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2023/6/25 ヨハネの福音書8章31-38節「真理はあなたがたを自由にします」

32あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

この言葉は国会図書館にも刻まれているそうで、ヨハネの福音書からとは知られずに、世間で良く知られている聖句の一つでもあるでしょう。それは聖書から離れ、独り歩きした使い方だとしても、この言葉が広がっているのは、「自由」という言葉の響きに、人が惹かれるから、自由に憧れるからです。そして、イエスご自身が私たちの自由を願う方です。イエスは、

31ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。32あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ご自分を信じた人への招きです。「信じる」から「わたしのことばに留まる」へ招くのです。イエスの言葉に留まる弟子の特徴は、「真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と言われる、自由さです。本当の弟子とは、キリストの言葉によって自由にされている人なのです。

しかし、この言葉を言われた人々は、喜んで聞いたかと言えば、そうではありませんでした。

33彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

「真理はあなたがたを自由にする」だなんて、今は奴隷であるみたいじゃないか、心外だ、というわけです。アブラハムは、創世記12章に出てくる聖書の民の先祖です。神が選ばれたアブラハムから、聖書の歴史は始まっています。そのアブラハムの子孫はやがてエジプトで奴隷とされました。四百年、奴隷とされていました。ですから、本当に「誰の奴隷になったこともありません」とは言えない。しかし、神は彼らを奴隷生活から救い出して、自由の民としてくださいました。その意味では「自分たちは奴隷ではない」と言えます[i]。けれども、

34イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。35奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。…」

二つの関係を対比させます。奴隷関係か、息子・子の関係か。奴隷は「しもべ」とも訳せて、必ずしも強制労働や鞭打ち、非人道的に扱われるとは限りません[ii]。しかし「子」と違い、ずっと家にいる保証はなく、奉公期間が過ぎるか、役目が不要になればその家を去る関係です。子どもはそれと違っていつまでも家にいます。子どもらしい仕事が出来るか、何か失格な行動をすれば追い出される…そんな関係ではありません。それがしもべと違う、息子(娘)の関係です。そして、神の子であるイエスは、「真理があなたがたを自由にする」を言い換えて、

36ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。

子すなわちイエスこそ真理であり[iii]、イエスが私たちを子としてくださることが真理です。自分が頑張るから、みことばを実践するから神の子にしてもらえる――ではないのだ、もう子どもなのだという真理を知る。この真理に留まって、私たちは本当に自由にされるのです。[iv]

自由というテーマは壮大です。また誤解も招きやすいことです。あまり「自由々々」と言うのも危険だし、その制限を言えば結局不自由だとなるし、小難しくなってしまう。だから、ここで言われている自由の原点に留まりたい。それは神の子どもとされた自由、イエスが私たちに与えてくださった神の子どもとしての自由です[v]。それこそ福音であるとパウロも言います。

ローマ人への手紙8章15節あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

31節も

「わたしのことばにとどまるなら、本当に弟子です

と言われていて「弟子になります」ではありません。イエスの言葉を行えば弟子になれる、行えなければ弟子でなくなる、という関係ならば奴隷関係です。イエスを信じた時、既に誰でもイエスの弟子なのです。だからこそ、イエスの言葉に留まる時、既に弟子である者が本当に弟子ですという、弟子の本領を十分に発揮するようになる。この言葉こそ真理、私たちを解放する言葉なのです。しかし、

37わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。38わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」

イエスを信じていても、イエスの言葉、父である神の愛をその近くで見ていた方の言葉が入っておらず、その神ならざるものの声の方に聞いていて、そこに生きている。それは愛なる神の真理の声ではなくて、奴隷の関係の声です。子を愛する父の声ではなく、奴隷への指示で従わなければならない、不安を秘めています。そういう条件付きの関係が真理だと思っていると、そこで考える自由は、愛や安心や称賛を得るためとか、窮屈に我慢をしていた自分の反動とか、ガス抜きとかのための「自由」でしょう。自分の価値を証明するため、あるいは自分の価値を証明することに疲れての反動から何かをすることが「自由」になってしまう。でも、何かを自由に出来れば、あるいは自由を我慢して正しく生きれば、自分の価値を持てるのではない。

この人々は自分たちがアブラハムの子孫だと言います。でも自分に、考えていたのとは違う血が混じっていたらどうでしょう。「もう一人の息子」というイスラエル映画があります。ユダヤ人であることを誇っていた青年が、実は生まれた時に産院で取り違えられたパレスチナ人でユダヤ人ではなかったと分かる筋書きです。本人も周囲は大変困惑してしまうのです。人の血には、奴隷や罪の血が流れていることもある。自分があれが出来るとか、当たり前だと頼みにしていたものが崩れることがあります。願ったことを自由に出来ないと自分には力も価値もないように思いそうになります。その時こそ、私たちはイエスにあって、何かがあるなしに関わらず、既に神の家に迎えられた。それをただ信仰によって受け取った。その私たちの自由は、決して奪われません。そう生きることが出来るのです。その時、私たちは痛々しい自由とは全く違う、本当に伸びやかで喜ばしい自由に生きるものとされるのです。

ヨハネの福音書で「自由」はこの部分にしか出てきません[vi]。しかし、自由はヨハネが繰り返している「いのち」の、大切な一面です[vii]。キリスト者は、イエスに出会った者の自由ないのちを、伸び伸びと現す者です。イエスのみわざは私たちの自由のためでした。[viii]

ガラテヤ書5章1節:キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい[ix]

教会も私たちも自由を伝えているでしょうか。外に映るキリスト者のイメージに浮かぶのは「自由」でしょうか。それは、何よりも私たち自身がまず、本当に子とされた自由を喜んでいるか、伝えようとする福音に自由を忘れていないか、を思わせてくれる問いです[x]。聖書は、神の民が、奴隷になっては解放されて、の繰り返しの歴史を語って今す。そして、確かに神は私たちを解放してくださる神、自由を与えてくださるお方です。

神の子イエスは最も自由なお方です。その自由なイエスは栄光や力を捨てて、人となりました。最後は十字架という最も不自由な状態と、誤解と嘲笑と死への道を歩まれました。それはイエスが、自由だからこそ選ばれた道でした[xi]。本当に自由にされる時、その人の自由さは人をも自由にします[xii]。人を踏みつけて自由を主張することもしませんし、強いられて犠牲になることもなく、自らを喜んで捧げます。自分も自由であり、人の自由を尊重して、それを願うほどに自由になります。それがイエスの示した自由な道です。私たちの自由は、他の人にも自由を、いのちをもたらすのです。

「私たちを愛したもう天の父、あなたの言葉により、私たちを自由としてください。あなたの下さる自由を損ない、自分や人を縛っている基準を、みことばによって癒してください。神の子どもとしての自由さの中で、喜び踊らせてください。偽りの、苦々しい自由から目を覚まさせてください。不自由に思える中でも、神の息子・娘とされた幸いを喜び歌わせてください。そして、周りの人々の自由を喜び、その助けとなるような、自由な私たちとしてください。」

[i] その時に与えられた十戒は「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」という序言で始まるのです。出エジプト記20章参照。

[ii] 「奴隷」ドゥーロス、ヨハネに11回。しもべ(4章51節、13章16節(まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。)、15章15節(わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。)、20節(しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。)、18章10節(シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。)、18節(しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。)、26節(大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」)。18章36節(イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」)はドゥーロスではなく、ヒュペレートス(下役)。)

[iii] ヨハネの福音書14章6節:イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

[iv] ヨハネの福音書で最も有名な言葉は3章16節の「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。」でしょう。これが真理なのです。

[v] ヘンリ・J・M・ナウエンの黙想「真の自由とは、神の子としての自由です。この自由に達するには、一生涯の修行を要します。というのも、私たちを取り巻く実にたくさんのものが、その自由に至るのを妨げようとするからです。政治的、経済的、社会的権力、宗教的な権力までもが、命ずるままになって、その見返りに頼るようにと、私たちを縛りつけておこうとしています。 しかし、私たちはこの世のものではなく、神のものであるという霊的な真理が自由へと導いてくれます。私たちは神の愛し子です。言葉と行いによってその心理へといつも戻るような生き方をすることで、私たちは少しずつ真の自由へと成長することでしょう。(4月17日) 霊的に自由であるなら、予期しないような困難な状況にあっても何を言い何をしようかと心配する必要はありません。人々が私たちをどのように見、また私たちのすることがどんな利益をもたらすことになるのかを気にしないなら、言うべきこと、なすべきことは私たちの心の中心からわき起こってきます。なぜなら、私たちを神の子とし、自由にしてくださる神の霊が、私たちを通して語り行動されるからです。イエスは言われました。「引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。その時には、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ10・19-20)。 私たちの内におられる神の霊をいつも信じましょう。そうすれば、私たちを裁いたり値踏みする人々に絶えず私たちを引き渡す世界にあって、自由に生きることが出来ます。(4月18日) 内面的に自由であるなら、あなたは人々を自由へと招いています。あなたがそれを知っていようといまいと、自由はどこに出現しようと、人々をひきつけます。男であれ女であれ、自由な人というものは、人々が安全と感じて住みたいと思うような場所を作ります。私たちの住むこの世界には、「ああしなさい、こうしなさい……しないとこうなりますよ、……する人には……する義務があります」といったことが溢れていて、私たちは一体何が求められているのかととまどいを覚えます。しかし、本当に自由な人に会う時、そこには何かを期待されることなくただ、自分に戻り、そこで本当の自由を見つけようという招きがあるだけです。 真の内なる自由があるところに、神がおられます。神がおられるところ、そこに私たちもいたいものです。(4月19日) イエスは真に自由でした。イエスの自由は、ご自分が神の愛する子であるという霊的な自覚に根ざしていました。生まれる前からご自分が神のものであり、神の愛を宣べ伝えるために世に遣わされ、使命を果たすと神のもとへ戻って行くことを、存在の深みで知っておられました。そのためにイエスは世にへつらうような語り方をしたり、振る舞ったりしないでよい自由を持っておられました。そしてまた、人々の苦しみに神の癒しの愛をもって応える力がありました。 そういうわけで、福音書は次のように語っています。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである」(ルカ6・19)(5月20日)」『今日のパン、明日の糧』(聖公会出版)、129~130頁、184頁。

[vi] 「自由」エリューセロス(名詞)は、ヨハネでは8章33節、36節(マタイ17章26節、ローマ6章20節、7章3節、Ⅰコリント7章21、22節、39節、9章1節、19節、12章13節、ガラテヤ3章28節、4章22-23節、26節、30-31節、エペソ6章8節、コロサイ3章11節、Ⅰペテロ2章16節、黙示録6章15節、13章16節、19章18節)のみ。動詞「自由にする」エリューセロオーは、32節、36節のみ。

[vii] 律法は、「誘拐」を、「殺人」と同じ重罪と見なします。たとえ生物的な命を奪ってはいなくても、自由や生活の全体を奪うならば、それはその人の、人としてのいのち、全人的な生を奪う行為だからです。『聖書の正義』参照。

[viii] また、ガラテヤ書5章13節(兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。)。その他、ローマ人への手紙6章20節(あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。)、8章21節(被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。)、コリント人への手紙第二3章17節(主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。)、ペテロの手紙第一2章16節(自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。)、ヤコブの手紙1章25節(しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。)、2章12節(自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。)

[ix] また、ローマ6章12-14節「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。13また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。14罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。」

[x] 神の恵みという真理に聴かなければ、キリストの弟子であっても、奴隷の言葉を真理と思い違えます。「もっとちゃんと」とか「クリスチャンらしく」という言葉で縛って自由を二の次にしたり、逆に「みんなのように」とか、イエスをさえ殺そうとしたプライドや怒りのままに振舞ったりすることが自由だとしかねません。子が自由だと言われていますが、現実には家庭こそ束縛になって、家を飛び出すことが自由だと思われることも多いのです。「それは自由ではない」と説教しても逆効果で、ますます型にはめようとするだけです。

[xi] ティム・ケラー「イエスは「権力を握ることによってではなく、犠牲として奉仕することによって罪に勝利しました。彼はすべてを失って「勝った」のです。これは、権力、知名度、富、地位を重視する世界の考え方の完全な逆転です。「したがって、福音は、人間としての全く別の生き方を生きる人々による、新しい種類の奉仕者コミュニティを生み出します。」『センターチャーチ』より。WEB記事にて紹介。https://www.christianitytoday.com/ct/2023/may-web-only/carl-lentz-scandal-hillsong-tim-keller-two-nyc-pastors.html?fbclid=IwAR0q9x_atimoeGpMOGaHVmGWtu073ds6Vv6QbG44zoaBGtN_dAHmnyrpczo

[xii] 「自由には2種類あると、私は思っています。ひとつは、ネガティブ・フリーダム。もうひとつは、ポジティブ・フリーダム。「ネガティブ・フリーダム」とは、既存のルールや常識、これまでとらわれていたことから解放され、自由になること。「個人として何かから自由になること」と言ってもいいでしょう。ネガティブといっても否定的な意味ではありません。いわば消極的な自由であり、これが自由への第一歩です。そして「ポジティブ・フリーダム」とは、自分だけでなく他の人も解放し、自由にしてあげること。みんなが自由になるにはどうすればいいのか、具体的なToDoを考えること。自分の可能性を力に変え、その力を誰かのために役立てることです。「本当に自由な人って、どんな人ですか?」と聞かれたら、私は「ポジティブ・フリーダムを体現している人」と答えます。自分が変えたいと思っていることを、変えられる人。自分が起こしたいと思っている変化を起こせる人。それこそ、自由な人です。」オードリー・タン『オードリー譚 自由への手紙』(講談社、2020年)、2-3頁。