ようこそ。池戸キリスト教会へ。

ユダヤの秋の祭り、「仮庵の祭り」での出来事です[1]。前回31節で群衆が「キリストもこの人ほど多くのしるしをしないだろう」と頓珍漢な絶賛をしても、イエスは気にもかけなかったでしょう[2]。しかし、それを聞いた、イエスを妬む人々の方が堪らなくなります。

32パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。

この「下役」は、ゲツセマネでの逮捕の際にも出てくる役職です[3]。群衆の中からイエスを連れ出せる程、屈強な偉丈夫たちだったのでしょう。現代であれば、逮捕令状を持った捜査員たちが送り込まれた、という図でしょうか。しかしイエスは臆するどころかこう言います。

33そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。34あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

あなたがたはイエスを捜しても見つけられないし、そこに来ることは出来ないと言われます。逮捕されるとか何とかよりももっと先のことをイエスは見ていて、彼らに突きつけます。実際イエスはこの時、マッチョな下役の一団が遣わされても捕らえられません。彼らも騒(ざわ)めきます。

35すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。36『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

と疑問が湧き上がった中に取り残されてしまうのです。イエスが捕らえられる代わりに、イエスを憎む人々が困惑に捕らえられてしまって、次の場面に進んでいくのです。

この直後、37-38節ではイエスは大声で言います。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

すべての人、特に渇いている人を招き、生ける水を豊かに与える! 決して知らない所に行ってしまい、人を取り残される方ではありません。それでいてイエスは、この先も

「わたしが行くところにあなたがたは来ることが出来ない」

と何度も繰り返します[4]。8章14節でも

「あなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。」

21節でも

「…わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

と言います。後に弟子たちにも最後の晩餐の場で言います。

十三33わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。
しかし後にはついて来ます。…

十四2わたしの父の家には住む所がたくさんあります。…あなたがたのために場所を用意しに行く…

十六16しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

ですから、ネタバレでもありますけれど、今日の言葉はこれだけで読む言葉ではなく、何度も投げかけられながら、最後には力強い慰めになっていく言葉です[5]。イエスが見知らぬ所に行くのは、弟子をもそこに連れて行くためです。その最後の晩餐の時まで、イエスは弟子たちを教え、驚かされます。どこに行こうとしているのか、何を目指しているのか、そこに向けて弟子たちに教えられるのです。その実例の一つが、ここの

「まさか、ギリシア人のところに」

の発言です[6]。自分たち、神に選ばれたユダヤ人と違う、神を知らないくせに思い上がったギリシア人、その中に行くことだけはあり得ない。だから

「まさかギリシア人」

とは、あり得ない皮肉でした。でも、そのまさかこそ、イエスが見ていたところだったのですね。

ヨハネはこの福音書をエペソで書いたとされます。国際都市のエペソにはギリシア人もアジア人も、多くの国々の人々がいました。エペソ教会は異邦人の群れであったことがエペソ人への手紙でうかがえます[7]。そこに、キリストがその民族の敵意の壁を乗り越えて、一つの民としてくださった御業がまざまざとありました。ヨハネの福音書12章でも、十字架直前のイエスのところに、まさかのギリシア人がやって来る件があります[8]。エペソ教会の人々は、今日の7章35、36節を聞いて「そのまさかだったのだよ」と苦笑したかもしれません[9]

またこの時、派遣された下役は、この後45節に再登場して、

「なぜあの人を連れて来なかったのか」

と問われて、

46…これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」

と答えて

47…おまえたちまで惑わされているのか」

と怒られます。パリサイ人たちは彼らの意見を聞こうとしない。しかし、下役たちのほうがイエスの言葉に偏見なく聞くことが出来る心を持っていた。ギリシア人の方が、イエスの言葉に耳を傾けて、豊かないのちをいただいて喜びに与るようになる。今まで言われたように、イエスは人間が自分のちっぽけな栄誉を誇り、うわべで裁くことを指摘されます。身分が低いとか、ギリシア人だサマリア人だ、病人だ、きっと何か問題があったに違いない、自分たちと違うなら誰と無く虐め、笑って、深く知ろうとしない。今でも変わらず虐めがされる人間の本当に上っ面な貧しさです。そうした余所者(よそもの)のレッテル貼りを、イエスは非難したり止めさせるよりも、ご自身がその壁を踏み越えて、外国人や病人や女性に近づき、手を触れ、足を洗い、赦しを宣言し、ともに食事をされ、せっせと関係づくりをなさり、いつも「この囲いの外にいる羊」[10]を見ていました。そうしたやり方を拒む人は

「わたしの行くところに、あなたがたは来ることは出来ない」

これは、私たちの小さな考え・予想よりも大きく、私たちの好き嫌いや偏見・差別に真っ向から挑戦する言葉です。

この時の「仮庵の祭り」は、枝や木の葉で作った仮小屋に住む祭りです。その時、仮庵を造れない人、男女の奴隷、寄留者(在留異国人)、社会的に弱い人も招いて、ともに喜び楽しみなさい、と申命記16章は規定します[11]。かつて奴隷で、弱く、惨めだった自分たちが救い出されたように、神の前に格差や壁を取り払って、シンプルな仮庵でともに喜びを分かち合う祭りでした。しかし、イエスはそうしなかったのです。

ヨハネ1章14節に

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」

とある「住まわれた」は「幕屋を張る」という意味で、「仮庵の祭り」の元になった言葉です[12]。イエスご自身が、神の栄光、力、誇り、居心地よさを脱ぎ捨てて、この世界で粗末な仮小屋暮らしをひと時してくださいました。それは私たちを招くためでした。ユダヤ人もギリシア人も日本人も○○人もともに招くため、そして私たちが自分が招かれ喜ばれたように、お互いを招き合い、ともに主を喜び、仕え合うためでした。そのためにイエスは人としての生涯を送りました。それはまさしく「仮庵暮らし」と言われるような、惜しみなく私たちを招き、ご自身の栄光や誇りなど気にしない生き方でした[13]。私が行きたがらない所、人が行くなど思いも寄らない所にイエスは行ってくださる、いや、来てくださった。そして、私たちもその思いも寄らない旅路に与らせてくださるのです。

私たちが期待するより、抵抗したいほどの人も招かれていることを教えられ続ける旅です。自分の中から出てくる愛などないこと、愛は神から出てくること[14]。その惜しみない御子の愛に愛されて、招かれている恵みなのだと、味わい知って行くのです。私たちは自分の生活や持ち物を、誇ったりしがみつくよりも、枝で出来た仮小屋、大事だけれどやがては壊して次の場所に移る旅の宿、そして、そこに人を招く天幕のように見るようになります[15]。偏見を壊されて、傲慢を砕かれて、導かれる旅です。その深い愛によって、この世の調子とは違う生き方へと、心(考え方)を教え、私たちを新たにしてくださいます[16]

「人の間に住まわれた主よ。あなたの地上の旅路は、私たちの生涯も旅路であること、人の誇りや評価など旅そのものの価値に比べられないことを教えます。私の狭い眼差しでは見えない場を、あなたが私たちのために備えておられる。それこそ私たちの救いです。どうか、石の心を砕き、柔らかな心を下さい。あなたを封じたり、飼いならしたりなど出来ない、いえ、その企みさえ逆手にとって御業を現されるあなたに、驚きと賛美と私たち自身をお捧げします」

[1] 「仮庵の祭り「スッコート」」http://messianic.jp/05-feasts/sukkot.htm

[2] 決してイエスはこの祭りで人気を博そうとか大きなことをしようというつもりはありません。イエスの心はいつも神に根差していて、その神が見ているように、うわべの成功とか安泰ではなく、一人一人の心、罪に病んだ心が照らされていのちを吹き返すことだったのです。

[3] 下役:18章36節(イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」)では、イエスの弟子(しもべ)にこの言葉が使われる。

[4] ヨハネの福音書8章14節(イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。)、21-22節(イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」22そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」)、13章33節(子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。)

[5] イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちに対しても、言います。「十三33子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」でもその直後にイエスは弟子たちに更にその先を、こう言うのです。「36シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」、十四2わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。…わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」5トマスはイエスに行った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。…十六7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。…16しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」17そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」18こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。19イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。20まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。22あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。23その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。24今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。…28『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。)

[6] イエスが「あなたがたには見つからないところに行く」と言った時、この人々が真っ先に思いついたのがギリシア人でした。

[7] エペソ人への手紙2章11~19節:ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

[8] 12章20-21節(さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。21この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。…23すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。)

[9] でもそれは苦笑い、だったでしょう。この福音書を読めば、当時、エペソだけでなく他の多くの地域でも、過激なユダヤ人がキリスト教徒に反対していた事情がうかがえます。ギリシア人も神の民とされる事を、目の当たりにしてもまだ受け入れられない。自分にとって「まさか」の人のところまで、イエスが行こうとすることに、どうしても抵抗しようとする。それならばイエスを見つけることは出来ない、イエスの行くところに来ることは出来ないのです。

[10] ヨハネの福音書10章15節:わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。

[11] 申命記16章13~15節:あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。14この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。15あなたの神、主のために、主が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。
また、捕囚後に仮庵の祭りを行った、ネヘミヤ記8章9節以下の記事も参照。

[12] 1章14節(ことばは人となって、私たちの間に住まわれたスケーネオー。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。)と、7章2節(仮庵の祭りスケーノペーギア)。

[13] また、ゼカリヤ書では、終末的な祝福が、仮庵の祭りの喜びで表されています。ゼカリヤ書14章16~21節:エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。17地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。18もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つ疫病である。19これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰となる。20その日、馬の鈴の上には「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。21エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

[14] この言葉も、同じヨハネの第一の手紙4章7節なのです。

[15] 罪のために長年病んでいた男を安息日に癒やし、彼らが蔑むガリラヤ人、同じ人間と思っていないギリシャ人の所に行くイエス。そのイエスを受け入れ、イエスの所に行くとは、どんなに私たちにとって難しい事かでしょうか。私たちにとって「ハードルが高い」という難しさではなく、持っている誇りを手放し、自分も誰とも同じ人間であり、罪人であり、愛されている者だ、と受け入れる難しさなのです。その私たちを、イエスは招き、変え、人を新しい目で尊ぶようにしてくださるのです。それが、イエスが道であり、真理であり、いのちであることです。

[16] ローマ人への手紙12章1~3節:ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。3私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。