジロワシ (Imperial Eagle (Aquila heliaca))は、肩羽にある白い斑点によって見分けられ、 南東ヨーロッパからの冬期の来訪者、または渡り鳥であ る。」『聖書動物大事典』、124〜125ページ

「鷲の飛翔が神秘的であるとはいえ、そこにはある力が示されており、 神がイスラエルとその民に救いを与えられることを象徴している。神はその民をエジプトの奴隷から解放される時、彼らを「鷲の翼」に乗せ、み もとに集められた(出エジプト19:4)。そこで、神の民が自分の弱さを自 覚した時ばかりでなく、「鷲のように翼を張って飛びたい」と願えば(イザ ヤ40:29-31参照)、「鷲のような若さを新たにしてくださる」(詩編103: 5)。しかし、それは決して自分の力によるのではなく、ただ辛抱強く神を 頼る人がはじめて「新たな力を得て」、走っても弱ることなく、歩いても疲 れず、鷲のように飛ぶのである(イザヤ40:29-31)。

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C・H・スポルジョンは19世紀のロンドンにおけるバプテスト派の優 れた説教者である。ある時彼は、すでに職にある牧師や神学生を前にし て彼の確信について熱弁をふるった。

兄弟よ、もしあなたが失敗したらそれは信仰がないからだ。空気が 鷲に言った。「信じよ、あなたの広い翼を拡げよ。私があなたを乗せ て太陽の上に行く。信じてその腿をあげ足裏の石を蹴るのだ。その 時、形のない力があなたを支える。」兄弟よ、空の鷲よ、飛びなさ い! 神はあなたを迎えてくださる! ただ神に依り頼んで。」、ジョン・ストット『空の鳥を見よ』、いのちのことば社、2010年、56〜57ページ

[vii] 「12節からの素晴らしい詩文は、27-3節でクライマックスに達する。それは神のみもとにおける「ヤコブ/イスラエル」の安全性である。この方は知恵に満ちた創造主なる神である(12-14節)。すべてのものを推し量る神である(12節)。またその方は、大能の方で(15-17節)、被造物とその民をすべ治められる(17節)。この方のみが神である(18-20節)。この方は、地のすべての「君主たち」を支配される(23節)。そしてすべてをコントロールされ(25-26節)、創造されたどんな小さなものにまでも、創造の力を及ぼしておられる(20節)。そうであれば、どうしてご自分の民、「ヤコブ/イスラエル」を忘れ(27節)、無力のままに捨て去られるだろうか(31節)。これが創造の教えにおいて旧約が伝える中心的なメッセージである。創造されたすべての被造物は、創造主なる神の直接造られたものである。」、モティア、326ページ