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2024/5/5 ヨハネの福音書16章16〜23節「いのちを産むための悲しみ」

死は人の最後の仕事だと言います。死の先にどんな姿を思い描くにせよ、地上の人生が終わり、今まで触れ合いが終わる。その悲しみの別れで、感謝を伝えて死ぬことは、愛する人への最も美しい贈り物です。神であるイエスは完全な人間ともなりました。イエスの、明日十字架に死ぬ前夜、弟子たちとの別れに、人として丁寧に言葉を綴る姿があります。

16しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

この言葉を聞いて弟子たちが動揺した様子が18、19節です。どういうことだろう、何のことだろう、分からない、と数名が(イエスに直接でなく)互いにヒソヒソ話します。6節では「あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」とイエスは言っていたのですが、そうだとしたらこのヒソヒソ話は、イエスの言葉にひどく動揺しているからこそ、悲しみを認めたくなくて、イエスの言葉から目を逸らして、「何のことか分からない」と逃げているのでしょうか。イエスはその彼らの思いをも汲んでくれて、イエスの方から言葉をかけるのです。

19イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。20まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

この「悲しみは喜びに変わります」とは、悲しみが喜びに置き換わる、というよりも、悲しみが喜びに変化する、姿を変える(トランスフォーム)、という意味です。悲しみが終わって喜びが始まる、というよりも、悲しむからこそ始まる喜び、泣き嘆き悲しみを通らなければ始まらない喜び、イエスを見なくなる、という体験を通しての喜びをイエスは言うのです。そのための譬えが続きます。

21女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

「産みの苦しみ」に準えて、これからの悲しみ、嘆きを言うのですね。

22あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

出産が苦しみを経て、それを忘れるほどの生まれた喜びの大きさに至るように、弟子たちがイエスと別れて通る悲しみは、喜びで満たされる時に至るのだ、というのです。

「産みの苦しみ」という言葉は日本語でも古来言い慣わされてきた慣用句ですが、苦しみの大きさを指す方に偏って、それが「産みの苦しみ」、何か新しいものを産み出す、という面が忘れられがちなことが多いようです[i]。確かに今から2千年前、当時の医学の出産は苦しみを和らげる手段は少なく、文字通り命がけでした。それでも命を産み出されたのです。勿論その苦しみを当然だとか美談とは出来ません。また帝王切開や無痛分娩を選ぶと非難されるようなことも、苦しみの美化の弊害です。命を重んじるからこそ医学が進歩し、出産のリスクが少しでも減り、苦痛が緩和されたのは尊い前進です[ii]。大事なのは苦しみそれ自体ではなく、「一人の人が世に生まれた喜び」です。ここでイエスは「わが子が生まれた」でなく「一人の人」と言います。母のお腹で育ち難産した赤ちゃんも、決して母の所有物や一部でなく「一人の人」、親とは別人格の存在です。命を懸けて生んで、目の中に入れても痛くないと愛を注いでも、親の夢や愛を押し付けられないし、願い通りに育ちはしない。その子の夢、個性、願い、人生がある。そういう新しいいのち、自分でない「一人の人」を産み出すため、苦しみや人生の変化を引き受ける、ということが「産みの苦しみ」でしょう。12章24節が重なります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

この苦しみや死を引き受けながら、新しい実、次のいのちを産みだしていく、というのがイエスが教えた事であり、実際この世界のサイクルであり、イエスがなさったことです。

ヨハネ1章12、13節しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってもでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

神が私たちを生んでくださる。その出産もただ神の不思議な力で生まれたのではなく、イエスご自身の「産みの苦しみ」、受肉と生涯と十字架と死がありました。また、私たちも何の苦労もなくパッと神の子となる信仰を持つわけではありません。出産は母にとってもリスクですし、生まれる子も胎児の心地よさから外の世界に出て行く大冒険です。私たちが神の子とされるのも、神の全能の力やヌクヌクとした愛に守られる関係から、イエスに愛されたように自分も他者を愛する、新しい誕生なのです。悩みや痛み、何かしらイエスが必要だと思い知る経験を通って、イエスに従って踏み出すのです。イエスに愛され、そのように互いに愛し合う――それは愛しやすく心地よい関係ではなく、自分とは違う「一人の人」、同時に自分と同じ「一人の人」を認めること――そこにある違い、どうにもならなさ、自分の無力さ、やがて訪れる別れや受け入れることです。その苦しみ・悲しみを、逃げたり神様の力でどうにかしてもらおうとしたりせず、主にあって受け止め、ちゃんと苦しみ、ちゃんと悲しむ時に、その悲しみは一人の人を喜ぶ喜びに変わるのです。悲しみをも含めた相手との関係を丸ごと受け止めるのが、愛することです[iii]。いみじくも、日本語では「愛しむ」と書いて「かなしむ」とも読みます。愛と悲しみとは切り離せません。だから悲しみは喜びにもなる。

そしてイエスも「一人の人」、誰も引き留めておけない存在でした。イエスは別れる弟子たちの悲しみを実に深く汲んでいます。イエスが再会を語るのは、ここが最後の晩餐で初めてです。今まで再会には触れません。教会の葬儀で、別れの悲しみを慰めようと、すぐ将来の再会を語ることがありますが、イエスは安易に再会に飛躍しません。むしろ人となった神の子イエスはここで徹底して人間であろうとし、別れの悲しみを弟子以上に受け止めています。去ることの悲しみを十分踏まえながら、その間に来る「もう一人の助け主」聖霊のことを語りました。それでも弟子たちの心が別れを受け止めきれないことも知った上で、ここでその悲しみを「産みの苦しみ」に重ねて、悲しみが産み出すいのちを語るのです。イエスを信じているからいい、別れや悲しみなんて分かりたくないならいい、とは思われない。イエスが見えない、何を言っているか分からない時を通らせ、その悲しみや苦しみが「産みの苦しみ」となり、主も聖霊もともに苦しみ、うめきながら、私たちを神の子どもとなる特権に与らせるのです。

22節の

「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。」

「わたしはあなたがたを見ます」という言葉です。私たちがイエスを見る、のではなく、イエスが「わたしはあなたがたを見る」と言うのです。私たちは、私たちを見るイエスを見るのです。どんな目でイエスが私を見てくれているか、イエスの言葉が分からず、激しい痛み、苦しみの中でイエスが見えない、また人を愛することの難しさに苦しみ悲しんできた私たち一人一人を、イエスが見てくださる。その眼差しを知る時、私たちの心は喜びに満たされるのです。決して恥じ入るとか、申し訳なく思わされる眼差しではないのです。どんなに愛されていたか、どんなに私たちを愛しみ、ともに悲しみ、尊ばれていたかを知り、喜びに満たされる、その喜びを私たちから奪い去る者はない、そういう再会をイエスは約束しているのです。そこに向けて、私たちが今涙し、嘆き悲しむことも、産みの苦しみとなる時を旅しているのです。

「今は目に見えない主よ、あなたは人である私たちの限界や悲しみもご存じです。私たちの偶像となるより、私たちをあなたに似た者として生み育ててくださる愛を感謝します。産みの苦しみを厭わず、産み出す喜びに満ちている主が、私たちもその喜びで満たしてください。愛そうとするからこその悲しみ、主に似た者とされるための痛みを見分けさせてください。その末に、やがて私たちをご覧になるあなたと会う時が、永遠の喜びとなりますように。御名により」

[i] マタイの福音書24章4~8節では、「世が終わる時のしるし」について弟子たちが尋ねた時、イエスは、惑わされないようにと警告し、偽キリストや戦争や戦争の噂、飢饉と地震が起こるけれど「これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言います。その時から今までの二千年、戦争や地震や災害は何度も繰り返されてきて、そのたびに人も教会も「世の終わり」の前兆だと騒ぎました。イエスは、惑わされるな、それらは「産みの苦しみ」、そこから何かいのちを産み出される神への期待を抱くよう仰ったのです。最後の晩餐でも弟子たちに、ご自分が去り、世が喜び、悲しむ時、それもひどく悲しみ嘆く時をも、ただ耐え、我慢する時ではなく、産みの苦しみと言うのです。

[ii] 妊娠した女性が、からだの辛さを訴えても、「出産は痛いのが当然だ」とか、出産に際して「声を上げるのははしたない」と黙らされた、というエピソードは、全くナンセンスな話です。

[iii] 若松 英輔「「愛」という言葉は難しい。愛すると愛(いつく)しむは同じではない。愛(いと)しむも異なる意味を持つ。愛しむと書いて「かなしむ」と読む。愛するはloveに近いが愛(かな)しむの世界には、loveという言葉では捉えきれない何かがある。詩集『愛について』(亜紀書房)はそんな気持ちで書きました。」https://twitter.com/yomutokaku/status/1602658226897813510