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2024/5/12 ヨハネの福音書16章23〜28節「神からの友情」

イエスが十字架にかかる前夜、弟子たちに最後に語った「遺言説教」をずっと読んでいます。今日の言葉が一先ずの結びとなり、29節でそれに弟子たちが応答をしたやり取りが交わされ、17章では目を天に向けて父なる神に語る祈り(大祭司の祈り)で終わる。そういう流れです。ですから今日の部分が、ずっと語って来た告別の言葉の、一先ずの締め括りです。[i]

イエスはまもなく弟子たちと別れます。寝食を共にして旅をしてきた生活は一変します。イエスが憎まれたように、弟子たちも憎まれ、迫害が予告されます。助け主なる聖霊を遣わす事、どう助けてくださるかを語り、やがて再び会う時が約束されました。その将来を語りながらの23節「その日には」です。

23その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。

べらぼうな約束です。あまりにべらぼうすぎて、信じ切れなくて、読み飛ばされている箇所なのかもしれません。勿論、単に何でも与える、というのではなく、「わたしの名によって父に求めるものは何でも」です。イエスの名を、おまじないか殺し文句のように祈れば、ではありません。イエスとはどんな方か、何を教え、どんな願いを願い、喜ぶ方か、そこに立ってということです[ii]。お金持ちや有名人になりたい、人を支配したり仕返しをしたりしたい、そんなイエスなら願わないことを「イエスの名によって」祈ることは出来ません。というと「なーんだ、やっぱり『何でも』って言っても、自分の願いは殆どダメなんじゃないか」とは思ったら…しめたもので、次の24節をよく読んでみてほしい。

24今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。

喜びに満ち溢れる、なのです!直前20節や22節でも

悲しみは喜びに変わります…あなたがたの心は喜びに満たされます。」

その喜びは誰も奪い去れないと言われました。正確には22節は「喜びます」なのですが24節は文字通り「喜びが満ち溢れる」です。イエスが私たちと会ってくださる、それだけで、心は喜ぶ。それだけでも本当に想像を超えた恵みです。しかしそれで終わりではなく、私たちがイエスの御名によって父に求め、父が与えてくださる。それは満ち溢れる喜びとなる。ここにヨハネが繰り返す「永遠のいのち」というもののダイナミックさがあります。箴言13章12節に

期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木

とあります。期待とか望みとかを押さえつけたまま、神様とともにいるだけで満足して永遠に生きる、なんてことではない。心にある求めを祈り、それを父が聞き、与えてくださる。そういう動きのある中で、喜びが満ち溢れるいのちはあるのです。

ただ問題は、私たちはその願いを自分でもよく分かっておらず、屈折したり薄めたりしがちなことです。

イエスの弟子と母が、イエスの右左の位を求めた時、イエスの答は

「あなたがたは自分が何を求めているのか、分かっていなません」

でした[iii]。また十字架の上でもイエスが祈りました。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」[iv]

私たちは自分が何を求めているか、その願いが本当に自分の喜びなのか分かっていません。物を得た喜びはやがて飽き、人と比べての願いは幸福からますます遠ざかり、誰かに復讐することは癒しとも回復とも無関係です。私たちの喜びが満ち溢れることにならないような、抑えたり、切り詰めたりしたような願望ではなく、イエスの名という、深く惜しみない名前に入れるにふさわしい、正直で、本当に心からの願いを、私たちは祈るようになる。それを父が応えるから、私たちの喜びが満ち溢れるのです。イエスの御名を呪文やパスワードにして祈るのではなく、イエスと言う名との出会いが、私たちの心の深い願いを開くパスワードになるのです。

ここでもっと大事なのは、イエスが私たちと父なる神とを本当に深く結びつける事実です。

25わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。26その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。27父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。

イエスがぶどうの木の譬えなどで話してきたことが、はっきり伝えられ現実となる時が来る。イエスの名によって祈るというのも、イエスが間に入って私たちの願い事を取り次ぐというのではなく、イエスを遣わしたのは父ご自身であって、父がイエスによって私たちの罪を赦し、私たちの祈りを聞き、私たちの喜びを満ち溢れさせようとしてくださるのです。

27節の「父ご自身があなたがたを愛しておられる」。この「愛」は神の愛のアガペとは違う、友情、友愛を表す言葉です[v]。同じ節の、弟子たちがイエスを愛するもその友愛、友情のような親しい愛ですし、今までイエスが、友としての愛を語って来たことはありますが、父なる神がこの愛(友愛)で私たちを愛している、というのです。父が私たちを友として愛する、友情を送ってくださる。その友情を成り立たせたのはイエスによってであり、その友情を届けてくれるのは助け主なる聖霊。その神の交わりの中で、私たちがイエスの名によって父に自分の願うことを何でも祈る。そういう親しく力強い、驚くような交わりを、イエスはご自分が去って行こうとしているこの最後の晩餐の結びで、将来に示します。その上で、結びはこれです。

28わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って[vi]、父のもとに行きます。

これはこの福音書の最初から語られ、私たちが告白するキリスト教信仰の中心・常識であるわけですけれど、改めてこうしてみると、父からイエスが出て、世に来て、再び父に帰るということが、父の愛・友情から始まったことで、それをイエスは弟子たちに確りと届けてくれて、その完成のために帰ったのだなぁと驚嘆します。父と御子と聖霊の神は、その交わりのうちに私たちを、友として招き入れてくださった。今私たちに到底理解も想像も出来なくても、確かに私たちの心が喜びに満ち溢れるような将来、だからといって自分の小さな願いは我慢するとかではなくて、心からの願いを遠慮なく祈って、それが満たされて喜びが満ち溢れるほどの関係が語られているのです[vii]。ここでそれを信じなさい、とは言われません。信じるとか何か条件を満たしたら、それが与えられるとは言われません。弟子たちも今の私たちも、まだ信じがたい、思い描けないほどの将来、神からの永遠の友情の贈り物は、約束され、保証されている将来の事実です。別れの悲しみと、迫害や困難が起きる予告と同様の、確かな事実です。

ここで命じられているたった一つの命令文は何ですか。24節の

「求めなさい」

です。求めなさい、とイエスは言います。わたしの名によって求めなさい。あなたは何が欲しいのか、何を求めているのか、とイエスは問いました[viii]。おとなしく「神様さえいれば、後はお望みのままに」と黙れば、後は神が忖度して恵みを下さる、ではありません。私たちが求めを口にし、それに溢れるほどに応える父との関係がイエスの名によって与えられる「その日」に向かっているのです。求めましょう。宝くじが当たるとか、罪がバレませんようにとか、ちょっと長生き出来ますようにとか、せめて〇〇というような、神の友情を安売りして手を打つのでは勿体なすぎます。地上の別れの悲しみや迫害が避けられなくても、それでも喜びを奪い去れない、心の願いがすべて叶えられて喜びが満ち溢れる、そういう約束がある。そうして下さったイエスの名によって求め始める者となるのです。求めることで、私たちの心、他者の心に対する眼差しも新しくされるのです。父は私たちに御子を与え、友愛を与え、喜びを溢れさせてくださる神です。

「父なる神よ、御子イエスの名によって私たちは祈り、あなたが聞き、応え、喜びを満ち溢れさせてくださると期待して求めます。私たちの深い願いを、私たち以上にご存じの主が言葉と思いを導いてください。みことばと御霊によって心を整え、期待させてください。すべての人の切なる願い、諦めや思い込みのそこにある渇きも憧れもご存じのあなたが、どうぞ今その御業に与らせ始めてください。その愛を私たちにも与え、私たちを通して人々に与えてください」

[i] それだけに、本当にここには壮大なエンディングがあります。中には、今までの繰り返しで目新しいものはない、とそそくさと読む人もいるようですが、これはクライマックスです。

[ii] 山室軍平「彼の名によって祈るとは、つまり彼の心を持って祈ることである。彼から裏書し、また推薦していただけるような、祈りをするべきことを言ったものである。そのことについてルーテルは言った。「私どもの祈りがもし、私ども自らの価値の上になされるものなら、たとい血の汗を流してこれを勤めるとしても、それは無価値である。」」180ページ

[iii] マタイの福音書10章20~28節。

[iv] ルカの福音書23章34節。

[v] https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/95738cdafe653de4e993199e98c445c6

[vi] アフィエーミ https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/95738cdafe653de4e993199e98c445c6

[vii] 「コミュニティ私たちの人生は、イエスの人生に似るように定められています。イエスの宣教が目指したものは、御父の家に私たちを連れて行くことです。イエスが来られたのは、罪と死の束縛から解放するためだけでなく、イエスが保っている聖なる生活の親密さに私たちを導くためです。その意味することを想像するのは困難です。なぜなら私たちは、イエスとの距離がいかに遠いかを強調しがちだからです。罪深い、破綻した私たち人間は、近づきがたい全知全能の神の子としてイエスを見てしまうからです。しかしそう考えるなら、ご自身の命を私たちに与えるために来られた事実を忘れてしまいます。イエスは、御父との愛にあふれた交わりへと私たちを引き上げようとして来られました。イエスの宣教のこうした根本的な目的が分かって初めて、スピリチュアルな生活とは何かを私たちは理解できるのです。

イエスのものは、すべて私たちが受け取るために与えられています。そのなすことすべては、私たちもできるようになります。私たちを二流市民として扱ってはいません。私たちの前で隠しだてするものは何もありません。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」(ヨハネ15・15)、「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い」(ヨハネ14・12)とあるとおりです。イエスは、ご自分のいるところに私たちをいさせたいのです。その意図は、イエスの祭司としての祈りの中に、疑問の余地なく明らかにされています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。・・・・・・あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。・・・・・・また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、・・・・・・与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。・・・・・・わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(ヨハネ17・2~26)。これらの言葉は、イエスの宣教の本質を見事に表現しています。イエスが私たち人間と同じようになられたのは、私たちがイエスのようになるためです。イエスは神と等しいことに固執せず、かえってご自身を空しくし、私たちのようになりました。それは、私たちがイエスに似た者となり、その聖なる生活を共有するためです。

人生を根底から変えるのは聖霊の働きです。弟子たちは、その意図するものをほとんど把握できませんでした。イエスが肉体をもって彼らと共にいたときでさえも、聖霊のうちにあるイエスの臨在の満ちあふれたさまに気づきませんでした。ですから、次のように言われたのです。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者[聖霊]はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。・・・・・・その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、「その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言ったのである」(ヨハネ160・7、13~15)。

イエスは聖霊を送ってくださり、そのことを通して、神と共にある生活のまったき真理へと導いてくださいます。真理とは、思想、概念、教理のことではなく、真実な関係のことです。真理に導かれるとは、イエスが持っている御父との関係と同じものに導かれる、ということです。つまり、聖なる婚約関係に入ることです。

ですから、聖霊の降臨はイエスの使命を完成することです。そこにおいて、イエスの宣教の全貌が目に見えるものとなります。聖霊が弟子たちに降り、彼らの間に住まわれたとき、その生活はキリストに似た生活へ、御父と御子の間に存在する同じ愛で造られる生活へと変えられました。スピリチュアルな生活とは、聖なる生活にあずかるために引き上げられる生活のことです。」ナウエン、166〜168ページ

[viii] マタイの福音書20章32節、マルコの福音書10章36節、51節、ヨハネの福音書1章38節、他。