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2024/4/28ヨハネの福音書16章12〜15節「今は耐えられないことも」

ヨハネの福音書では、聖霊のことが繰り返されます。14章から16章までの「告別説教」でもイエスは、自分が去った後のことを弟子たちに教えながら、助け主なる聖霊の派遣を四回繰り返しています。この16章7節から15節はその四回目、最後、最も長く詳しく、聖霊のことが語られます[i]。そして、ここを読むとイエスが聖霊の派遣を約束したことこそ、私たちにとっての確かさであり、慰めであり、キリスト教信仰のユニークさだとつくづく思います。[ii]

12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをそのすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

イエスが遣わす聖霊の助けがなければ、人はイエスの教えを受け取ることは出来ません。この事が曖昧だと、聖霊の助けがなくても、ある程度は自分の力や信仰心で悟ることが出来るけれど、それだけでは不十分で、もっと信仰が強い人や信仰の篤い人が聖霊の力をいただいて、御心が分かるとか霊的な洞察力を得る、次元の高い信仰の境地に近づく――私はかつてそんな風に思い込んでいました。ここでハッキリと言われているのは、イエスが話していることは、聖霊の助けなしには、私たちには耐えられず、イエスが聖霊に私たちに話したいことを聞かせて届けさせてくださるから、私たちは、聖霊の助けによって、その真理のすべてへと導かれる、ということです。高い次元の信仰とかではなく、初めからすべてが聖霊なる神のわざなのです。

「すべての真理」とはどういうことでしょう。また「これから起こること」もどういう意味でしょう。中には、聖霊が私たちにすべての事実を教えてくれる――だから、クリスチャンは他の人よりも物事が分かっているし、世間の出来事や、身の回りのことについても一番正しい判断が出来る、と理解する人もいます。また、「これから起こること」も世界情勢を読み取り、聖書の預言を現代に当てはめて、終末のしるしを見誤らないのだ、と理解する人もいます。しかし、イエスはそのような予告やいつ終末が来るかは、誰も知らないし、自分も知らないと言いました。私たちが自分の好奇心や知りたがりの興味を満たすために、聖霊なる神の力を期待しようとするなら、「すべての真理」や「これから起こること」をそう理解するでしょう。しかしイエスが弟子たちに話そうとすること、イエスにとっての弟子たちに伝えたい「すべての真理」とはもっと大きく膨大なものです。14章6節でイエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言いました。イエスこそ真理。神の子として、神がどんな方かを現していて、その神によって作られた私たちがどんな存在なのか、私たちが生きるとはどういうことかをも現しているのがイエスです。また、このイエスに「これから起こること」、この時に迫っていたのは、まもなく捕らえられて十字架に死に、三日目に復活して、天に上げられることです。それは、イエスご自身が自分のいのちを捨てて、私たちにいのちを下さること、私たちのためにいのちを捧げて、私たちが新しく生かされ、イエスの民となること。羊飼いに導かれる羊の群れや、ぶどうの木に繋がって実を結んでいく枝のようにされるための、最後の使命を「これから」果たそうとしていました。そのことが伝えられるのが、聖霊によるのです。

この「導く」という言葉も、真理を知るように導く、というよりもイエスが聖霊によって伝えてくれる真理のうちを導く、イエスという道・真理・いのちに生きるよう導くということです。この言葉は「道」という言葉の動詞で[iii]、日本語の「導く」が「道」から来ているのと似ています。「導く」の漢字の成り立ちは「道を引く」とそのままですが、引くにあたる「寸」は「右手の手首に親指を当てて脈を量る」の象形だそうです[iv]。イエスは聖霊を遣わして、私たちの手を引いて、真理の道を歩ませてくださる。道に招き入れておしまい、後は自分で歩きなさいよ、ではなく、手首を持ち、私たちの脈や呼吸を気遣いながら、私たちの力だけでは耐えられないこと、どんな聖霊の助けが必要かどうか、優しく気遣いながら、真理のすべてを歩ませてくださる。イエスが私たちのために十字架にかかり、復活し、天の父の元に行かれた恵みを、私たちに伝えてくださるのです。ここまでしてくださるのが、聖霊という神です。ここまで配慮されなければ、私たちにはひと時も耐えられないことを十分に分かって、そのことでも漏れがないよう、聖霊を遣わされた、というのがイエスであり、キリスト教の福音です。

しかもそれは、私たちが真理を頭で分からせてくれる、というのとは違います。私たちを真理の道に導き、そこを歩ませてくれるのです。ヘンリ・ナウエンは「聖霊による新しい生活」を「すべての真理を生きる生活」と言い「それは「婚約」という言葉と近い関係にあり、神とのまったき親密さを意味し、聖なる生活のすべてが私たちにもたらされるという意味です」[v]と言い表します。これこそ、イエスが聖霊の派遣によって成し遂げようとする栄光です[vi]

14御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

とんでもないことをイエスは言っています。父が持っているものはすべてイエスのもので、それを聖霊が受けて、あなたがたに伝えるというのです[vii]。とんでもないことです。でもそれが、御霊が現すイエスの栄光なのです。イエスの栄光は、人間が考え憧れるような輝きとか神通力とかではありません。イエスの栄光は、人間のためにいのちを捨てるという栄光、惜しみなさという愛の栄光、そしてその愛によって人間をも変える栄光です。私たちが心に恐れや憎しみ、怒りなどの闇を抱えたまま、その闇を隠すような力とか輝きを求め、あれこれを知りたい、これから起こることも知れたら幸せになれるんじゃないか、と考えている…そういう私たちの闇、神をさえ用いて自分を守ろうとする私たちの心根をいのちによって変えるために、イエスはご自身を惜しみなくささげてくださいました。そして、そのご自身のいのちを、聖霊によって私たちに伝えて、届けて、その真理のうちを歩むよう導き、生涯その道を歩むよう導いてくださる。それによって、聖霊はイエスの栄光を現してくださるのです[viii]

このヨハネの福音書の最後21章でも「栄光」が出てきます。それは一番弟子のペテロについての言葉です。それも、ペテロが華々しい奇蹟や立派さで神の栄光を現す、という言葉ではありません。その逆に、年を取り、人に連れてゆかれ、望まないところに行く、という死に方で神の栄光を現すことの予告でした。そんな最後は、若い時のペテロには「耐えられない」迎え方だったでしょう。でもイエスは確かに、ペテロの生涯を導き、その生涯を通して、イエスの栄光を現してくださったのです。私たちもイエスの御霊は導いてくれます。信仰を与えるだけでなく、イエスの真理の中を生きるよう導き、そうして聖霊はイエスの栄光を現すのです。

聖霊が働かなければ、私たちがイエスを受け入れること、この後イエスに起こったことを信じることは出来ません。しかし、御言葉を信じ、イエスを受け入れたら、それで聖霊の働きはおしまい、ではなく、その後の生涯、イエスは聖霊を通して私たちを導いてくれるのです。それもイエスを信じる道から離れないように、と守るだけでなく、私たちがイエスの真理を生き、イエスの栄光を現す生涯を全うするように、手を取って導き続けてくれるのです[ix]。私たちが今、自分の力や理解で考えるならば、到底耐えられないこと――厳しいとか難しいとかだけでなく、あまりに素晴らしいような、あまりに美しすぎるような、イエスの真理の中に、聖霊が導いてくださる。そういう約束の中で、自分の人生を丸ごと受け止めるのが、聖霊の約束です。

「父、子、聖霊の三位一体の主よ。ペンテコステまで半ば、既に聖霊が遣わされ、私たちが導かれていることを思い、御名を崇めます。人には耐えられないことを、あなたはなさるのです。あなたの真理に導いてください。特別輝かしい出来事よりも、礼拝から遣わされる毎日の歩み、日常のこと、家庭、仕事、介護、悩みも葛藤も、私たちの営みのすべてをあなたのわざとしてください。自分の力では耐えられないほどのことを、聖霊の助けにより、担わせてください」

[i] 告別説教(ヨハネの福音書14~16章)における「助け主」なす聖霊派遣の予告の内容:

1 14:16〜17

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

2 14:26

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

3 15:26〜27

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。

4 16:7〜15

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。14御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

 

  ①   14章16~17節 ②   14章26節 ③   15章26~27節 ④   16章7~15節
聖霊の呼称 助け主

真理の御霊

助け主

聖霊

助け主

真理の御霊

助け主

真理の御霊

御子との関係 派遣の願い手 御子の名によって遣わされる 派遣の主体、

初めから一緒にいた

派遣の主体

御霊は御子の栄光を現す

派遣主 御子 御子
その行動 ともに/うちにいる すべてのことを教え、御子が教えたことを思い起こさせる 御子について証する 世の誤りを明らかにする

弟子をすべての真理に導く

(=御子のものを受けて、弟子たちに伝える)

これから起こることを弟子たちに伝える

特質 世は知らない     自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語る

 

[ii] 3月末にイースターを迎え、七週間後の来月19日にペンテコステ(聖霊降臨日)を迎える、その真ん中の日曜日です。クリスマスやイースターと比べて、どうもピンと来ないと思われやすいペンテコステ、聖霊なる神です。

[iii] 導く。ギホデーゲオー。ギホドス(道)から。

[iv] https://okjiten.jp/kanji817.html#a

[v] 「イエスは前もってこの言葉により、聖霊降臨で明確になる聖霊による新しい生活を示しました。それは、「すべての真理」を生きる生活です。それは「婚約」という言葉と近い関係にあり、神とのまったき親密さを意味し、聖なる生活のすべてが私たちにもたらされるという意味です。」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』、157ページ

[vi] 「人生を根底から変えるのは聖霊の働きです。弟子たちは、その意図するものをほとんど把握できませんでした。イエスが肉体をもって彼らと共にいたときでさえも、聖霊のうちにあるイエスの臨在の満ちあふれたさまに気づきませんでした。ですから、次のように言われたのです。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者[聖霊]はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。・・・・・・その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」(ヨハネ16・7、13~15)。イエスは聖霊を送ってくださり、そのことを通して、神と共にある生活のまったき真理へと導いてくださいます。真理とは、思想、概念、教理のことではなく、真実な関係のことです。真理に導かれるとは、イエスが持っている御父との関係と同じものに導かれる、ということです。つまり、聖なる婚約関係に入ることです。

ですから、聖霊の降臨はイエスの使命を完成することです。そこにおいて、イエスの宣教の全貌が目に見えるものとなります。聖霊が弟子たちに降り、彼らの間に住まわれたとき、その生活はキリストに似た生活へ、御父と御子の間に存在する同じ愛で造られる生活へと変えられました。スピリチュアルな生活とは、聖なる生活にあずかるために引き上げられる生活のことです。」同、167ページ

[vii] 伝える アナンゲッロー 5回:4章25節、5章15節、16章13〜15節。

[viii] ヨハネの福音書における「栄光」の用例は、こちら

[ix] それは決して特別に神秘的・非凡な体験をして生きることではありません。毎日の平凡な生活、礼拝と仕事の繰り返し(ルーティン)、人の限界や自分の無力さ、その中でイエスの生涯と死と復活の贖いを思い起こしながら、その光の中で生きること、祈ること、希望をもって関わること。愛すること、尊ぶこと、違いを受け入れつつともに生きること…。そうした人生が、人に対してでなく、主の眼差しから見て、主の栄光を現すものとなるのです。