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2023/5/21 ヨハネの福音書7章45~52節「あの人のように話した人は」交読イザヤ11章

7章32節、丁度この頁の一番初めに「祭司長とパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。」とありました。その遣わされた下役たちが戻って来た続きです。

45さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」46下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」[1]

捕らえに送り込んだはずが、逮捕するどころか彼らまでイエスの話に聞き惚れていた。まさに「木(み)乃(い)伊(ら)取りが木乃伊になる」。元々「祭司長」と「パリサイ人」は、親ローマと反ローマ、体制派と反体制派の水と油なのに、ここで反イエスで一致して組んだ不自然な同盟です。彼らにしたら、ともかく黙って捕まえて来さえすれば良かったのでしょう。でも下役たちは、日頃から犬猿の仲の二派が手を組むだなんて、その人はどんな話をするのだろう、と却って興味をそそられたのか[2]。いえ、既にイエスの教えは薄々知れ渡っていて、

「あの人のように話した人は」

とは、内容より話し方を指します。(勿論、イエスの話す内容も深く、鋭く、またその権威の威厳も類を見なかったものです。)確かなのは、「あの人」とは「あの人間」というキッチリした言葉です[3]。ヨハネは最初から、イエスが神であり、人間となったことを語っていました。ですからイエスの話し方が前例がなかったとは、人間らしくなかったというよりむしろ、あの人こそ人として話していた、誰よりも人間らしい話し方だった。そう下役たちは感じたのです。彼らがいつも話を聴いていた、上役であるパリサイ人たちは、こう応じます。

47そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか[4]48議員やパリサイ人たちの中で、だれかイエスを信じた者がいたか。49それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」

彼らは、下役たちが命令を棚上げするほどイエスへの印象を語るのを聞いても「惑わされている」と一蹴します。彼らの意見よりも「議員やパリサイ人」の方が偉くて間違っていなのだ、と人に上下を付けます。この群衆は聖書に無知で、呪われている――イエスに惑わされる云々は別にして、そもそも呪われた、救いようのない民なのだ、と軽蔑しています。こういう醜い自惚れは、当時の文献にもうかがえる、ユダヤ教のエリートたちの考え方でした。そして今の私たちにも他人事ではない、知識とか収入、学歴とか「クリスチャンである」ことさえ、エリート意識にしかねないことを謙虚に自覚したい傾向です。それは聖書に反する態度です。

50彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。51「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

そうです、聖書の律法には、

「偽りのうわさを口にしてはならない。」

「いかなる咎でも、いかなる罪でも、二人または三人の証人の証言によって、立証されなければならない。」

と明言しています[5]。聖書だけから原則を抜き出したさばきをするのではないのです。本人から聞き、複数人の証言を得なければさばきはしてはならない、これこそ聖書の律法でした。「疑わしきは罰せず」です。「噂」だけで決めつけて、吊し上げたり干したりするのは、今も変わらない残酷な風潮ですが、それに歯止めをかけるのが聖書の洞察としてあるのです。これこそ聖書の律法ではないか、とこのニコデモは反論するのです。しかしこれに対する彼らの答えがまた、疑問に対する応答ではなく、その人の人格を卑しめて封じようとするいやらしいものでした。

52彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。[6]

「お前もあいつらの仲間なのか」と言い負かして、黙らせようとする。悔しい、恥ずかしい卑怯な詭弁です。下役の正直な感想や同僚議員の真っ当な言い分にも耳を貸さず、こうまで頑なに、イエスに対して心も耳も閉ざしている姿が印象付けられる、7章の結びなのです。勿論、人が福音に耳を傾けて、イエスに心を開くことが出来るかどうかは、その人の善良さとか知性には寄りません。それを言ってしまえば、このパリサイ人たちと同じになってしまいます。ヨハネが繰り返す通り、人がイエスのもとに来て、信じることが出来るのは、ただ神によって、神が不思議に力強く引き寄せてくださるから――引き寄せてくださったから、に他なりません。

そのことを特に思うのは、ここに登場するニコデモです。彼は以前3章で、夜イエスに会いに来た人でした。その際、彼もまた、イエスが神から来た教師であること、神がともにいなければ、イエスのしているようなしるしは誰も行えない、と認めていました。その会話の末にあの

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」

の言葉が語られる、あのニコデモです。あの夜、こっそり人目を憚るようにやって来たニコデモが、今ここで議会の流れに逆らう発言をしています。この一言だけで、また口を閉ざしたのでしょうか。しかし、あの夜のイエスとの会話がどんな波紋を広げ続けていたのでしょう。そしてやがてイエスが十字架にかけられ、息を引き取った時、19章39~40節で、ニコデモはアリマタヤのヨセフとイエスの血みどろの亡骸に香料を塗り、亜麻布を巻き、墓に納めます。他の弟子たちが皆雲隠れし、留まったペテロも「あなたもあのガリラヤ人の仲間なのか」と言われて怯んだ時、このニコデモは黙々と、行動を取るのです。今日の7章50節のニコデモはその半年前です。この時点でどんな段階だったのでしょう。「あなたもガリラヤの出なのか」と言われて怯んだとは、まだまだ日和見だったのでしょうか。或いは、この卑怯な屁理屈を聞いて、逆に見切りがついたのかもしれません。こんな言い方で真っ当な反論を封じようなんて、尊敬に値しない。それとは全く違う話し方をするイエスを思い出して確信したのでしょうか[7]。少なくとも、イエスはそのような答でやり込めよう、言い包(くる)めようなどとは決してしないお方です。イエスは本当に人間となり、人間として話した、誰よりも人間らしい方、そして人を人間として語る方です。

律法は、当事者の話に聴かずに決めつけた裁きを禁じています。それは律法にそういう規定がある、というだけでなく、神の律法の人間理解そのものです。議員やパリサイ人だろうと下役や群衆だろうと、同じ人間であって、裁きには慎重であるべきで、よく聞く耳を持ち、事実を知ろうとしなければならない。何より、その根底にあるのは、神への信頼です。正しい裁き主であり、罪を明るみに出し、そのもたらした傷を癒し、回復させてくださる神への信頼です[8]。イエスは人となられた時、その律法を体現する方でした。誰に対しても分け隔てのない、慈しみ、誠実さ、無防備さがあった。まことの人間であるイエスは、下役も無学な群衆も頑なな議員も優柔不断なニコデモも、人間として愛し、受け入れ、ひとりひとりに語る方でした[9]。誰もそんなふうに話した人はいなかった、そんなふうに私たち一人一人が心から言えるのです。

ここには、祭司長たちの頑なさ、傲慢さが見えると共に、その彼らの手の及ばないわざがあります。神は律法において公正な裁きを定め、御子イエスを人間として遣わしてくださいました。その人間らしい語りに、下役たちは、命令への服従よりも自由を選び、議員のニコデモも変化の兆しを見せています。イエスは私たち一人一人をも、誰からも見られたことがないような目で、ひとりの人として、尊い存在として見ていてくださり、語りかけてくださっています。権力者とか世間の目がどう見ようと、私たち自身の傲慢や卑屈な恐れがあろうと、イエスは私たちを人間として見ておられ、人間として回復してくださいます[10]。まだ、人からの言葉に、答えに窮するとしても、それより強く、そして静かなイエスの言葉に運ばれて、自分の声を上げます。人を人間としてみる目を、人間として語りかける心を、イエスは下さっているのです。

「主よ、深い愛をもって語られている、あなたのことばに寄り頼みます。あなたのように私たちに語ってくださった人はいません。あなたが私たちを見ているように、自分を見させてください。どの人をもあなたのような心で向き合い、あなたが働いている御業に気づかせてください。来週の伝道礼拝も、常日頃の宣教と証しも、まず私たちが主の心を戴く時でありますよう」

脚注:

[1] 32節が、祭りの半ば(14節)から終わりの日(37節)までのいつになされた派遣なのかは分かりません。また、祭りの終わりに戻って来たこと自体は計画通りだったのか、それとも予想外に時間がかかったのかもわかりません。もし、前者であれば、当初から祭司長たちは、その場でイエスを捕らえるつもりではなく、タイミングを見計らっていたのだろう、とも推測できます。後者であれば、下役たちがイエスの話に数日間、聞き入ってしまった、とも取れます。

[2] しかし、下役たちはそんな政治的な魂胆とは無縁です。無縁だからこそ、下役たちはイエスの話に耳を傾けることが出来たのでしょうか。

[3] 人アンスローポス:ヨハネの福音書1章4節(この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。)、6節(神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。)、9節(すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。)、51節(そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」)、2章10節(こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」)、25節(人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。)、3章1節(さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。)、4節(ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」)、13-14節(だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。)、19節(そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。)、27節(ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。)、4章28-29節(彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」)、50節(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。)、5章5節(そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。)、7節(病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」)、9節(すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。)、12節(彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」)、15節(その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。)、27節(また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。)、34節(わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。)、41節(わたしは人からの栄誉は受けません。)、6章10節(イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。)、14節(人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。)、27節(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、53節(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。)、62節(それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。)、7章22-23節モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。23モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。」、46節(下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」)、51節(「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。〕、8章17節(あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。)、28節(そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。)、40節(ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。)、9章1節(さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。)、11節(彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」)、16節(すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。)、24節(そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」)、30節〈その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。」、10章33節〈ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」〉、11章47節(祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。)、50節(一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」)、12章23節(すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。)、34節(そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」)、43節〈彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。〉、13章31節(ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。)、16章21節(女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。)、17章6節(あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、18章14節(カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。)、17節(すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。)、29節(それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。「この人に対して何を告発するのか。」)、19章5節(イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」)。

[4] 「惑わす」 プラナオー プラネット(惑星)の語源。地球から見ると迷っているようだが、地動説・太陽系を知ると実に秩序立っている。律法や庶民の行動も、祭司長・パリサイ人から見ると瞑想しているようでも、神中心の人間理解に立つと、実に整然としている。それを、断片的な律法理解のまま、無理に当てはめようとすると、律法の根本を見失う。

[5] 出エジプト記23章1節(偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。)、申命記17章6節(二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。)、19章15節(いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。)、箴言18章13節(よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。)、申命記1章16節(そのとき、私はあなたがたのさばき人たちに命じた。「あなたがたの同胞相互の言い分をよく聞き、ある人とその同胞との間、また寄留者との間を正しくさばきなさい。)

[6] 実際には、ガリラヤから預言者が出たことはある。アミタイの子ヨナ(Ⅰ列王14章25節)、カペナウムは「預言者ナホムの墓」の意。あるいは、ここでの「預言者」は、40節でいう「あの預言者」のことなのかもしれません。しかし、その知識が間違っているかどうか、よりも、パリサイ人たちがイエスの教えに耳を傾けないことが根本的な問題なのです。

[7] パリサイ人や祭司長は、言う話は立派でも、その話し方に見え隠れしたのは、下役を見下し、群衆を蔑む思い、その根本は自分たちの律法の知識とか地位・プライドにしがみつく思いです。

[8] その神への信頼なしに、自分のプライドとか面子で動いて、神からの恵みよりも自分の地位や特権がいのちとしているなら、律法は何の益にもなりません。

[9] この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。(イザヤ書11章3-4節)

[10] 「一を聞いて十を知る」よりも、一を一として聴く聴き方の方が、聖書によって招かれていくあり方です。