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2023/9/24 ヨハネの福音書11章1-16節「あなたが愛している者が」

ヨハネの福音書には7つの「しるし(証拠としての奇蹟)」が出てきます。水を葡萄酒にし[i]、パンと魚の弁当で大勢を満腹させ[ii]、荒れる湖を歩き[iii]、三人の癒しがありました[iv]。それらに続き7番目、最後のしるしがこの11章のラザロの復活です。今日からこの11章を読みます。7つのしるしの最後のこの出来事を、ヨハネは非常に丁寧に語ります[v]。書き出しはこうです。

 1さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

このマリアの香油注ぎのことは次の12章に出てきますが、ここで既に、さも読者たちが知っているかのような書き方です。マルコの福音書14章や[vi]、マタイの26章に書かれる出来事[vii]です。ある女性がイエスの足に高価な香油を注いで髪の毛でそれを拭った。それを見て弟子たちは「何と勿体ない!」と窘(たしな)めましたが、イエスは弟子たちを窘め言いました。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」。本当にその通り、それから半世紀以上経って、ヨハネの福音書が書かれた1世紀末、これを聞く異邦人教会には彼女の香油注ぎが語られていたのです。「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった」と言えば分かるほど、これは親しまれる逸話となっていたようなのです。

その兄弟のラザロが病んでいた、と紹介して、マリアとマルタはイエスに使いを送るのです。

 3…「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

ラザロが、と言わず、あなたが愛しておられる者が…。素朴すぎて大胆極まる言い回しです。

こんな言い回しをしたのは、流石あの香油注ぎをしたマリアとマルタだ、などとは思わなくて良いのです。マリアの香油注ぎや髪の毛で拭った行為は、当時は愚かとしか思われず、それがマリアだったとさえヨハネが明かすまでは伏せられていたのです。ラザロにしても、このよみがえりで有名になり、知る人ぞ知るラザロですが、それ以外には彼がどんな人で何をしていたのか分かりません。ベタニア村の三人きょうだいという以外取り立てて特徴もないし、マタイとマルコはこの家を「ツァラアトに冒された人シモンの家」と呼びますから、学者によっては彼らが実の血縁きょうだいでさえなく、福祉的な共同生活だったのではという人もいるぐらいです。ラザロという名前以外知られない、行いや人徳で特筆すべきこともない、そのラザロが病気にかかっている時、姉妹たちは「あなたが愛しておられる者が病気です」と言いました。そのように言える関係をイエスからいただいていました。イエスはこの言葉にこう応えます。

 4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

これは9章最初で、イエスが先天性の視覚障碍者の方について、この人や両親が罪を犯したせいではなく、この人に神のわざが現れるため、と言った言葉を思い出させます。この後も、37節に「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」という呟きが聞かれます。病気や死は、神がその人を愛しているなら避けられるはず、とでも言うような人間の考えに対する挑戦と勝利が、この11章、イエスがラザロを復活させた、最後の「しるし」なのです。無名だったラザロの病気と死を、死で終わらせず、そこに神の栄光を現してくださったイエスは、私たちが病気になり、死ぬ時も、それを終わりでなく、神の栄光のためとしてくださる。だから私たちも、自分や自分の家族のことを「あなたが愛している者が病気です」と言ってよいのです。

この「愛しておられる」は神の愛を表す愛(アガペー)とは違う、友情、友愛を指す愛(フィリア)から来た動詞です[viii]。ヨハネはこの二つを大差なく使っていますし、5節でもこう言い換えます。

 5イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛(アガペー)しておられた。[ix]

この愛は、愛する側からの、無条件の一方的な愛であって、決してマルタやマリアやラザロが敬虔で他の弟子よりイエスが分かっていて、後に香油を注ぐから、というような愛ではないのです。続く6節の「しかし」は「こういうわけで」と訳すのが素直な訳で、イエスは彼らを愛しておられたから「…ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」なのです。その理由は諸説考えられますが、ハッキリとは分かりません。けれど、それは愛していなかったからではない。むしろ、愛しているから、人間の要請では動かず、ご自身の考えで行動する、それまでは待つ、というイエスのタイミングをここでも教えられます。

そして、二日後、7節で「もう一度ユダヤに行こう」と言われます。因みに、17節でベタニアに着いた時、ラザロは既に葬られて4日経っていますから、2日早くすぐに旅立っていたとしても、間に合わなかったのです。また、8節で弟子たちが、ユダヤ行きは危険だと反対しますが、2日前だったらもっと猛反対したでしょう。しかしこれがイエスのタイミングでした。ラザロたちを愛するイエスは、マリアに言われたから行くでもなく、ユダヤ人の石打ちが怖いからやめておくでもなく、マリアやラザロ、そして弟子たちにとっての最善が何か、それを昼間の太陽のように光として、歩んで行く方でした。闇に導かれるなら躓くだけです[x]

11イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」

この「友」は3節の「愛(友愛(フィリア))」から来た言葉です[xi]。友(フィロス)とイエスはラザロを呼びます。後には弟子たちに、「あなたがたはわたしの友です」と言います[xii]。そして教会にはお互いを友と呼ぶ、という習慣にも続いたのです。それは「あなたが愛しておられる者」という響きがギュッと詰まっています。もう一つ、ここでイエスはラザロが眠ったと言います。弟子たちは睡眠の意味だと誤解しますが、14節でハッキリ言う通り「ラザロは死にました」の意でした。この最初は誤解された言い方が広まり、新約聖書では信者の死は、死んだというより、眠ったと言われるほうが圧倒的です[xiii]。日本の教会がいつからか死を「召天」と呼ぶようになったことには異論もあるのですが[xiv]、死は天(天国)というより、やがて主に名を呼ばれて目覚める時までの眠りなのです。東方正教会では死を永眠と呼びます[xv]。それは「永遠の眠り」ではなく「永い眠り」です。やがてイエスによって目覚めるまでの「永い眠り」に他なりません。

ラザロの他にイエスが死者を復活させたのは二人だけです[xvi]。イエスの時代から半世紀以上して、ヨハネ福音書が初めて朗読された当時、聞く人々はあの香油注ぎは伝え聞いていても、癒しや奇蹟は知らず、病や死別の悲しみを経験している群れでした[xvii]。私たちも同じです。今日の書き出しの「ある人が病気にかかっていた」を聞いて、心が疼(うず)かなかったでしょうか。病気や死別に、神の愛やイエスに愛されていることを疑いたくならないでしょうか。もっと自分に何かがあれば、という囁きが心に過(よぎ)らないでしょうか。だからこそ、この章があるのです。

無名のラザロの病気も死も、愛されていない証拠、生きる価値がないからではなかった。イエスは彼らを愛し、友と呼ばれました。私たちも、病気でも何があっても主に愛されていると信じ、死をも眠りと呼べるのです。でもそこには、イエスご自身が、十字架の死に至る歩みを引き受けた計り知れない犠牲がありました。この後11章でイエスは死の現場で、憤り、心騒がせ、涙を流されます。そういうイエスの生きた愛を通して、私たちは自分の病気や絶望、無力さや悲しみの中で、主を信じるようにさせられていく。「あなたが愛しておられる者が」とどんな時も言える。この力強い幸いのため、イエスは喜んでご自分を捧げてくださったのです。

「よみがえりでありいのちであるキリストの父なる神。いのちを脅かす病気や死に際して、心が暗くなり、絶望しそうになる時、そこでこそ主がともにいてくださる。その恵みを知らされて今日を迎えています。今この礼拝やこの後の捧げものも、マリアの香油注ぎと同じく、主の計り知れない贖いを知ったからこその、私たちの捧げものです。どうぞ私たちの小さな手の業、病や苦しみ、そしてやがて永い眠りにつく時まで、すべてを神の栄光のためとしてください」

[i] ヨハネの福音書2章1~11節。

[ii] ヨハネの福音書6章1~15節。

[iii] ヨハネの福音書6章16~21節。

[iv] ヨハネの福音書4章43~54節、ヨハネの福音書5章1節以下、ヨハネの福音書9章1節以下。

[v] 「ラザロよ、出て来なさい。歩きなさい。恐れてはならない。自分の思い描いた計画のすべてを欲してはならない。あるがままにまかせなさい。新しいものが育つにまかせなさい。それが信仰の歩みです。乳児が主と共に歩むことです。慣れ親しんだ場所から離れ続けることです。「父を離れない、母を離れなさい、兄弟を離れなさい、姉妹を離れなさい。わたしについてきなさい。わたしは愛の主です」。愛のあるところでは、恐れは消え去ります。「完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)。あなたは出て行くことができます。そして生きるでしょう。永遠に生きるでしょう。イスは命の主なのですから。それこそが悦びです。あなたの抱く恐れから、いつものことし、一歩踏み出すごとに、その悦びにあずかることができます。大きな飛躍は必要ありせん。小さな一歩ずつでいいのです。」「重層的な物語 ラザロの復活のいきさつは、新約の中で最も複雑な話の一つです。多くの意味が重層的語られています。今朝、どの段階で感動しているのか気づかないまま、この箇所につい話している自分に気づきました。 まず初めに、イエスに対する死の脅しと、ラザロを生き返らせる呼びかけの対比が見らます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」とイエスが弟子たちに言われたとき、トマスは仲間の弟子たちに言いました。「私たちも帰って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ1・14~16)。ラザロのもとに行くとはユダヤに行くことであり、そこは敵がイエスを殺そうとしている場所でした。しかし同時に、ラザ口のもとに行くことは、命がある場所に行くことです。ラザロの復活は、死と命が互いに触れ合う出来事になるからです。ラザロが命に呼び戻されたとき、指導者たちはイエスを殺そうと決意しました(ヨハネ1・53)。これらのすべては、イエスが自らの死と復活を前に、友人や弟子たちを備えさせた手段と見ることもできます。ラザロを生き返らせることによって、やがてイエスは復活し(ヨハネ1・253)、間もなく起こるイエスの死が、最後でないことを示したのです。 第二に、そこには愛の物語があります。ラザロはイエスの最も親しい友人の一人でした。そしてラザロの姉妹に対するイエスの憐れみも、ラザロへの愛と同様に深いものであり、それによっても心動かされてラザロを命へと呼び戻したのです。イエスが人を生へと引き戻したときはナインのやもめの息子、ヤイロの娘でさえ―いつもそこに計り知れぬ愛と憐れみを見て取ることができます。この愛と憐れみこそ、新しい命の源です。 第三は、イエスが初めてラザロの病気について耳にしたとき発した言葉があります。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(ヨハネ1・4)。他の多くの場合と同じように、イエスは悲劇的な出来事を神の栄光の現れる機会と見ます。 これらの三つのレベルは、どうつながるでしょうか。この問いへの最も良い回答は、イエスの死と復活に注目することでしょう。そこでは、決定的な死の力の敗北を見ることができます。そこでは、イエスを親しく知る人々との愛という文脈の中で、死の克服がなされています。そこでは、人類史上最悪の悲劇が、世界を救う特別な出来事になったことを見ることができます。(ヘンリ・ナウエン『ナウエンと読む福音書』、101~102ページ)

[vi] マルコ14章3~9節:さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。6すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。7貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。8彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。9まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

[vii] マタイ26章6~13節:さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、7ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。9この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」10イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。12この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。13まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

[viii] 愛するフィレオー ヨハネに13回:5章20節(それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。)、11章3節(姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」)、36節(ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」)、12章25節(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、15章19節(もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。)、16章27節(父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。)、20章2節(それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」)、21章15~17節(彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。)

[ix] 愛するアガパオー(動詞) ヨハネに37回(27節):3章16節(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)、19節(そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。)、3章35節(父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。)、8章42節(イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。)、10章17節(わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 )、11章5節(イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。)、12章43節(彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。)、13章1節(さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。)、23節(弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。)、34節(わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。)、14章15節(もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。)、21節(わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」)、23~24節(イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。)、28節(『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。)、31節(それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。)、15章9節(父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。)、12節(わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。)、17節(あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。)、17章23~24節わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。24父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。)、26節(わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」)、19章26節(イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。)、21章7節(それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。)、15~16節(彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」)、20節(ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。)
愛アガペー(名詞) 5章42節(しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。)、13章35節(互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」)、15章9~10節(父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。)、13節(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、17章26節(わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」)

[x] 9~10節:イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。

[xi] 愛する者、友(フィロス)ヨハネに6回:3章29節(花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。)、11章11節(イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」)、15章13~15節(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。15わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。)、19章12節(ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」)

[xii] 上述、15章13~15節。

[xiii] 眠り:マタイの福音書27章52節(墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。)、使徒の働き7章60節(そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。)、コリント人への手紙第一15章6節(その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。)、18節(そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。)、20節(しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。)、51節(聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。)、テサロニケ人への手紙第一4章13~15節(眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。15私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。)、5章6節(ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。)、ペテロの手紙第二3章4節(こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」)

[xiv] 「召天」という語がふさわしくない、という論もあります。https://web.archive.org/web/20131029184334/http://www.geocities.jp/hayama_church/mikotobas/08301229.html  https://web.archive.org/web/20131208145031/https://sites.google.com/site/securitan/nemu

[xv] https://web.archive.org/web/20040514222753/http://www.geocities.jp/fnagaya2002/Hp/Trans2.htm

[xvi] ナインのやもめの息子(ルカの福音書7章11~17節)と、会堂司の娘(マタイの福音書9章18~26節、マルコ5章21~43節、ルカの福音書8章40~56節)のみ。

[xvii] ヨハネの共同体は、他の初期キリスト教共同体と同様(Ⅰテサロニケ4:13参照)、今日のキリスト教徒共同体と同様に、人間の理解のレベルでは神の愛の確信と矛盾するように思われる早すぎる死や苦しみを間違いなく経験しました。 (11:21参照)。イエスが確かに気遣ってくださったこと、神が苦しみの中に長期にわたる目的を持っておられたこと、さらにはイエスが遺族とともに泣き、最終的には生と死を支配する力を持っておられたことさえ確信することは、人類普遍の死の苦境に直面している信者にとって非常に意味のあることだろう。迫害に関連しているかどうかに関係なく(ヨハネ第一 3:16; 2:10、13 参照)。Keener、DeepLで翻訳。