2026/5/10 イザヤ書40章1〜11節「草と羊飼い」 招詞:Ⅰペテロ1章24~25節
慰めよ、慰めよ、わたしの民を。
優しい、優しい、神の言葉で40章は始まります。前回39章までの散文とは打って変わった、慰めの恵みに満ちた言葉です。多くの学者は、この40章から55章までを一つの大きな区切りと見ています。そして、今日の1~11節、もしくは31節までの40章全体が、その大段落のまとめ、要約であると考えています。それが「慰めよ、慰めよ」と始まるのです[i]。
慰めよ、慰めよ、わたしの民を。――あなたがたの神は仰せられる――2エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。
ここまでもイザヤ書は、イスラエルの罪を責める厳しさの合間に、将来の希望を語って来ましたが、ここからは圧倒するような畳みかけ方で、慰め、赦し、希望を語って行きます。苦役は終わっていると呼びかけよ、と言われます。聞き手は苦しい中にあったのでしょう。そしてそれは自分たちの咎(罪・実際の過ち)の罰だ、報いだと思っていたのでしょう。神は言われるのです。その咎は償われている、と。ここで「二倍の物を」とありますが、犯した罪の報いを倍返しで受けた、ということではないでしょう。罪の償いは、人間は自分では出来ません。どんな苦役も、神に対する罪を償うことは出来ません。咎の償いは神御自身がしてくださるのです。これはこの後、55章までの中で明らかにされていきます[ii]。ただ神が、あなたの苦しみはもう十分だ、と言ってくださるのです。いやそれ以上に、この「二倍のもの」とは他の箇所では「長子の受ける相続財産」の事として使われる言葉です。その意味だとしたら、罪の報いを受ける代わりに、長男がもらうような特別な財産を受ける、という意味になります。そういう読み方が出来てしまうのではないか、というぐらい、ここにはべらぼうな慰めが語られます。
この部分の特徴は、一つには新約聖書のあちこちでここからの引用があることです。3節は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書全てで引用されます。主イエスの活動に先立ち、洗礼者ヨハネが登場するに際して、この「荒野で叫ぶ者の声がする」と言われます[iii]。また6~8節はⅠペテロ1章で[iv]、11節の「主は羊飼いのように、その群れを飼い…」は、ヨハネの福音書15章の「わたしは良い牧者です。」に展開されています[v]。他にもあります。逆に言えば、主イエスが来られ、新約の教会が誕生した時、このイザヤ書40章を強く意識したのです。
もう一つ、9節の「シオンに良い知らせを伝える者よ」とあります。「良い知らせ」これが「福音」という言葉になりますが、福音良い知らせという言葉が聖書で初めてハッキリと使われたのがここです。そしてその良い知らせとは「見よ、あなたがたの神を。」という「知らせ」です。
10見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
力ある主、かつ、羊飼いのように優しく引き寄せ、抱き、導いてくださる主。そういう主が、「あなたがたの神」としておいでくださる。これが「良い知らせ」です。3節でもそうでした。
「3荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」
その大路を備えるのは何のためかといえば、主の元に行くためではなく、主が来られる大路なのです。神が来られる。そのために、その道を用意せよ、真っ直ぐにせよ。
4すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。5このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」
すべての谷は引き上げられ、山や丘は低くなるとは、単に主が来られる道の事だけでなく、人間の中にある凸凹でこぼこ、身分や上下、人を卑しめたり思い上がったりしている不正も、主が来られる時に一掃されることを言います。イザヤ書はずっと社会の貧富・差別・上下関係を批判してきました。また、後にこの言葉の成就として登場した洗礼者ヨハネは、集まってきた人たちに「先祖はアブラハムだ」と自慢するのをやめ、貧しい人に持ちものを分け、取税人や兵士の地位でふんぞり返らない生き方を語りました[vi]。主が来られる時、不正や不平等はなくなるのです。そのようにして、主の栄光が現される。すべての肉なる者がともにこれを見る、のです。
ですから、主の力強い栄光とともに、6節以降では、人がどのような者かを描きます。
6「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
私たちは自分の業績や財産を誇り、同じ人間で比べ合っては自惚れたり争ったりする。でも人はみな草だ、人間の自慢や称賛なんて野の花のよう。しおれ、散るものに過ぎない。
7主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。…
実に小さく、儚い、思い上がるなんて恥ずかしい、草や花…。
しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。
神の言葉の揺るがない確かさ、永遠の事実です。
「良い知らせ」――福音とは神が来てくださること、そして人間が草や花と等しいことを思い起こし、主の言葉の確かさ、優しさ、力強さに与ることです。だから、それを忘れて作り上げた、曲がった道を真っ直ぐにし、凸凹道を平らに均ならすこと――人間の思い上がりと他者を見下したり嘲り踏み躙ったりする間違いを私たちも均すし、神ご自身がそうしてくださるのです。そうです、主が来られ、私たちを新しくしてくださる――これが「福音」の第一の意味です。
それは余りにも現実味のない、理想論と思うでしょうか。私たちの生活がもっと平和で整っていれば聞けるかもしれないけれど、今の世界を見ればそれとは程遠い現実だ、でしょうか。このイザヤ書が語られるのも、決して平和で長閑な世界ではなく、戦いや帝国の包囲があり、平時であれば権力や差別が横行する社会でした。この言葉――「慰めよ、慰めよ」は、慰めなどない時、苦役の中にある民に語られた言葉、なのです。
最初に申し上げたように、この40章からは今までとは違う書き方になり、40~55章が一纏まり、そして56章から66章までが最後の一纏まり、という区切り方が一般的です。けれどそれは便宜上であって、別々の書、違う話ではなく、前後が繋がり、続いている、全体でイザヤ書という一つの本なのです。丁度今から80年前、イスラエルで死海写本が発見されました。二千年前の羊皮紙に描かれた巻物の中にあったイザヤ書には、この箇所が39章と40章が区切りや「40章」とも書かれずにスムーズに繋がってありました[vii]。むしろ、将来バビロンに連れて行かれること、それを聞いて「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」としか言えないヒゼキヤの不甲斐なさの直後で、「慰めよ、慰めよ」と言われ、主が来られる大路を備えよ、と叫ぶ声がここにあります。その時の現実がどんなに暗く、ガタガタで、人の栄えが永遠のように見えても、そこでこそこの言葉は語られています。
しかしまた、それはただの慰めや明るい将来の約束ではありません。良き知らせは、私たちの道が整えられ、高ぶりは低くされ、人を卑しめる生き方が終わる、根本的な変化を伴います。これは特に、次の56章以降でのメインテーマですが、それはこの部分にも垣間見えます。萎れる草や散る花だと謙るとともに、低く軽んじて来た人――容貌でも過去の失敗でも自分の好き嫌い、家族や自分自身の価値でさえ、卑しめない。そうイザヤは私たちに呼びかけますし、主は来られて、そのようにして、御自身の栄光を現されるのです。福音とは、死後や将来の話である以前に、今ここに主が来られて、私たちを変え始めたことです。私たちが慰めを受け、罪の赦しを戴き、自分の中にある曲がった道に主を迎えて、真っ直ぐにしていただくことです。
「慰めの神、主の声を聞きました。力強い神である主、そして私たちの羊飼いなる主の慰めを、罪が償われたとの言葉を、本当に「良い知らせ」を聞かせてくださいました。そして今、主イエスにあって、赦しと慰めの福音をハッキリと知ることが出来ます。多くの言葉が飛び交う中、永遠である神のことばによって、私たちを整えてください。高ぶりを謙らせ、暗い谷間に光をもたらすのは、主よ、あなたの恵みだけです。その恵みに、どうぞ日々与らせてください。」
[i] 「ヘンデルの『メサイア』は「慰めよ、慰めよ」と柔らかく歌いだし、イザヤ書四○章の始めから取られた歌詞が次々に歌われます。この歌詞がまずヘンデル自身のために老いて病気の後遺症に悩む日々に慰めの言葉となりました。その心の感動と共に作曲された歌が聞く者に響き、慰めの音楽となるのです。」、柏井宣夫『平和な未来を告げるイザヤ書による説教』(新教出版社、2006年)、96ページ
[ii] イザヤ書53・8:虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
[iii] マタイの福音書3・3:そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、4「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。5この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
マルコ1・3:預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いを あなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ルカ3・1~4:1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。
主の通られる道をまっすぐにせよ。5すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。6こうして、すべての者が神の救いを見る。』」
ヨハネ1・23:19さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、20ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。21彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。22それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」23ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」
[iv] 6〜8節:Iペテロ1・24〜25 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。」
また、ヤコブ1・10(富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。)、マタイ5・18(まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。)も参照。
ヨハネ21・15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
[v]ヨハネ10・11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
[vi] ルカの福音書3・7~14、参照。
[vii] 「「聖書を章や節に分けるのは実用的な助けであるが、もともとのテキストにあるわけではないし、「通して読む」ことができなくなって、重要な意味を見失ってしまうこともしばしばである。Q、すなわち死海写本のイザヤ書では、40・1と呼ばれている箇所が、30・8が終わっている欄の下から二行行ったところから、何の区切りや新しい開始を提示することなく始まっている。注目すべきは、悲運のことば(30・5-7)と慰めのことば(40.1)が並べて置かれていることである。さばきが宣告されることは、慰めが告知されるより別段早いわけではないのである。実際は、一つの声が悲運を語っている(30・5以下)のに対し、40・1では複数の命令形が、慰める者の一団を、三つの声が呼ばわっているのが聞かれているところから(40・3、6、9)呼び集めている。それで、慰めのほうが糾弾よりもより豊かにあふれているのである。そればかりか、さばきが一つの罪深い民にもたらされるのに対し(30・5以下)、慰めは、これから見ていくように、全世界を取り巻くように広まっていくのである。」、モティア、321〜322ページ

