2026/6/14 イザヤ書41章1〜13節「『恐るな。わたしがあなたを助ける』と言う神」
前回40章の後半を読みました。最後31節の
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得…
が続く41章で
島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ、新しく力を得よ。…
と、繋がっています。主を待ち望む者が得る「力」とはどういう力なのか、が語られていきます[i]。特にこの41章は主ご自身の言葉として、イスラエルだけでなく島々、諸国の民、世界の果ての人々に呼びかける言葉です[ii]。この呼びかけの言葉は、単に漠然と信仰を呼びかける言葉ではありません。一般的なキリスト教信仰の勧めというよりも現実的なものです。40章27節に
私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている
という疑いの声が拾われました。そう嘆かずにおれないほどの苦しい背景がありました。ここでも、2節から明らかです。
2だれが一人の者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせるのか。だれが彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。彼はその剣で彼らをちりのようにし、その弓で藁のように追い散らす。3彼は彼らを追い、難なく進んで行く。…
この「一人の人」とは恐らく45章で名指しされる「キュロス」王のこととされます。キュロスはペルシャの王で、イザヤの時代から一世紀以上後、バビロン帝国を倒して、新しい覇者となります。その登場と遠征に、国々が怯える様子がここに伝えられるのです。その登場を、主は既に見通しておられます。いいえ、主が昔から計画していたのだ、とさえ言われます。
4だれが、最初から代々の人々に呼びかけて、これらをなし、これらを行ったのか。主であるわたしだ。わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。
神である主は世界の大きな歴史をも不思議に治めておられます。歴史が大きく動いて、狂うように見える時にも、そのすべての上におられる測り知れない支配を、神は宣言されます。これが唯一の神です[iii]。その神を知らない人はどうするでしょう。5~7節までが続いています。
5島々は見て恐れる。地の果ては震えながら、近づき、やって来る。6彼らは助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。7鋳物師は金細工人をはげ絵馬師、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者を励まして、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする。
ペルシャの大軍がやって来ると聞いて恐れ震えながら集まり、「強くあれ」と励ましながら、何をするのでしょう。40章19~20節に登場した鋳物師、金細工人が再登場するのですから、鋳物や金や石の神々・偶像を拵え、はんだ付けや釘で打ちつけて、大きな像を安置する…。そんな「神頼み」の対策で、大丈夫だ、強くあれ、と励まして――果たしてどうでしょう。
8だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。9わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。
人間が造る偶像とは比べるも愚かな次元の違う真理です。主は、ここでイスラエルに「あなたはわたしのしもべ」と繰り返します。わたしのしもべ。ここには、主が人間との間に与えて、創り出してくださる確かな、優しく、絶えることのない絆・関係があります。主が、ヤコブやその祖父アブラハムにどう関わってくださったのかは、創世記に記録されています。曲者のヤコブ、子のなかった老人アブラハムを選び、その後、彼らがいくら迷い、失敗しても、決して退けなかった主の関わり方は、そこに恵み深く語られています。主が「わたしのしもべ」と呼んでくださること、私たちが「私は主のしもべなのだ」という土台に立ち帰ることが出来る事――これこそ、主を待ち望む者が新しく得る力です。
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
このように主はご自分のしもべに宣言してくださいます。10節は13節で言い換えられます。
わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
10節を言い換えますね。
主を待ち望む者に約束される力とは、奇蹟を行ったり、祈り願うことが適えられたり、人が羨み、感心させるような力でしょうか。若々しいとか特別扱いをされたりすることでしょうか。困難に合わず、今の生活や立場、面子が守られることでしょうか。イザヤ書のこの箇所を考えてみてください。主が、東から「一人の者」を起こして、国々が震えて、神頼みしかないと思うような状況でした。その中で、それも主のなさったことで、主こそ初めであり終わりとともにあるお方だと告白するとしても、主の民はその中で、何の影響も受けず、安泰だと言われるわけではありません。事実、聖書の民の歴史は、ペルシャ、バビロン、アッシリアという大国に翻弄され続けた歴史です。しかし、その歴史も主の大きな御手の中にあるし[iv]、私たちは、この世界の大きな流れに翻弄されながらも、この言葉に立ち戻って言うのです。「私たちは主のしもべだ、主が私の神だ、恐れずたじろがず、世界の変わりゆく現実の中を生きていこう」。
実際、キュロス王が現われた時、イスラエルの民がどんな歩みを辿ったかは、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記などから分かります。決して、主を待ち望んでいれば、苦労はせずに上げ膳据え膳でもなく、主を待ち望むだけで、何もしないで大丈夫、でもなかったのです。長い旅をし、城壁を再建し、律法を学び、諸問題に対処しました。その根底には、主が私たちの主でいたもう、私たちは主のしもべ、主の民である、という揺るぎない土台アイデンティティがありました。
4節は、新約聖書のヨハネの黙示録で3度引用されます[v]。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。
黙示録も教会にとって非常に困難な時代の書です。迫害がし烈になっていく時代です。知恵が必要で、殉教の覚悟も、教会内の諸問題も指摘されます[vi]。目の前の問題から目を逸らして、ひたすら神頼みに走って安心しようとしたのなら、6~7節の偶像崇拝者たちの宗教と変わりません。黙示録もイザヤ書も、時代の困難や厳しさを見据えつつ、その上に主がいまし、初めアルファであり終わりオメガである主を礼拝しつつ、キリスト者が今できることをすること、主のしもべ、キリストのしもべとして生きる道を示しています。それが、主を待ち望む者に新しく与えられる力の第一です[vii]。
私たちが主から様々な力をいただいています。そして、折々に必要に思える色々な力があります。あれもできれば、こんな力もあれば…と憧れます。そうしたすべてに優って、主が私たちを「あなたはわたしのしもべ」と呼んでくださっていることは、何よりの力です。
10節では「わたしの義の右の手であなたを守る」だったのが、13節は「あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』という者だから」と一層シッカリと言われます。父親が右の手でわが子を守り、左手でその子の右の手を握って安心させている、そんな光景が思い浮かびます。そして、そういう父親の存在と関わりは、わが子を勇気づけて、内側から力を与えてくれることでしょう。
自分が何者であるか、私たちがどんな考えやイメージ、言葉を持っていたにしろ、神である主が「あなたはわたしのしもべ」と言われ、また「わたしは『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者である」とまで名乗ってくださる。この言葉が、私たちを内側から力づけ、新しくするのです。私たちを内側から強めて、新しくすること――ここに土台があります。ただ集まって熱心にお祈りをしては大丈夫だと言い合っている、そういう宗教ではありません。私たちの中にある恐れ、傲慢、争い、孤独――心を萎ませるあれこれが、主が手を握ってくださる時に、力を失っていく。そういう新しい力を主は得させたいのです。得させてくださるのです。
「私たちの神、私たちを助ける神、主よ。世界に起きることも、私たちが主の民として選ばれたことも、あなたの不思議な御手の中のことです。そして、その御業のため、御子イエスはしもべの道を歩みぬき、御自身のいのちをもって、私たちを主のしもべとしてくださいました。主のしもべである光栄に、日々心を強めてください。謙って、置かれた場所での役割に心から勤しませて、必要な知恵と力を与えつつ、私たちを通してもあなたの御栄光を現してください」
[i] オズワルトは「1~7節には、この書のこの部分を特徴づけるいくつかの裁判の場面の最初のものが含まれている」として、これに続く「裁判の場面」の箇所として以下の段落を挙げています。
41:21-29 あなたがたの訴えを出せ。
──主は言われる──
あなたがたの証拠を持って来い。
──ヤコブの王は言われる──
持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。
前の事は何であったのかを告げよ。
そうすれば、われわれもそれを心に留め、
後の事を知ることができるだろう。
または、来たるべき事をわれわれに聞かせよ。
後に起ころうとすることを告げよ。
そうすれば、われわれは、
あなたがたが神々であることを知るだろう。
良いことでも悪いことでもしてみよ。
そうすれば、われわれはともに見て驚くだろう。
見よ、あなたがたは無に等しい。
あなたがたの行いは空しい。
あなたがたを選ぶ者は忌まわしい。
わたしが北から人を起こすと、彼は来て、
日の昇るところから、わたしの名を呼ぶ。
彼は長官たちを漆喰のように踏む。
陶器師が粘土を踏みつけるように。
だれが、初めから告げて、
われわれが知るようにしたか。
だれが、あらかじめわれわれに告げて、
『それは正しい』と言うようにしたか。
告げた者は一人もなく、
聞かせた者も一人もなく、
あなたがたの言うことを聞いた者も
一人もいなかった。
わたしが最初にシオンに
『見よ、それらはここにある』と言い、
わたしがエルサレムに
『良い知らせを伝える者を与える』と言った。
しかし、見回しても、だれもいない。
彼らの中には助言者がいない。
わたしが尋ねても返事のできる者が。
見よ、彼らはみな偽りで、
そのなすことは空しい。
彼らの鋳像は風のようで何もない。」
42:18-25 耳の聞こえない者たちよ、聞け。
目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。
わたしのしもべほど目の見えない者が、
だれかほかにいるだろうか。
わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、
ほかにいるだろうか。
わたしと和解した者のような目の見えない者、
主のしもべのような目の見えない者が、
だれかほかにいるだろうか。
あなたは多くを見ながら、心を留めない。
耳が開いているのに、聞こうとしない。」
主はご自分の義のために望まれた。
みおしえを広め、これを輝かすことを。
しかし、これは、かすめ奪われ略奪された民、
彼らはみな穴の中に陥れられ、
獄屋に閉じ込められた。
かすめ奪われても、助け出す者はなく、
略奪されても、返せと言う者もいない。
あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、
後々のために注意して聞くだろうか。
だれがヤコブを、奪い取る者に渡したのか。
イスラエルを、かすめ奪う者に。
それは主ではないか。
私たちはこの方の前に罪ある者となり、
主の道に歩もうとせず、
そのおしえに聞き従わなかった。
そこで主は、憤ってこれに怒りを注ぎ、
激しい戦いをこれに向けた。
それがあたりを焼き尽くしても彼は悟らず、
自分に燃えついても心に留めなかった。
43:8-13 目があっても見えない民、
耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。
すべての国々をともに集わせ、
諸国の民を集めよ。
彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、
初めのことを聞かせることができるだろうか。
彼らが自分たちの証人を出して証言し、
人々がそれを聞いて、『本当だ』と言うようにせよ。
あなたがたはわたしの証人、
──主のことば──
わたしが選んだわたしのしもべである。
これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、
わたしがその者であることを悟るためだ。
わたしより前に造られた神はなく、
わたしより後にも、それはいない。
わたし、このわたしが主であり、
ほかに救い主はいない。
このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。
あなたがたのうちに、異なる神はいなかった。
だから、あなたがたはわたしの証人。
──主のことば──
わたしが神だ。
これから後もわたしは神だ。
わたしの手から救い出せる者はない。
わたしが事を行えば、
だれがそれを戻せるだろうか。」
44:6-20 イスラエルの王である主、これを贖う方、
万軍の主はこう言われる。
「わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
わたしのほかに神はいない。
わたしが永遠の民を起こしたときから、
だれが、わたしのように宣言して、
これを告げることができたか。
これをわたしの前で並べ立ててみよ。
彼らに未来のこと、来たるべきことを
告げさせてみよ。
おののくな。恐れるな。
わたしが、以前からあなたに聞かせ、
告げてきたではないか。
あなたがたはわたしの証人。
わたしのほかに神があるか。
ほかに岩はない。わたしは知らない。
偶像を造る者はみな、空しい。
彼らが慕うものは何の役にも立たない。
それら自身が彼らの証人だ。
見ることもできず、知ることもできない。
彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが神を造り、偶像を鋳たのか。
何の役にも立たないものを。
見よ、その人の仲間たちはみな恥を見る。
それを細工した者が人間にすぎないからだ。
彼らはみな集まり、立つがよい。
彼らはおののいて、ともに恥を見る。
鉄で細工する者は工具を用い、
炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、
力ある腕でそれを造る。
腹が減ると、力がなくなり、
水を飲まないと、疲れてしまう。
木で細工する者は測り縄で測り、
朱で輪郭をとり、かんなで削り、
コンパスで線を引き、
人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、
神殿に安置する。
杉の木を切り、
うばめ樫や樫の木を選んで、
林の木の中で自分のために育てる。
月桂樹を植えると、大雨がそれを生長させる。
それは人間のために薪になり、
人はその一部を取って暖をとり、
これを燃やしてパンを焼く。
また、これで神を造って拝み、
これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
半分を火に燃やし、
その半分の上で肉を食べ、
肉をあぶって満腹する。
また、温まって、
『ああ、温まった。炎が見える』と言う。
その残りで神を造って自分の偶像とし、
ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。
『私を救ってください。あなたは私の神だから』と。
彼らはよく知りもせず、理解もしない。
その目はふさがれていて見ることもできず、
その心が賢くなることはない。
彼らは考え直すこともなく、
このように言う知識も英知もない。
『私は、その半分を火に燃やし、
その炭火の上でパンを焼き、
肉をあぶって食べている。
それなのに、その残りで忌み嫌うべきものを造り、
木の切れ端の前にひれ伏すのか。』
灰を食物とする者は、心が欺かれ、
惑わされて、自分を救い出せず、
『私の右の手に偽りはないか』とさえ言わない。
45:20-25 諸国からの逃亡者たちよ。
集まって来て、ともに近づけ。
彼らは自分たちの木の偶像を担ぐ者、
救えもしない神に祈る者たちで、知識がない。
告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。
だれが、これを昔から聞かせ、
以前からこれを告げたのか。
わたし、主ではなかったか。
わたしのほかに神はいない。
正しい神、救い主、
わたしをおいて、ほかにはいない。
地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神だ。ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
ことばは、義のうちにわたしの口から出て、
決して戻ることはない。
すべての膝はわたしに向かってかがめられ、
すべての舌は誓い、
わたしについて、
『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う。
主に向かっていきり立つ者はみな、
主のもとに来て恥を見る。
イスラエルの子孫はみな
主によって義とされ、主を誇りとする。」
[ii] 「…わたしの声を聞け」と始まって、最後の29節も鍵括弧で結ばれる、新改訳2017の構成を参照。
[iii] 「中でも重要なのは、他のすべての神々と比較して主の絶対的な唯一性を主張する記述が繰り返し登場することである(41:4-7、23-26、43:10-13、44:6-20、45:20-21、46:3-11)。これらの記述は、神々の無力さが強調される裁判や論争の文脈でしばしば現れる。神の唯一性を示す主な証拠は、歴史における神の支配力、特に異教徒の皇帝キュロスを用いて、選ばれた民イスラエルを救い出すという神の目的を達成した点にある(41:2-3、25、42:14-17、43:3-7、19-20、44:28-45:7、46:11)。こうしたあらゆる論拠は、絶望に打ちひしがれるイスラエルに対し、来るべき流刑においても神の愛と力が彼らに対して尽きることはないということを確信させるために用いられている(41:8-10; 43:1-3, 14-17; 44:1-5; 44:21-22; 45:4, 17; 46:12-13)。実際、イスラエルは、神が歴史の唯一の主であることを世界に示すための、神によって選ばれた道具となるのである(43:8-13; 44:6-8, 23; 45:14, 22-25)。」、オズワルト
[iv] 「神が応答を求める証拠は、人類の歴史における神の働きである。神は、原初の創造叙事詩や、神々の間の地球外戦争に訴えることはない。これらは、ヘブライ聖書の啓示の舞台では決してない。むしろ、神は常に、人類の歴史的経験という文脈の中で自らを啓示することを選ばれる。唯一神の存在を考えたのはヘブライ人だけではなかったように、歴史の中で神が働くと考えたのはヘブライ人だけではなかったと主張することもできるが、ヘブライ人を特別な存在にしているのは、他のすべての文化において、これらの考えは、心理社会的物理的宇宙の多神教的神格化という、それ以外は平穏な海における一時的な逸脱に過ぎないという点である。ヘブライ人の間でのみ、一神教と、神は歴史的経験を通して知られるべきだという考えが絶対的なものとなった。彼らは啓示の他のいかなる根拠も否定し、神の目的は自己顕示でも、単なる国家主義的目的の洗礼でもなかったと主張する。彼らによれば、神の行いは人類に対する超越的な目的、すなわち私たちの中に神の聖なる性質を再現するという目的に合致していた。この理解があったからこそ、ヘブライの預言者たちはアッシリアのサルゴン、バビロニアのネブカドネザル、ペルシャのキュロスを見て、彼ら全員がイスラエルの国家存続のためではなく、国家浄化のために神の手の中にある道具であると、ほとんど息を呑むほどの自信をもって言うことができたのである。」、オズワルト
[v] ヨハネの黙示録1・8 神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
17 この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、
黙示録22・13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
[vi] 特に、ヨハネの黙示録2~3章、参照。
[vii] この先、14節以降、55章まで、主を待ち望む者が新しく得る力がどんなものかは、多面的に描かれます。

