2026/5/24 使徒の働き1章3〜8節「聖霊と使徒の働き」池戸ペンテコステ礼拝
今日はペンテコステ、聖霊降臨日と訳される日です。父なる神が御子を下さったクリスマス、御子が十字架の死より復活したイースター、そして聖霊が弟子たちの上に臨んでくださったペンテコステ、この三つはキリスト教会にとっての三大祝日です。その日にどんなことがあったのかは、この「使徒の働き」の2章に詳しく書かれています。多くの方がお持ちの聖書では、今開いているページの反対、左ページの下に「2」とあって、
五旬節の日になって…
云々と始まっているのが分かるでしょう。その先に、この日、集まっていた弟子たちに激しい風が吹いてきたような響きとともに、炎のような舌が一人一人の上に現れて、弟子たち全員が聖霊に満たされて、世界の色々な言語で話し始め、世界中から集まって来ていた巡礼者たちに主イエスを語り、その日、三千人の人々が新しく仲間に加えられた、とあります。
その出来事を伝えるに先立って、主イエスが予告しておられた言葉が、今日読んだ箇所です。
4使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
これを聞いても、弟子たちの反応は、まだまだイスラエル中心の民族主義的な期待でした。
6そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
これに対してイエスはやんわり、かつきっぱりと、聖霊によって始まる新しい時を語ります。
7イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
わたし主イエスの証人となる――そのために弟子たちは待つように言われました。聖霊が弟子たち・教会の上に臨む時、その時からイエスの証人とされる歩みが始まります。イエスはそれを待つように言われて、天に昇りました。その日から更に十日待って、四十日目の五旬節の日に、約束された聖霊が降って、弟子たちは主イエスを証しする人となりました。その少し前、弟子たちは臆病でイエスを見捨てたのです。それが、この日、彼らは大胆にイエスを証しするよう変えられました。その証しに多くの人が心を刺され、語られた言葉を受け入れ、何千人もが洗礼を受けて仲間になったのです。ペンテコステは、イエスの証人となった教会の誕生日でした。
誕生日、ということは、始まりだった、ということです[i]。2章のペンテコステの日だけが特別素晴らしかったのではなく、この時もずっと聖霊が教会に働いてくださったので、弟子たちはイエスの証しを続けます。はっきり「聖霊が」「主の御霊が」と書かれてはいなくても、どこであれ、弟子たちがイエスを証しする時には、聖霊によらないではないのです。[ii]
その弟子たちの証しが力強く進んで、大勢の人が耳を傾けます。あまりにそれが目について、エルサレム当局が弟子たちを逮捕して、議会に連れて行き、脅すのですが、
8そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。
と恐れたり怯んだりせず、堂々とイエスを証言するのです。彼らの勇気や人格のせいではない。聖霊がしてくださったことです。外からの圧力が強くなって、遂に、エルサレムから追い出された時、ある弟子は隣のサマリアに行きました(8章)。サマリアとイスラエルは「犬猿の仲」、長い敵対関係にありました。そのサマリアでイエスを証しするなんて、生粋のユダヤ人には考え難かったはずです。しかし、そこでも信じる人たちが起こされました。「サマリア人が神の言葉を受け入れた!」との知らせにエルサレム教会は、ペテロとヨハネ、二人の弟子を遣わします。彼らが、サマリアに行き、彼らのために祈ると、サマリアの弟子たちに聖霊が降ります。2章のペンテコステのような出来事がもう一度起きたのです。もう一度言いますが、イスラエル人にとって犬猿の仲であったサマリア人に、自分たちと同じように聖霊が降ったのです。それは、民族差別や歴史の確執を乗り越えさせる聖霊の働きであり、様々な違いがあっても一つ教会であること(教会の一体性)を体験した、大きな曲がり角だったでしょう。(これは旧約から預言されていた聖霊の働きです。[iii])
続く9章では、聖霊はもっと衝撃的に登場します。律法に熱心なあまり、キリスト者を憎み、激しく迫害してきた敵サウロが、主の弟子となるのです。その時、遣わされた弟子は、サウロの上に手を置いて、聖霊に満たされるよう祈るのです。聖霊によって始まった、弟子たちの証人としての物語は、ただ伝道・宣教の前進・教会の拡大という以上のものでした。脅してくる裁判官や、好きになれない外国人や、教会の迫害者、あの悪魔のようなひどい奴のためにも、聖霊は降るのだ――そう導かれ、目を開かれていくストーリーです。そこで、9章31節は、
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。
と言うのです。「聖霊に励まされて」には勧め・勧告を受ける、慰められる、などのニュアンスもあります。ただ伝道活動を励まされた以上に、自分では思いもつかない大きな恵みに教えられ、気付かされ、という意味での「励まされて」でしょう。もっと良いのは聖霊の「霊」は「息」や「風」とも訳せる言葉だというイメージかもしれません。聖霊によって教会が前進するとは、聖霊によって折々に息を吹き込まれることです。新鮮な空気を吸い込んだり、大きく息を吐き出したりする。あるいは、聖霊に導かれる教会には、風が吹き抜ける――隙間風だけでなく、驚くほどの風の力を感じるように、神の恵みの風に息を呑むような思いをする…。それが聖霊に励まされて前進していく教会を思い巡らす鍵かもしれません。[iv]
更に10章では、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んでいた外国人との出会いに、聖霊の名が出てきます。人種差別を乗り越える、という「いい話」に聞こえるでしょうが、そのために13章では教会の大切な指導者を、宣教師として送り出すよう、聖霊が語られるのです。教会の優秀な牧師、群れの大事な存在、愛するあの人を、手放す・送り出す・献げる――聖霊とはそのようにも導かれます。それもまた、弟子たちを主イエスの証人とする御業に他ならないでしょう。16章では御霊は伝道旅行の途上で、計画を禁じ、別の道も許さず、彼らが思ってもいなかった、全く新しい別の道、ヨーロッパへの伝道へと導きます。[v]
使徒の働き2章の五旬節ペンテコステで、弟子たちがあらゆる言葉で話し始めたのは、こうした将来への伏線でした。聖霊を注がれるとは、個人的なパワーアップというより、ユダヤ人キリスト者たちに勇気を持たせ、今まで気にもかけなかった人々に語りかけさせ、その人々のために聖霊を祈り、大切な指導者たちを捧げて送り出し、せっかく実現しかけた宣教計画の代わりに、全く見通しの立たない道に踏み込ませることでした。聖霊はそのように彼らを導き、驚かせ、他者のために祈り、捧げ、自分たちの民族を中心に考えていた弟子たちを、世界のために仕える主の証人とされました。神の恵みを忘れて澱んだ空気の中に、聖霊は常に働き、時として強く吹いて、教会に息を吹き返させて、新しい風を送られる――そのように導かれていく姿そのものが、私たちを愛し、私たちのために十字架の苦しみも厭わず、そして死から復活して、命を与えて、新しくしてくださる主イエスを証ししています[vi]。聖霊がいなければ、教会は世間を恐れ、献金をごまかし[vii]、不公平になり[viii]、伝統に囚われ、分裂しただろう人間の集まりです。そんな教会に、聖霊なる神が来てくださいました。だから教会は、主の証人となっているのです。
「父、子、聖霊の三位一体の主。聖なる交わりの中で神の民とされ、私たちが願う以上の恵みに与っています。自分たちの息だけなら澱むしかないこの場に、聖霊が風となって吹き、新しい出会い、新しい交わり、目を開かれ、手を開いていく教会であれます。主よ、どうぞ私たちが、主の証しをする以上に、まず私たち自身が主の証しであらせてください。偽りのない、心からの、あなたがなさろうとしている形へと、御言葉と交わりによって変え続けてください」
[i] 「一 聖霊の注ぎ 復活の出来事から数えて五十日目、散らされていた弟子たちが再び一つに集められ、彼らの上に聖霊が降 り注いだ。今や彼らは、ガリラヤからエルサレムへと歩まれた方を通して行われた「神の偉大な業」(使徒 言行録二・一一)を大胆に語り始める。この使徒言行録の伝えるペンテコステの出来事は、初代教会において 何度も繰り返され、やがて基礎的経験となっていったものの集約的な表現と目されねばならない。これまで 隠されていたことが、上からの力によってあらわにされる。神に対して目が開かれるというこの霊的な経験 は、紛れもなく神の自己啓示の出来事に属している。疑いと迷いの中にいる人間が、どうして自分の力でそ こを克服できるだろう。上からの力に満たされる以外に、懐疑の幕が取り払われるすべはない。この上から の力の所在を最もよく理解していたのが、まさに上からの力によって自ら一八〇度の劇的転換を経験した使徒パウロである。「神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの 霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。……霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その 人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(第 一コリント二・一一一一四)。無理解と躓きの中にいる人間の暗い理性を照らし、冷え切った心を熱くする聖霊 の内的促しは、人間的な感情の高ぶりや単なる精神の高揚とは異なる。コリント教会を揺さぶった没我陶酔 的な霊的熱狂主義を退けたのは、ほかならない聖霊の現実的な力に捕らえられていた使徒パウロその人であ る。霊は霊によってのみ知られる。その霊が人間のうちに臨む時、十字架につけられ渡された方が、まさしく到来された神の人格であり、受肉した神の言葉そのものであるという啓示の認識が起こる。人間的知性にとっては躓きでしかない神的真理の深みが明らかにされ、そこに信仰による知解が開始される。
しかし、それはすでにイスラエル的な神伝承の中に約束されていた事柄であった。「その後、わたしはす べての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル三・一)。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊 を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中 に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。・・・・・・お前たちはわたしの民となりわた しはお前たちの神となる」(エゼキエル三六・二六―二八)。そのことが今、散らされた後に再び一つに集められ た群れの中で確かに実現している。そして重要なことは、この約束されていた霊の注ぎが、死に渡された方 の甦りと高挙という終末的な出来事をまさしく決定的な機縁にしているということである。「霊の新しい注 ぎは、イエスの死と復活を通してのみ可能とされたのである。霊は父のみもとからイエスに来た。た。すなわち霊はイエスを通して、イエスに従う者に来たのである。したがって霊の働きは、イエス・キリストご自身と 本質的に結ばれている。そしてイエスが霊を受けると共に賦与するという二重の形態は、新約聖書における この問題の新しい理解全体に本質的なものである」(A・ヘロン『聖霊』関川泰寛訳、ヨルダン社、一九九一年、七 五頁)。この時間的な順序における新しさを最も明瞭に表現しているのは、ルカ文書である。「それで、イエ スは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」(使徒行伝二・ 三三口語訳)。聖霊の注ぎは、かねてより「父の約束されたもの」(使徒一・四)であって、それが今、復活し 天に挙げられた方を通して起こっているのである。
それ故、聖霊の注ぎとは、神の自己啓示のもう一つの側面である。御父が啓示の主体であり、御子が啓示 の客観的な対象であるとすれば、聖霊は啓示の主観的な作用として、私たちの内奥深くに働きかけて、隠さ れていた真理を内側から明らかにする。
しかも、この「御子をわたしに示して」(ガラテャー・一六)くださる聖霊の内的促しは、私一人だけのブ ライベイトな体験には終わらない。聖霊の注ぎが起こる時、そこに神の共同体が出現する。「御霊は主とし て教会の礼拝とキリストに対する証言に力を与えるものとして、さらに教会の生と伝道を導くものとしてあ らわれる。霊と教会のこの関係は、使徒行伝に関する限り、きわめて根本的なものであると付言することが できるであろう。霊が働くのは、教会においでであり、霊が他者に注がれるのは教会の伝道を通してである」(A・ヘロン同前七七頁)。」、芳賀力『神学の小径I』107〜109ページ。
[ii] 使徒の働きにおける「聖霊」「主の御霊」の使用は、以下の通り:
1:2 それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
1:16 「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:25 あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか。
4:31 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。
5:3 すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
5:9 そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」
5:32 私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。」
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、
6:5 この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、
6:10 しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。
7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
8:15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
8:17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19 「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい」と言った。
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
8:39 二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。
9:17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。
10:19 ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。「見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
10:44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。
10:47 「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」
11:12 そして御霊は私に、ためらわずにその人たちと一緒に行くように言われました。そこで、ここにいる六人の兄弟たちも同行して、私たちはその人の家に入りました。
11:15 そこで、私が話し始めると、聖霊が初めに私たちの上に下ったのと同じように、彼らの上に下ったのです。
11:16 私は主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によるバプテスマを授けられる』と言われたことばを思い起こしました。
11:24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
11:28 その中の一人で名をアガボという人が立って、世界中に大飢饉が起
13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
13:4 二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、
13:9 すると、サウロ、別名パウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、
13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:28 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。
16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
19:2 彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。
19:6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。
19:21 これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。
20:22 ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。
20:23 ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
21:4 私たちは弟子たちを探して、そこに七日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。
21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」
28:25 互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。
[iii] 「イスラエルが語り伝えた霊の経験として注目すべきことは、創造の霊は、困窮に陥った被造物、特に息も 絶えだえの神の民を危機から救い出し、生き返らせる救済力として現れたということである。そのような霊の注ぎは、特に油注がれた救助者(メシア)の登場と深く結びついている。 イスラエルに危機が訪れる。「ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が皆結束して川を渡って来て、イズレエルの平野に陣を敷いた」(士師記六・三三)。この危機から民を救うために、勇敢にもひとりの人が立 ち上がる。しかし彼は自分の能力でそれをするのではない。「主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛 を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もま た彼に従って集まって来た」(士師記六・三四―三五)。角笛を聞いて人々が続々と詰めかけたのは、ギデオン の人柄のせいではなく、主の霊のおかげである。霊的な力が人々を、臆病と不安、怠惰と無気力から立ち上 がらせる。
預言者は霊に満たされて預言する。老サムエルは油の壺を取り、イスラエルの最初の王サウルの頭に油を 注いで言った。「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼ら [預言者の一団]と共に預言する状態になり、 あなたは別人のようになるでしょう」(サムエル上一〇・六)。アモスやホセア、ミカやイザヤなど、バビロン 捕囚以前の古典的預言者たちは、霊的な恍惚状態に陥ることが目的ではなく、主の言葉(ココ)を誤り なく冷徹に取り次ぐことに使命を見出していた。だから霊に満たされるという表現を用いることには控え目 だが、それでもあえて同胞の罪を告発するには主の霊が必要であることを知っている。「しかし、わたしは 力と主の霊、正義と勇気に満ち、ヤコブに答を、イスラエルに罪を告げる」(ミカ三・八)。
何よりもイスラエルを苦難の歴史から救い出す未来のメシア的な王は、主の霊に満たされて良き統治を行 う。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどま る。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。……弱 い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザヤ一一・一―四)。「見よ、わた しの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」(イザヤ四二・一)。未来のメシア王は、ヤハウェの義と憐れみを実現する霊の担い手として登場する。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良 い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放 を告知させるために」(イザヤ六一・一)。
では、そのように霊の担い手によって良い知らせが伝えられ、解放が告知された時、何が起こるのだろう。 その時、嘆いている人々が慰められるということが起こる。そして、それまで希望を失い、嘆くほかなかっ た人々が、今度は荒廃のただ中で人々を慰めるメシアの民として、世界の廃墟を建て直す希望の担い手とな っていく。「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗 い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ば れる。彼らはとこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。 ……彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであ ろう。これこそ、主の祝福を受けた一族である、と」(イザャ六一・三一四、九)。
霊の注ぎは新しい集団を造り出す。人間の霊が萎え果て、無気力に陥り、枯渇するほかない人間たちの上 に、ほとばしる圧倒的な生命力として霊が注がれる。その時メシアの民として、滅び行く死の世界の中で命 の希望を担う共同体が誕生する。枯れた骨の満ちる絶望の谷に、霊の風が吹き渡った時のように。「主なる 神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば 彼らは生き返る。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自 分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(エゼキエル三七・九―一〇)。」芳賀力『神学の小径Ⅱ』、293〜295ページ。
[iv] 「聖霊が臨むところには共同体ができる。バラバラであったものが一つに集められ、和解と一致が起こる。 神の共同体は、ただ聖霊の業によってのみ誕生する。そして、そのような共同体が啓示の媒体(メディア) となる。そこでは啓示の共同主観的現実化が起こっており、その内的な礼拝的出来事から、外に向かっての 啓示の証言が始まるのである。始まりは、具体的な形と場所を持っている。それは、みんなが一つになって 復活の主を礼拝するために集まった神の集会である。
イースター後の弟子たちを特徴づける表現はすべて、「集まる」という基本的な行動パターンを強調して いる。しかもそれは、みんなが「同じ場所に(ἐπὶ τὸ αὐτὸ epi to auto)」集まるという仕方においてである。「一つになって」「一緒に集まり」とも訳されるこの用語エピ・ト・アウトーは、やがて定型句となって、礼拝共同体としての教会の本質を言い表す表現になっていった(使徒言行録一・一五、二・一、四四、四七、第一コリント一一・二〇、一四・二三、イグナティオスのフィラデルフィアの信徒への手紙一〇・一、バルナバの手紙四・一〇など)。 同じ場所に集まることなしには、キリスト教は存在しない。そこでは、渡され挙げられた方を礼拝するため に人々が集まり、回覧されてきた手紙が朗読された。「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。またラオディキアから回ってくる手紙を、あ なたがたも読んでください」(コロサイ四・一六)。渡され挙げられた方についての宣教がなされ、讃美が歌わ れ、共通の信仰が言い表された。礼拝する共同体の中で言葉は、「現に働いている」神の言葉となった(第 一テサロニケ二・一三、また第一コリント一四・二四一二五、ルカ一〇・一六をも参照)。この神の言葉を聴いて悔い改 めた者は、洗礼を受けて共同体のメンバーとなり、共に聖餐を祝った。それは、挙げられた主と共にする御 国の食事の先取りであった (E. Schweizer, Der Gottesdienst im Neuen Testament, Zürich 1958. C. F. D. Moul, Worship in the New Testament, 1961 参照)。まさにこの聖餐こそ、主が自分たちのために渡された体なのだということをあ りありと想起させ、それを通して教会が自らを繰り返し一つなるキリストの体として表す礼拝の慣習となっ た。なぜなら使徒パウロは、特に聖餐との関連においてのみ、キリストの体という言葉を用いているからで ある(E・シュヴァイツァー『新約聖書における教会像』前掲一四一、三四四頁)。
聖霊の注ぎの下で一つとなった集まりの特質を最もよく言い表したものが、この「キリストの体」という 注目すべき言葉である。この考え方の宗教史的な由来についての考察は、教会論のところで改めて論じられ るべきであろう。今この序論の段階で明らかにしておきたいことは、この用語が新約聖書の中で使用される場合の神学的な内容である。
第一コリント一二章の釈義においてK・バルトは、教会が第一に体(ソーマ)とは呼ばれていない点に注 意を喚起する。そこでまず第一に体と呼ばれているのは、キリストご自身である。多くの部分から成ってい ても体は一つだという特徴は、何よりもまずキリストご自身について語られている(一二・一二)。そしてそ れ故に、キリストに基づく教会にも当てはまるものとして、「あなたがたはキリストの体であり、また、一 人一人はその部分です」(一二・二七)と語られるのである。つまり、教会は一つの有機的な社会組織であり、 その意味で有機体の持つ特徴を持っているが故に教会は体だと言われているのではない。そうではなく、まず何よりもキリストご自身が体であり、そして教会が実際にキリストによって呼び出され、一人ひとりがこ の方に属し、その幹に連なる枝となっているからこそ、教会は彼の体なのである(KD IV/1, S.741 井上良雄訳 新教出版社邦訳版三九頁)。
では、キリストご自身の体とは何か。それはまず、十字架につけられ、死に渡された体を意味する。この 点で、ソーマ(体)という言葉が元来、死んだ体、屍という意味を持っていることを銘記することには意味 があるとバルトは見る。キリストは十字架で「罪の体」(ローマ六・六)、「肉の体」(コロサイニ・一一)、「死の 体」(ローマ七・二四)を死に引き渡し、取り除いたのである。それ故、彼において屍となり、彼と共に屍として葬られたのは、転倒と破滅の中にある人間の死すべき体である。教会に代表として集められている彼ら すべての者が、ゴルゴタにおけるその遂行の中にあったのであり、そのようにして裁かれ、処刑され、除去 されたのである。しかし、ソーマがまた生きた体を意味するように、今や彼の体の甦りにおいて、教会に呼 び集められたすべての者が彼にあって新しい人間とされる。「まさにその甦りに基づいてこそ、教団に対して『あなたがたはキリストのからだであり・・・・・』(第一コリント一二・二七)と呼びかけることが出来、呼びか けなければならない。と言うのは、まず彼の甦り給うたからだにおいてこそ、彼において決済された・罪あ る・肉の・死に陥った人類は、新しい義と生命における存在へと、目覚ましめられたのだからである」(KD IV/1, S.741 邦訳版四○頁)。そして、死せるキリストを生かしめたものが聖霊であったのと同じように、教 会を生命へと呼び覚ますものもまた聖霊である。聖霊は、死せる人間を生かす霊(ローマス・一一)であるが、 まさにそのことが何よりもイエス・キリストの体においてこそあらわとなる。一面枯れた骨に埋もれた谷に 聖霊の風が吹き渡る。「すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に 大きな集団となった」(エゼキエル三七・一○)。まさにそのようにして教会は、聖霊によって建てられるキリストの体となったのである。」 『神学の小径I』、112〜115ページ
[v] 「聖書へと定着する啓示の 語りは、常に教会と共にあり、教会はこの啓示の語りから誕生した。どちらが先と言うのではない。両者は相即不離である。教会が誕生した五旬祭(ペンテコステ)の日。麦の収穫を祝うこの祝祭は、同時に、モー セがシナイ山で律法(神の言葉)を授けられた記憶と結びついている。人々はこの日を「集会の日(ヨー ム・ハカハール יוֹם הַקהל(「と呼び慣わしてきた。「主は、集会の日に、山で火の中からあなたたちに告 げられた十戒と全く同じものを板に書き記して、それをわたしに授けられた」(申命記一○・四、また五・二三、 九・一〇、一八・一六)。「集会の日」は、ギリシア語訳では「エクレーシアの日(ἡμέρα τῆς ἐκκλησία)」とな る。このエクレーシア(集会)という言葉を、初代教会が自らの存在(教会)を言い表す際に用いたことは 非常に意義深い。ただ自分たちの興味や関心の故に集まる集会ではなく、特に神の言葉を聴くために神によって呼び(καλέω) 出された (έκ) 群れ、すなわち、エクカレオーされた共同体として彼らは一つになっ た。かつて啓示された神の言葉が、それを担うモーセとその共同体を生み出したように、今やまことの神の 言葉が、それを担い証しする教会を生み出しているのである。まことに教会は、「神の言葉から生まれた」 (ベルン提題、一五二八年) 集会であり、神の言葉を何度でも繰り返し喜んで聴き、それを自らの生き方の中で新たに語り直す共同体として、聖霊によって建てられているのである。」『神学の小径I』、119ページ
[vi] 参照、チャールズ・リングマ『風をとらえ、沖へ出よ』
[vii] 5章では、アナニヤとサッピラの偽善が、「聖霊を欺き」と言われる。聖霊なる神による教会共同体であることを見失い、自分たちのプライド、競争心、私欲のために、うわべだけの奉仕・熱心を競おうとすることは、真理の御霊への冒涜である。教会はここに立つ。
[viii] 6章、寡婦への配給の問題が起きる。聖霊に満たされていても、このような問題は起きる。しかし、その問題に対処するための人選は、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」を基準として行われる。

