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2024/4/21ヨハネの福音書16章5〜21節「去って行かなければ」

イエスが明日十字架にかかるという前夜、「最後の晩餐」の席での「遺言説教」を読んで、最後の16章に入っています。いよいよ「訣別説教」と呼ぶのが相応しい口調となります。

…わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなたがたとともにいたからです。しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません。むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

最初はピンと来なかった弟子たちが、段々とイエスは本気でどこかに行くらしいと分かって、悲しみでいっぱいになっている。その事をイエスは汲み取っています。4月も後半、まもなく五月。「五月病」の時期、3月末の別れや新生活の高揚感の疲れが出て来る方もいるでしょう。もっと前に別れを迎えた方も、一緒に迎えた春を思い出す季節でもあります。別れは、自分で思う以上にダメージが深いものです。弟子たちがイエスとの別れを徐々に感じて「悲しみでいっぱいになって」いる。そして、これから本当にイエスが去る[i]。その時の弟子たちの心をイエスは十分に思いやっています。そして、その悲しみにも勝る言葉を予め語ってくださいます。

 7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

助け主の約束は、この訣別説教で最初は14章16節、二回目が26節、三回目15章26節、そしてここが四回目、16章16節まで続く最も長く詳しい約束です。イエスは助け主なる聖霊を約束します。神であり、人ともなったイエスは、一度に一つ所にしかおれません。だから父の元に行き、助け主なる聖霊を遣わす。聖霊は神なる方ですから、弟子たちがどこにいっても、何人、何百、何万、何億人に増えても、その一人一人とともにいて、その心に働き、イエスやその言葉を思い出させることが出来ますし、そうしてくださいます。そればかりではなく、

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

この世界、神によって作られたのにその神に背いて、遣わされた御子をも拒んだ世界、この世界に住む人々は、ここまで、弟子たちを理解せず、かえって憎むとも言われてきました。ですからこの8節は欄外にあるような「世に誤りを認めさせる」という意味ではありません。聖霊が来たら、無理解や迫害がなくなるわけではない。ただ、弟子たちも私たちも誰にしても、世の誤りを気づいて、イエスを信じるのは、神の御霊の助けがあって出来たことなのです。

ここで言われる「罪[ii]…義[iii]…さばき[iv]」は、どれも神の前に生きる上で大事な概念です。聖書の民は、罪を犯さないよう、正義を生きるよう、神の裁きを恐れるよう、言い換えれば、正しく、真面目に生きてきました。しかしイエスは、罪、義、さばきについて、世の間違いがあると言い、それを聖霊が明らかにする、と言うのです。では、どう誤っているのでしょう。

 9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

罪とは、嘘、暴力、悪口などの行動を考えて、それを避けることだと思われています。しかしその根っこにあるのは、神との関係が壊れて、神を崇めない、あるいは神を利用しようという原罪です。その関係を癒し、神に愛され、神を信じる関係に回復するため、イエスは遣わされました。そのイエスを受け入れず、安息日に人を癒したりするイエスこそ許しがたいと、殺そうとしています[v]。そこに世の誤りが現れています。罪を自分たちの守る道徳で考えて、神との関係で考えていない。個々の罪を避けることばかり考えて、肝心な神ご自身を信じる関係の回復が壊れている罪を忘れ、その関係の回復のために来たイエスを信じない。それが罪です。

10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

この義も、人の側の義でなく、イエスについてです。ユダヤ人はイエスを否定し、殺すことこそが正しさだと思っていました。しかしイエスは十字架の死で抹殺されるのではなく、復活して父の元に行くのです。よみがえって天に行くことで、イエスが本当に義なる神の御子だと知ります。そして、私たちの求めるべき義とは、私たち自身の正しい生き方とか正義感とかではなく、イエスという義なるお方イエスを信じるという関係なのです。使徒の働き5章30~32節にも

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。31神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。32私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。

聖霊は天に上げられたイエスを証しして、イエスに繋がらない義についての誤解を暴くのです。

11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

イエスは「さばかれた」と過去形で言います。16章33節最後の言葉も

勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

です。既にイエスは世に勝ち、この世を支配する者を裁きました。へブル書2章14~15節では

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と言われます。確かに、死や死の恐怖によって人を押さえつけている力があります。だからこそイエスは、ご自身の死によって、その力を滅ぼして、裁いてくださいました。この世界の中で、死の恐怖に縛り付けられたまま、人間は精一杯正しいさばきを願ったり、争ったり、良かれと思って間違った裁きをしてしまっています。でもその死の力を持つ悪魔をイエスは既に裁いてしまいました。最終的なさばき、悪や死や恐怖の敗北が、イエスによって決定的になされた。これを知らないまま、人をさばいたり、都合の良い正義や裁判を振り翳すことが、大きな誤りです。聖霊はそれを明らかにするのです。[vi]

そうです、助け主なる聖霊が、こうした誤りを明らかにするのです。聖書を並べて引用して、一応の説明は出来ますが、本当にこれを納得して、合点がいくのは、説明ではなく、聖霊の内なる働きです。理屈で説明されて分かるなら、聖霊の助けは要らないのです。助け主だけがこれを人に明らかに出来ます。私たちが「罪とはイエスを信じないことだ。あなたがイエスを信じないことこそ罪だ」と言うことは、相手の心にイエスへの信仰を引き起こすよりも、イエスへの恐怖や信じたフリを引き起こすか、宗教への不信感を増すだけでしょう[vii]

「いや、そんなことでは手緩い、まどろっこしい」と言うなら、それこそイエスを信じていない、助け主が人の心に世の誤りを明らかにすることを信頼しない、主だけが出来ることを主がしてくださると信じない、私たちの罪です。まず私たちが、まだ引きずっている世の誤りを明らかにしていただきたいのです。

世を支配する者が裁かれたと言われても、現実には戦争や暴力、犯罪や差別があります。その叫びから目を背けて、終末のさばきに逃避するのが信仰でしょうか。いいえ、こう仰ったイエスは、自分を信じない人のために命を捨てた方です。悪魔を滅ぼすため、どれほどの痛み、悲しみを引き受けたでしょう。今なお罪やさばきについて誤った世で、酷く苦しい思いを私たちもする中で、助け主がイエスを信じさせてくださいます。別れの辛さを誰よりも知りつつ、その間にも助け主を送り、益となるよう配慮する方です。悪の支配は敗北が決まっていると信じさせてくれます。聖霊が明らかにしてくださるのです。私たちが人に教えてやろう、ではなく、まず私たちが明らかにしていただき、私たちを変えていただきましょう。

「主よ、あなたを信じる恵みに与り、世の誤りを明らかにされる幸いを感謝します。助け主なる聖霊の働きがなければ、罪も義もさばきも誤解したままでした。計り知れない主の謙りと、憐れみ、赦しと和解を与える贖いを信じる幸い。これもまた、聖霊が明らかにしてくださった御業に他なりません。どうぞ、この慰めと希望をいつも教えてください。あなたの民が、信じない罪から、あなたの支配の中に生かされる幸いへと立ち帰るため、私たちをお養いください」

[i] 十字架にかかった後、復活はなさるけれど、その後、イエスを遣わした父の御許に帰ってしまい、もう会えなくなるのです。

[ii] https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/fd1315701f3cd0ccc406dd46b199ab8c

[iii] 義 ディカイオシュネーは、ヨハネの福音書では、この8節と10節の二箇所だけです。

[iv] https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/dfa5063668ecb530723ae8250dfe8bc4

[v] ヨハネの福音書に出て来た人々は、聖書の律法を字義通り守ることを重んじました。土曜日を丸一日聖別して、労働を一切しない、姦淫はしない、汚れた異邦人とは付き合わない…そういう罪を犯すまいとしていました。それが、イエスが来て、安息日に病人を癒して起き上がらせたら、「律法違反だ」と激高する態度になりました。姦淫の現場で捕まった女性を石打ちにするかをイエスに問う冷たさになり、罪のない者が最初に石を投げよと言われたら返す言葉を失いました。異邦人を受け入れ、すべての人を招くイエスの行動を理解できませんでした。

[vi] 罪、義、さばき。いずれにもイエスはご自身との関係に照らして言われます。そして、それを明らかにするのは助け主なる聖霊です。私たちも聖霊のおかげで、イエスを信じる関係を戴き、今見えないイエスは御父の右に座していることを告白し、悪魔を滅ぼし、やがての裁きをも恐れなくて良い、と信じています。いや、まだそう信じ切れていないとしても、今日の説教などを通して、本当にそうなのだと信じるよう育てていただいています。

[vii] 不信感や疑い、脅しや取引の世界にどっぷり浸かっている人に、イエスが出会い、信じる関係を下さるのは、見えない聖霊のお働きによります。

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