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2023/9/10 ヨハネの福音書10章19-30節「ソロモンの回廊で」

18節で「羊たちと牧者」の譬えが一区切りし、19~21節にはそれを聞いてもパリサイ人たちは9章16節と何も変わらない分裂を繰り返しただけ、と伝えます[i]。26、27節でイエスは、

…あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。27わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

と言い、「羊たちと牧者」の譬えが、内容的には連続していますが、時間的には22節の、

そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。

とあることで進んでいる、そういう今日の箇所です[ii]。この「宮きよめの祭り」は今もイスラエルでは「ハヌカ」と呼ばれて冬に祝われ、今年は12月8日から15日だそうです。八日かけて一本ずつ燭台に火を灯すのが、キリスト教会のクリスマスと重なる、ユダヤ教の光の祭りです。その始まりは旧約と新約の間(「中間時代」)の出来事でした。旧約の律法には書かれておらず、新約でもここに出て来るだけで、「聖書協会共同訳」にあるマカバイ記に記されている出来事です。イエスの時代から二百年前、イスラエルの北にあるシリアの王は、ユダヤを征服し、エルサレム神殿にゼウス像を建てて、聖なる神の宮を冒涜してしまいました。ユダ・マカバイが軍事蜂起をして、紀元前168年に遂に神殿を奪還し、ゼウスの偶像を取り除き、宮をきよめたのです[iii]。欄外に「別訳「神殿奉献の祭り」」とあるように、エルサレムの宮を(再)奉献したのです[iv]。ですからこの祭りは、民族主義も熱くなり、イエスの時代には、ローマ帝国の属州という屈辱を晴らす思いも強まったでしょう。ローマ帝国の頸木を断ち切って自由になりたい、そのための神からのメシアを待ち望む思いが、勢い高まる時期でもありました。

23節の「ソロモンの回廊」は神殿の東側にある屋根付きの広い回廊です[v]。何千人もの人々が集まれる場所でした。

この時は、巡礼者がピークになる他の祭りほどごった返してはなかったとしても、まずまずの人手で賑わっていたことでしょう[vi]。そこをイエスが歩いていると、

24ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと[vii]言ってください。」[viii]

ここで彼らの頭にあった「キリスト」は、武力のメシアです。宮きよめの祭りで想起するユダ・マカバイのような軍事的メシアです。力で敵を蹴散らし、民族を解放してくれる英雄(ヒーロー)です。こういう民族主義的な意味での「キリスト」を念頭に「あなたはキリストか」と問うのです。

25イエスは彼らに言われた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、26あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。

イエスは彼らの考える「キリスト」かどうか、という無意味な問いには答えず、イエスご自身の言葉、イエスのなさったわざをあなたがたが信じないこと――あなたがたはどうか、という問題を突き返すのです。彼らは自分たちの民族の回復を望みました。そして、病人の癒し、物乞いの発言、罪人の赦し、外国人もともに神の恵みに与ることは「悪霊につかれておかしくなっている」と切り捨てて、受け入れようとしなかったのです。でもそれこそイエスの話してきたことであり、父の名によって行ってきたわざの証し、だったのですね。

この冬の出来事の後、イエスの十字架と復活とペンテコステを経て、半年程のことでしょう、使徒の働き3章に、この「ソロモンの回廊」で使徒ペテロがイエスの憐れみと力とを説教します[ix]。使徒5章12節でも、信じた人々が心を一つにしてこのソロモンの回廊にいたとあります[x]。それから半世紀以上を経て、このヨハネの福音書が書かれた時、これを聞いたエペソの教会には、かつてのソロモンの回廊での集まりにいた人もいたなら、あの場所で貧しい人も外国語を話す人も心を一つにして集まる場所になったことを、懐かしく思い起こしたでしょう。しかし恐らく大多数はエルサレムなど見たこともない人々です。ここでイエスを囲んだ人々が思い浮かびもしなかった異邦人です。ユダ・マカバイのような英雄がキリストだったら、滅ぼされる側だった人々です。そのような人々が、イエスの言葉に集まったのが教会なのです。

27わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

民族や身分に関係なく、イエスの声が魂の奥深くに響いて、自分への呼び声と分かり、イエスについていく。イエスがキリストであるなら、私たちとの関係はそういう関係なのですね。

無論、イエスの言葉を聞いてどう反応するかでイエスの羊かどうかすぐわかる、という単純な事ではありません。教派によっては「聖書の言葉さえ伝えれば、イエスの羊であれば興味を持つはずだし、そうでない人は耳を貸さないのだ」と考えて伝道する態度もあります。黒い看板に「死後、さばきに会う」とか聖句を書いてあちこちに張り付け、通りでスピーカーから延々と聖書の言葉を流し続け、それが伝道だという団体もあります[xi]。今時は、ホームページやSNSに聖書の言葉を日替わりで載せて、誰かの心にヒットするのを待つ、という「伝道」も見かけます。(それをきっかけに信じる人がいます。)でもイエスのなさり方は一方的に発信してさえいれば自分の羊なら聞き分ける、というものだったでしょうか。4章のサマリヤ人女性、8章の姦淫で捕まった女性、9章の視覚障害者、また最も身近な弟子のペテロやヨハネ、トマス…誰に対してもイエスは近づき、相手に応じて語りかけを変え、話に耳を傾けました。用心されたり耳を塞がれたりしても、焦らず向き合いました。それが牧者なるイエスです。

エゼキエル書34章で主は、羊なる民への牧会と伝道の五つの要素を示します[xii]

エゼキエル書三四16わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。…

単に呼びかけるだけでなく、捜し、連れ戻し、介抱し、慰め励まし、そして力や強さの原理で動かないこと。これが牧者であるイエスの姿勢です。そして、そのように目を見て向き合われる中で、主の声を「ああ、それは自分のことだ」と聴くことが始まる。「私を呼んでくださっているのだ」と思い始めて、イエスが豊かに養ってくださるのです。イエスは言います。

28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。

欄外に異本「わたしに彼らを与えてくださった父は、すべてにまさって偉大です」とあります。これならまだ分かります。しかしこの本文の方が本来だとして、訳に採用されています[xiii]

わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。

そして、イエスの手、父の手がともに羊たちを守り、

30節「わたしと父とは一つです。」

私たちに永遠のいのちを与えることにおいて、完全に一致して働いておられるのです[xiv]。その手も[xv]心も一つにして、いのちを与え、決して滅びることがないようにしてくださる。なぜなら、父と御子イエスが、私たちを「すべてにまさって」というほど大切に思ってくださるからです[xvi]

この言葉を私たちは自分への言葉と聞いて良い。
本当に嬉しいことです。
「あなたがキリストならはっきりと言ってください」と詰め寄られて、イエスがハッキリ仰ったのはこれほどの力強い約束の言葉でした。私たちをご自身の羊として大切に思われている驚くほどの言葉でした。これを「私のことを話されている」「私が呼ばれている」と聞く幸いに与っている、世界中の多くの人の群れに、私たちは加えられているのです。

「良い牧者である主よ。羊のためにご自身を捧げられるあなたの御真実を今日ハッキリと聞きました。私たちが願い考えるキリストではなく、あなたがご存じの通りの尊いあなたが、御心のままに私たちを導き、養い、一つの群れとしてください。過去の回想や、貧しい期待よりも、新しく広く、思いがけないあなたの導きに委ねます。何より主よ、あなたが惜しみなく憐れみ深いように、私たちにもあなたの心を与え、あなたのわざの中で喜び楽しみ生かしてください」

[i] 分裂が起きる、これこそ、イエスが光であるしるし、でもある。分裂シスマ:ヨハネ7章40~43節(このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。41別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。42キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」43こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。)、9章16節(すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。)。

[ii] 7章2節の「仮庵の祭り」は9~10月ごろですから、ここまで二ヶ月ほどが過ぎています。9章の出来事がその二ヶ月の間のどの辺りなのかは言及がないので不明です。

[iii] 聖書協会共同訳聖書旧約聖書続編マカバイ記第一 4章 36~59節:ユダと兄弟たちは言った。「見よ、我らの敵は粉砕された。上って行って、聖所を清めて奉献しよう。」37そこで全軍が集結し、シオンの山に上って行った。38彼らは、聖所が荒れ果て、祭壇が汚され、門が焼け落ち、中庭が雑木林あるいは山の中のように草むしていて、祭司たちの部屋が破壊されてしまっているのを見た。39彼らは衣服を裂き、激しく胸を打ち、灰をかぶり、40地面に顔を伏せ、合図のラッパを吹き鳴らし、天に向かって叫んだ。41それからユダは兵たちに、聖所の清めが終わるまで、要塞にいる者たちを相手に戦うように命じた。42彼は、律法に忠実でとがめられるところのない祭司たちを選んだ。43祭司たちは聖所を清め、汚れの石を不浄の場所に移した。44それから汚されてしまった焼き尽くすいけにえのための祭壇の処置をめぐって協議し、45それを引き倒すという妙案を思いついた。異邦人たちがそれを汚したので、そのことで自分たちが非難されないためである。こうして彼らはその祭壇を引き倒した。46そしてそれらの石を、預言者が現れてそれらについて指示を与えてくれるまで、神殿の丘の適当な場所に放置し、47律法に従って、自然のままの石を持って来て、以前のものに倣って新しい祭壇を築いた。48こうして、聖所および神殿の内部を築き、中庭を清めた。49聖なる祭具類を新しくし、燭台、香をたく祭壇、机を神殿に運び入れ、50祭壇の上で香をたき、燭台には火をともして神殿内部を照らした。51また机の上にパンを置き、垂れ幕を垂らした。こうしてすべての業を終えた。52第百四十八年の第九の月――キスレウの月――の二十五日に、彼らは朝早く起き、53焼き尽くすいけにえのための新しい祭壇の上に律法に従っていけにえを献げた。54異邦人が祭壇を汚したのと同じ時、同じ日に、歌と琴、竪琴とシンバルに合わせて祭壇は奉献された。55民は皆、地に顔を伏せて、彼らを道々助けてくださった天に向かってひれ伏し、賛美を献げた。56こうして祭壇の奉献を八日にわたって祝い、喜びをもって焼き尽くすいけにえを献げ、会食の献げ物と感謝の献げ物のいけにえを献げた。57また、彼らは神殿の正面を金の冠と小盾で飾り、門と祭司たちの部屋を再建し、戸を取り付けた。58民の間には大きな喜びが溢れた。こうして異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。59ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした。

[iv]  「宮きよめの祭り(欄外:神殿奉献の祭り)」エンカイニア へハヌカ。キスレウの月の25日、クリスマスと同じ時期のユダヤの祭り。紀元前168年、イスラエルがセレウコス朝シリアの支配から解放されて、汚されていた神殿をきよめて再奉献したことに由来する祭り。ダニエル書11章31節の預言であり、中間時代に成就した出来事。Ⅰマカベア書4章(後述)、Ⅱマカベア書10章5~6節。参考URL、https://seishonyumon.com/glossary/%E3%83%8F%E3%83%8C%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A5%AD%E3%82%8A/https://www.bfpj.org/pray/chaimail/?id=107

[v] 「当時、神殿は、ヘロデ大王の始めまし大掛かりな、何十年も要した増改築の最中でありましたが、この「ソロモンの廊」とは、エルサレム神殿の境内の周りを取り囲む回廊の一番東の方にあった回廊でありました。東側は壁になっていて屋根があって、高さ一〇メートルにも及ぶたくさんの柱が屋根を支え、西の方は筒抜けで神殿の境内に通じている、という所でありました(ヨセフオス『ユダヤ人古代史』XV398Ⅱ九7、『ユダヤ戦役』V185Ⅱ五1参照)。「時は冬」、東風が冷たくエルサレム神殿の境内に吹き下ろすシーズンでありますので、東側壁でさえぎっておりますソロモンの廊は、人々が集まるのに格好の場所だった、と思います(使徒三11、五1参照)。」、榊原康夫『ヨハネ福音書講解3』、298ページ。

[vi] 宮きよめは律法に規定された他の祭り(過越祭、七週の祭り、仮庵の祭り)とは違い、エルサレムに上る義務もなく、冬に当たることもあって、エルサレムが巡礼者でごった返すこともなかったでしょう。

[vii] はっきりとパッレーシア 7章4節(自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」)、13節(しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。)、26節(見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。)、11章14節(そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。)、54節(そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。)、16章25節(わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。)、29節(弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。)、18章20節(イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。)

[viii]  この「気をもませる」プシュケー・アイレイは、直訳すれば「魂・いのち・心が持ち上げられている」という言葉です。他者のいのち・心・魂をおあずけにする、弄ぶような言い回しです。実際は、人が誰か他者をどう言おうともそれはその人の問題で、私たちは自分の心・いのちの状態を誰かのせいにすることは出来ません。彼らは、自分の問題を棚上げして、「あなたは私たちのいのちを持ち上げたままだ」と、イエスに責任転嫁をしました。ですから彼らこそ(いいえ、私たちこそ!)自分に「私は、いつまでイエスに気を揉ませるのですか。あなたがキリストの羊なら、はっきりと聞いて、イエスについていきなさい」と言わねばならないのかもしれません。イエスはキリストですが、私たちが思うようなキリストではないかもしれないし、自分がどんなキリスト・メシア・ヒーローを待っているのか、正直になり、真実のキリストに降伏するよう、自分の責任を負うことが必要なのです。しかし、イエスはそのようには言われません。私たちに、いつまでわたしの気を揉ませるのか、とは言われません。そうではなく、イエスは私たちのためにいのちを捨ててくださいました。イエスは、彼らの問題にも関わらず、ご自分のいのちをご自分のいのちとして責任を持ち、そしてそれを自分のものとして握りしめず、羊たちのためにいのちを捨てます、と仰います。そして、実際にそうしてくださいました。この方の、これほどまでのいのちを私たちは戴いています。また、私たちが届けるべきイエスの声は、この圧倒的な声です。みことばを引用して、キャッチーな言葉や信じることを促す(脅す)言葉、いい話を伝えれば、という伝道ではないのです。

[ix] 使徒の働き3章11節(この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。)。また、その続きで同4章4節(しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。)とあることからしても、ソロモンの回廊は相当な広さだったのです。

[x] 使徒の働き5章12節:さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。

[xi] 「聖書看板」と言われるもので、宮城の丸森町にある団体によるものです。参考URL、http://www.bdljapan.com/ 。また、第三者からの紹介HPとして、http://1010meguri.blog.fc2.com/blog-entry-234.html も分かりやすいです。

[xii] 「ブツァーは、この羊飼いとしての働きの基礎をエゼキエル書34章16節に置いています。この箇所で、主はこう言われます。「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」 ブツァーはこの聖句を用いて、神の多様な群れをケアするための五つの方法を、教会のリーダーたちが順守すべきものとして説明しています。 失われたものを捜す  主が最終的に戻ってこられるまでは、まだ神の群れに加えるべき選ばれた羊がいます。信徒を牧することは、常に伝道的なアウトリーチの働きを伴います。失われたものを積極的に捜そうとしない教会は、彼らが礼拝する羊飼いに対する敬意が欠けていることを表明しています。主は「失われた者を捜して救うために来」られたからです(ルカ19:10) 追いやられたものを連れ戻す  インターネット上で人気の動画にこのようなものがありました。ある農夫が、ぬかるんだ溝に落ちて動けない羊を地面に引き揚げてやるのですが、羊はすぐに走り出して、また同じ溝に落ちてしまう、というものです。羊はいつも迷い、繰り返し同じ問題に巻き込まれてしまいます。主は、さまよい続けるご自身の羊を連れ戻すために、真の羊飼いを遣わすことを約束しておられます。それはすなわち、地域教会を率いるリーダーたちです。 傷ついたものを介抱する  地域教会に集う人々は、魂に傷を抱えています。彼らは孤独で、苦しみの中にあります。彼らの罪は彼ら自身を傷つけ、また周囲の人々をも傷つけています。エゼキエルが述べているように、彼らは他の霊的権威者から虐げられてきたのです。キリストにある真の羊飼いは、そのような魂に優しく触れ、ギレアデの乳香[訳注:傷を癒す薬]を施します。 病気のものを力づける  クリスチャンたちは弱い良心、弱い性質、弱い信仰の歩みを抱えて来ることを忘れないよう、ブツァーは私たちに呼びかけています。ですから、地域教会の羊飼いは彼らを力づけなければいけません。彼らは、神の民のさまざまな信念や、性格や、必要に応じて、神のことばを薬のように適用しなければなりません。 健康的なものを守り養う  このテーマ聖句の最後の部分について、ブツァーは比較的自由な解釈を当てはめていますが、彼はここで、教会に集う敬虔なクリスチャンでも足を踏み外すことのないよう常に警戒しておく必要があることを教えています。そのためには、教会の長老たちは、絶えず励ましを与え続けなければなりません。健康的な羊は、繁栄のために、良い食事を続けなければならないからです。」リゴニア・ミニストリーズ「牧会のさまざまな性質」 https://onl.la/C1tMBcp

[xiii] 14章12節(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。)は、民を偉大とすることにつながり、14章28節(『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。)は父を偉大としています。参考、13章16節(まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。)、15章13節(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、20節。

[xiv] 「わたしと父とは一つです」 三位一体の形而上学的な話ではなく、愛による一致。17章11節(わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。)、21~23節(父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。)

[xv] 手ケイル 15回。3章35節(父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。)、7章30節(そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。)、44節(彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。)、10章28~29節、39節(そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。)、11章44節(すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」)、13章3節(イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。)、9節(シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」)、20章20節(こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。)、25節(そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。)、27節(それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」)、21章18節(まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」)。

[xvi] 私たちはこの言葉をも私たちへの約束として受け止めます。それは決して私が信じたから、私がイエスの言葉を聞き分けたから、ではない言葉です。イエスが先に私たちを知り、捜し、連れ戻し、何度も迷い出てもまた連れ戻し、介抱し、慰め励まして、今ここで永遠のいのちに生かしてくださるから、そのイエスの言葉に私たちはついていくことが出来るのです。誰も決してわたしの手から、彼らを奪い去りはしない、とまで仰るのです。