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2023/9/17 ヨハネの福音書10章31-42節「わたしのわざを信じなさい」交読2詩2篇

22節から、冬の「宮きよめ」の祭りの時、エルサレム神殿の「ソロモンの回廊」であった出来事です。「宮きよめ」は紀元前168年に、シリアが侵略し、神殿にゼウス像を持ち込んだ。その忌まわしい状態に、ユダ・マカバイが武装反乱し、宮から偶像を一掃し、きよめた。その民族的なお祝いの時でした。「ソロモンの回廊」というのも、かつて栄華を極めたソロモン王が建てた神殿の、破壊されずに今に残っている回廊である、と言い伝えられた名称です[i]。ユダヤのかつての勝利や栄光と、屈辱とリベンジを狙う思いとがふつふつとした状況でした。

31ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。

イエスに対して、石を投げて殺そうという大変物騒な場面です。石打ちは、神を冒涜したり、ひどい罪を犯した場合の処刑方法です[ii]。イエスは、ここでも彼らに問いかけ、考えさせます。

32イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」

「良いわざ」とは「美しい業」とも訳せるニュアンスです。イエスがなさった業、病人を癒して立ち上がらせたりしたすべての業には美しさがありました。そしてここで石を握りしめた人々も、イエスがなさった業の良さ(美しさ)は否定しない、否定できないのです。

33ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」

前にも(8章の最後など)似たようなことがありましたが、イエスがここでも神を父と呼び、「30わたしと父とは一つです。」と言った言葉を、許されない冒涜だ、というのです。でもイエスは32節で「父から出た多くのよいわざ」と言っていました。イエスのわざ、弱い者、痛む者、悲しむ者をあわれみ、強める「美しい業」こそ、イエスと父との関係の十分な証しです。

34イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。35神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、36『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。

分かりやすくするために、この「おまえたちは神々だ」が引かれている、元の聖書個所、詩篇82篇を読んで、どんな詩篇かを見てみましょう。

詩篇82篇:アサフの賛歌
神は神の会議の中に立ち
神々のただ中でさばきを下す。
2いつまでおまえたちは不正をもってさばき
悪しき者たちの味方をするのか。

ここで「神々」と言われるのは人間の支配者・為政者のことです[iii]。しかしここでは彼らの不正が非難されています。特に、悪しき者の味方をして、弱者を省みないという不正です。

3弱い者とみなしごのためにさばき
苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ。
4弱い者と貧しい者を助け出し
悪しき者たちの手から救い出せ。

飛んで6節がイエスの引用です。これが皮肉であることは7節と続けると分かります。

6わたしは言った。
「おまえたちは神々だ。みな いと高き者の子らだ。
7にもかかわらず おまえたちは人のように死に
君主たちの一人のように倒れるのだ。」

聴いたユダヤ人も、82篇6節を聞けば、82篇全体を思い起こせたでしょう。神を冒涜していると石を握りしめるけれど、弱い者や困窮者への「美しい業」はスルーしている。その批判が刺さったことでしょう。しかし詩篇82篇の最後は、批判や皮肉では終わりません。

8神よ
立ち上がって地をさばいてください。
あなたが すべての国々を
ご自分のものとしておられるからです。

まことの神の行動への待望です。そしてそれを含めた詩篇の

「聖書が廃棄されることはあり得ない」。

つまり、神が立ち上がってアクションを起こしてと求める言葉は廃棄されることはあり得ない、というのです。

詩篇82篇は交読文にないのですが、今日読んだ詩篇2篇も、主が地上の王たち、支配者たちの高ぶった思いを主が笑い、裁きを予告する詩篇です。新約聖書で最も多く引用されるのがこの詩篇で、そこに「神の子」なるお方が国々を与えられ、鉄の杖で治めることが告げられます[iv]。これは詩篇全体を貫く大テーマの一つなのです。それは廃棄されることはあり得ない。ではどう成就したのでしょう。それはイエスにおいてです。イエスが神の子が立ち上がってくださったこと、父が聖なる者とし、神の子イエスを世に遣わしたことにおいてです。イエスの美しい業こそ、人間の力や傲(おご)りの醜さを裁くのです。

37もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。38しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

ここでもイエスはご自分の業が、父なる神の語る、聖書の成就である、十分な証しであると確信しています。そこに目を留めるようにと強く語っています。彼らは受け入れません。

39そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れた。

手に握っていた石を投げるのは止めたのですから、イエスの言葉にぐうの音も出ない思いにはなったのでしょう。それでも捕らえようとする手をイエスは逃れて、東に行きます。

40そして、イエスは再びヨルダンの川向う、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。41多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。42そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。

ここでは人々の反応は違うのです。石打ちや逮捕と真逆で、信じたのです。そこには1章の初めに登場したヨハネの証しがありました。奇蹟(しるし)はしなくても、ヨハネの証しは残っていて、多くの人がイエスを信じたのです。

彼らもこの時、宮きよめの祭りをその場で祝っていたはずです。でも、かつて先祖たちを救い出した英雄、ユダ・マカバイのようなカリスマ的なヒーローを求めませんでした。彼は確かに武力でシリアを追い出し、宮から偶像を追い出しました。しかしそういう形式的な「宮きよめ」では、礼拝や私たちの心は決してきよめられず、神ならぬ何か別のものを慕い求めるだけです。それは人間が自分の力や努力できよめることの出来ない闇です。ただイエスが「父が聖なる者とし、世に遣わした者」イエスだけが、立ち上がって、国々も私たちもご自分のものとしてくださる。心の宮をきよめてくださるのです[v]

ヨハネの福音書は21章ですから、次の11章がちょうど真ん中で「ラザロの復活」を語ります。その前、10章40~42節はそこに入る前の大事な一呼吸で、イエスが初心に帰るように最初の場所に戻ったと伝えるのです。

私たちもここで戻りましょう。

私たちには華々しいしるしはないかもしれません。
解決してほしい問題がまだまだあります[vi]
そしてそのすべてを治めてくださる神の子イエスにおいて、聖書の約束が成就することを待ち望んでいます。

だからこそ、まず私たちはこの聖なる者として遣わされたイエスを信頼するのです。私たちの心を、この礼拝を、偶像や罪を追い出すだけでない、このイエスのわざ、美しいわざを喜び、祝うよう求めます。手に石を握りしめているならば、そのままをイエスに差し出して、逮捕するためでなくイエスについて行くために捕らえたい、いや、捕らえていただくのです[vii]

「私たちの牧者である主よ。生まれつきの障害も、罪の罰ではなく、神のわざが現れるため。その素晴らしい恵みの言葉で始まった9章10章を、今日まで読ませてくださり有難うございます。良い牧者であるあなたが、私たちを今、永遠のいのちに生かして、あなたの美しい業に与らせてくださいます。しるしやカリスマを求め、石や傲慢を握りしめる心を、あなたの憐れみによって柔らかくし、主の群れとして旅をする喜びに立ち戻らせてください。感謝して」

[i] https://markoji2.hatenablog.com/entry/2022/05/08/211924

[ii] レビ記20章2節(「あなたはイスラエルの子らに言え。イスラエルの子ら、あるいはイスラエルに寄留している者のうちで、自分の子どもを取ってモレクに与える者は、だれであれ必ず殺されなければならない。民衆がその者を石で打ち殺さなければならない。」、27節(男でも女でも、彼らの間に霊媒や口寄せがいるなら、必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」)、24章14節(「あの、ののしった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたすべての人がその人の頭に手を置き、全会衆が彼に石を投げて殺すようにしなさい。」、16節(主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。)、申命記17章5節(あなたは、この悪しきことを行った男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。)、21章21節(町の人はみな彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。イスラエルはみな聞いて恐れるであろう。)、22章21節(その娘を父の家の入り口のところに連れ出し、町の人々は彼女に石を投げ、彼女を殺さなければならない。彼女が父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱となることをしたからである。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。)、24節(あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。)、など。

[iii] 詩篇82篇1節の欄外参照:「神」は「ヘエロヒーム」、「神々」は「ヘエル」、二行目の「神々」は「あるいは「さばく者たち」「ヘエロヒーム」と付されています。

[iv] 参照、福音主義神学掲載論文、山崎ランサム和彦「使徒の働き 4 章 23-31 節における 詩篇 2 篇 1-2 節の引用」http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/038-6.pdf

[v] 「宮きよめ」(エンカイネイア)の派生語エンカイニゾー(新しくする、奉献する)は、新約で二箇所:ヘブル9章18節(ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。)、10章20節(イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。)で用いられています。

[vi] 軍事的な解放である「宮きよめ」が無意味だったのではない。政治・経済・社会的な問題は、重要だ。しかし、それが究極・必須とするならば、間違う。イエスは、まことの王として来られ、悪しき指導者たちを責める。それを語る詩篇を引用する。しかしそのイエスは、政治や社会にまして、羊たちを大切にしたもう。私たちが、外の問題の解決を求め、カリスマを求め、それがハッキリしないことで気をもませられている、と問題の責任を外部に帰するなら、そのような心をこそ、キリストに収めていただくことが必要。

[vii] 「捕らえる」ピアゾーは、ヨハネの福音書で12回出てきます:7章30節(そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。)、32節(パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。)、44節(彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。)、8章20節(イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。)、10章39節(そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。)、11章57節(祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。)、21章3節(シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。)、10節(イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。) 最後の2つは「魚を捕る」に用いられ、それをイエスのところに持っていく、という意味に軟化されています。「捕らえる」の意味が喜ばしい用法に変わるのです。これも、イエスのみわざです。