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2023/5/14 ヨハネの福音書7章37~44節「心の奥底から生ける川の水が」

ユダヤの秋の祭り、「仮庵の祭り」での記事が続いています[1]。祭りの七日間、毎朝行われていたのが「水汲みの儀式」でした。神殿の麓の「シロアムの池」から金の器で水を汲み上げて、祭壇の周りに水を注ぐのです[2]。その600mの行列は、松明を掲げ、楽器を手にして歌い、踊りながらの行列でした。それを見たことがない者は、喜びというものを知らない、とさえ言われたほどの祭りです[3]。その時、歌われたのが、イザヤ書12章3節の言葉だそうです。

あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。

この「水(マイム)」を祝う言葉をそのまま歌にしたのが、フォークダンスの「マイム、マイム」の曲です[4]。水を歌い、喜び、楽しげに踊る様子が思い浮かびます。その歓喜の祭りの最終日、

37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。

仮庵の祭りが最終日の水汲みと重ねて、ご自分を信じるよう招いたのです。

 聖書が言っている通りに

とありますが、「心の奥底から生ける水の川が流れ出る」という直接の言葉があるわけではありません。近い言葉が、欄外のイザヤ書やエゼキエル書です[5]

イザヤ書四四3わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。…

五五1ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。

あるいは仮庵の祭りで思い起こす、荒野で仮小屋暮らしをした先祖たちは、何度も主が水を湧き上がらせてくださる体験をしました。モーセが岩を打つと水が出た出来事も聖書は言っています[6]。仮庵の祭りは「雨乞いの祭り」でもあります。乾燥気候の地で、雨や水、川は貴重な死活問題です。聖書には神が雨を降らせてくださった記事や、水や渇きに譬えて、神のいのちの恵みを語る言葉が溢れています。最初のエデンの園から[7]、最後の黙示録の新天新地まで[8]、聖書は豊かな川の流れを語る書でもあります。そして、イエスはその聖書が言っている流れる川は、昔やどこかのことではなく、私たちの心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるという約束なのだ。それはイエスを信じる者への約束なのだ、と言われているのでしょう。

イエスが立ち上がって大きな声で言われた、とはイエスの伝道説教のようです。そして伝道の場でよく使われる聖句でもあります。しかし37節の

「飲みなさい」

「飲み続けなさい」[9]

38節の

「信じる者」

「信じ続ける者」

という言い方です。一度イエスを受け入れて、一旦信じたら、いつまでも渇かない、という約束ではありません[10]。これは未信者に「信じなさい」と語る言葉である以上に、信者が「信じ続けることだ」と自分に語られている言葉なのです。

 生ける水の川が流れ出る」

も、以前お話ししたように[11]「生ける水」とは流れている水のことです。

 心の奥底

は欄外に「直訳「腹から」」とあり、元々は体の中の空間・空洞を指した言葉です。人の奥深くの穴、或いは心の奥の空っぽな穴から、水が流れ出て、周りにいのちを届ける川となる。勿論、人は潤すけれど自分が渇いたまま、ではないでしょう。でもイエスご自身、十字架で

「わたしは渇く」

と言いました[12]。いつも満たされて喜ぶだけでなく、涙を流されました。私たちも、イエスを通して、渇きを渇きとして知ります。いのちの水に与るからこそ、まずそれは涙を流せるようになることでもあるでしょう。潤ったふりとかではなく、イエスの元に来て、深い渇きや心からの涙を私たちが取り戻す。それが、人をも潤す生ける水の川となる。聖書がそう言っているのだとイエスは言うのです。この「生ける水の川」とは、

39イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

イエスを信じる者は聖霊を受ける。それは信者たちを通して、周囲に命の水の川が流れ出ることです。私の渇きが満たされるのがゴールでなく、私が御霊のいのちの業の器となる。「パワースポット」ならぬ、いのちの水のコップとなる。それが聖書の言っていることなのです。

40このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。41別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。42キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」

40節の「あの預言者」とは、申命記18章15、18節に出てくる、やがて現れる預言者のことです[13]。41節のキリスト(メシア)の来臨という聖書からの約束と、まだ混乱していて別に考えられていました。42節のキリストが「ダビデの子孫」で「ダビデの町ベツレヘム」で、というのも聖書からの事です[14]。そして、彼らは知りませんでしたが、イエスはダビデの子孫であり[15]、ベツレヘムで生まれた方です[16]。読者が既にイエスがダビデの子でベツレヘムで生まれていたと知っていたのなら、彼らの言葉は、皮肉にもイエスがキリストであることを裏付けています。しかし問題はこの人々がその事実を知らなかったことではありません。出身とか経歴とか表面的なことばかり考えていることです[17]。イエスが言った

「聖書が言っている」

と、群衆が言う

「聖書は言っている」

が全然違うのです。イエスは、聖書の言葉を、私たちを生ける水の川を流れだす者、御霊を受けて神のいのちを運ぶ器とすることだと言います。しかし群衆は、聖書の言葉を継(つ)ぎ接(は)ぎして、イエスを選定し、それも間違った結論を出してしまい、

43こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。44彼らの中にはイエスを捕えたいと思う人たちもいたが、れだもイエスに手をかける者はいなかった。

と空振りで終わるだけ。結局、聖書の言葉は彼らに生きた何物ももたらしていません。

聖書は何を言っているのでしょうか。キリストがどこで生まれるか、またやがて再びどこに現れるか、その時には何が起こるか、私たちが興味本位や自分の安全のために知りたがるような情報や手掛かりの書なのでしょうか。それとも、そんな疑問を頭で考えながら、心はカサカサに渇いている私たちに、いのちの水をもたらす書なのでしょうか。イエスはそう言います。神から遠く考える人の生き方や願いを深く照らし、御霊によって私たちの心の奥底、腹の底に届き、そして私たちを主のため、いのちのための器として深く作り変える言葉――それが聖書です。聖書は情報Informationではなく、Reformation造り変え、変え続ける言葉なのです。いやいや私なんてカラカラの空っぽで…そういう私たちの心の穴がいのちの水の川となって人を潤すようにする――そう約束し、本当にそうしてくださる神の言葉なのです。

今もイスラエル最大のお祭り「仮庵の祭り」を教会は祝いません。それは、39節で言われた、イエスが栄光を受けて御霊を下したことが既に起こったからです。「仮庵の祭り」を終わらせるほどのことを、イエスが果たしてくださったからです。人としての渇きを味わったイエスが、私たちにいのちの水を注いでくださいました。その象徴の水の洗礼から信仰生活は始まり、礼拝に来るたびに、弟子たちの足を水で洗い、そしてあなたがたも同じように、互いに足を洗いなさい、と言われるイエスを覚えるのです。イエスは私たちを潤すにもまして、私たちのうちから、互いを、他者を潤すわざを始めてくださり、今もそれを続けていてくださいます。私たちの力や義務ではありません。イエスが十字架にかかってまで、始めてくださった、新しい御業なのです。その御業を信じてよいのです。その御業に、私たちをお捧げしていくのです。

「主よ。渇いている私たちを招いてくださりありがとうございます。何に渇いているかも分からないでいる私たちを、あなたは豊かにご存じで、人の思いを遥かに上回ることを、今日も聞かせてくださいました。どうぞ、お約束の通り、私たちを、生ける水の川を流れ出す器としてください。自分の満たしばかりに囚われ、自分の渇きに打ちひしがれるとしても、あなたのお約束の通り、私たちをいのちの器としてください。私たちをあなたの器としてお用いください」

[1] 「仮庵の祭り「スッコート」」http://messianic.jp/05-feasts/sukkot.htm

[2] シロアムの池全体発掘・公開へ:神殿への道復活への期待 2023.1.2 オリーブ山通信

[3] 「ルラブ(文字通り訳せばしゅろの枝だが、ここでは天人花を混ぜられ、シトロンと結び合わされている)と柳の枝(の祭儀)は六日間、時には七日間(続く)。ハレル(詩編一一三-一一八編)および歓喜の祭儀は八日間〔続く〕。スッカー(あずまや)および水注ぎの祭儀は七日間〔続く〕。笛の演奏の祭儀は、時には五日間、時には六日間〔続く〕(ミシュナー「スッコート」四・一)。……これは、水汲みの祭儀――このヘブライ語の意味は不明――(の場所、あるいはその行為)における笛の演奏であり、それは安息日も祭りの日を損なうことはない。彼らはこう行った。ベト・ハシェウバー(上述のヘブライ語)の喜びを見たことがない者は、彼の人生において喜びを見たことがない者である(ミシュナ「スッコート」五・一)。」スローヤン、一七三ページ。「祭りの間の七日間、毎日朝になると祭司は神殿の丘を下りシロアムの池に行く。――シロアムの池というのはヨハネ福音書では第九章にこの池を舞台にした物語を記しておりまして、七節にシロアムというのは「遣わされた者」という意味だと解説をしております。水が湧き出ていたところのようです。――大群衆に囲まれてのことである。そこに湧き出る水、聖なる水を黄金の桶で汲む。そこで神殿の音楽が奏される。――この神殿の音楽というのはどういうものであるか、これもよく分かりませんけれども、他の文献によりますと、笛が主体になった音楽のようです。――それだけではなくて合唱が預言者の言葉を歌った。――これが先ほどのイザヤ書の言葉でありまして、「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」口語訳で「救いの井戸」となっていた言葉であります。――祭司は「水の門」と呼ばれている門を通って神殿に戻り、犠牲を献げる祭壇にこの水を注ぐ。これらすべてはイスラエルの民が荒野の旅をしている間に岩からほとばしり出る水をもって養われたことを記念することであり、――更には、イザヤ書第四四章三節の言葉ですが――「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える」というみ言葉が成就する日を指し示すものである。シロアムの池で、神殿で、この荘厳な儀式が続く間、群衆の間には歓呼の声が絶えなかった。ラビたち、学者たちはこう言った。この水を汲む喜びを見たことのない者は喜びが何であるかを遂に知らないであろう。そのようにして目のあたり〈喜び〉というものを見ることのない者は、われわれにとって喜びとは、本当は何であるかを遂に知ることがないままであろう。」加藤常昭、182-183ページ

[4] Wikipedia マイムマイム

[5] 他にも、イザヤ書58章11節(主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。)。エゼキエル47章1節以下(彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。2次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。3その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。)。ゼカリヤ14章8節(その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。)、ヨエル3章18節(その日には、山に甘いぶどう酒が滴り、丘には乳が流れ、ユダの谷川のすべてに水が流れ、泉が主の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す。)

箴言18章4節:人の口のことばは深い水。知恵の泉は湧いて流れる川。

[6] 出エジプト記17章1~7節、民数記20章2~13節。

[7] 創世記2章10~14節:一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。11第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。12第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。13第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。14第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

[8] ヨハネの黙示録22章1節:御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、2都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

[9] ピノー 11回、4章7、9~10、12~14、6章53~54、56、7章37節、18章11節。

[10] またそれは既に信じた誰もが、味わい知っている実感でもあるはずです。最初信じて洗礼を受けて終わりではなく、そこから始まって、日々信じ続けること、ますますイエスを信頼するようになることです。

[11] 2022/9/18 ヨハネの福音書4章7~15節「永遠のいのちへの水が湧き出ます」

[12] ヨハネの福音書19章28節:それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

[13] 申命記18章15節:あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。…18節:わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。

[14] Ⅰサムエル7章11~14節(それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。)、詩篇89篇3~4節(「わたしは わたしの選んだ者と契約を結び わたしのしもべダビデに誓う。4わたしは あなたの裔をとこしえまでも堅く立て あなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」)、ミカ書5章2節(「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」)

[15] ローマ人への手紙1章2節(御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、)、マタイの福音書1章1節(アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。)、他。

[16] マタイの福音書2章1節(イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。)、5~6節(彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」)、ルカの福音書2章4節(ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。)、11節(今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。)

[17] マタイとルカの独立した幼児物語(現存する1世紀の福音書では幼児物語がある唯一の2書)は、ヨハネの時代以前に多くのキリスト者がこの伝統を受け入れたことを証明しており、少なくとも2世紀初めのハドリアヌスの時代にはベスレヘムの非クリスチャン住民でさえ、イエスが生まれた場所はそこの特定の洞穴であるという長い伝統を認めた。 この伝統は、ヨハネの読者にとって当然のこととして、十分に広く流布していたと思われる。しかし、ヨハネがイエスのベツレヘムでの誕生に明確に言及しないのは、彼にとって重要な神学的問題は、イエスがどこで生まれたかではなく、最終的にどこから生まれたか、すなわち、上から、天から、神からだったからである。Keener, DeepLによる翻訳。