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2023/6/18 ヨハネの福音書8章21-30節「わたしがあるであることを」

ヨハネの福音書の7章8章という大きなまとまりをご一緒に読み続けています。十字架にかけられる半年前、危険だったけれども、まだ捕らえられることはなかった。それは、イエスの時がまだ来ていなかったから、とも繰り返すこの二つの章です。ここで、イエスは

21…再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

最後の「…来ることが出来ません」は7章34節にもあった言葉です。ここでは「自分の罪の中で死にます」という、聖書の他にはない言い方がぶつけられます。それも3回もです。

23…イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来たものですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。24それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるのです。」

3回もこの初めて聴く言い方を繰り返します。でも絶望ではありません。最後23節で「わたしが『わたしである』であることを信じなければ」という条件があるのです。

自分の罪の中で死ぬというとどんな絵を思い浮かべるでしょうか。重ねてきた数々の悪行の中で溺れるとか、圧し潰されるイメージかもしれません。この当時のユダヤ社会は、律法を基準に、罪を厳しく取り締ろうとしていました[i]。その人々に「あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と言うのです。ここでの「罪」は単数形です。一つの「罪」です。数々の悪行はない、法を犯さず、義務を果たしているとしても、一つのあの罪の中で死ぬ、と言われます。その「(一つの)罪」の解決は、イエスが「わたしはある、であることを信じる」ことです[ii]

イエスが「わたしはある、である」とはどういう意味なのでしょう。この言葉を聞いた彼らも25節で「あなたは誰なのですか。」と聞き、イエスは「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。」と答えます[iii]。そして、28節にも「わたしが『わたしはある』であること」と言われて、8章最後の58節にも「『わたしはある』なのです」とあり、この部分は、イエスが誰かを「わたしはあるである」という言葉で浮かび上がらせるのです。

新改訳2017は24節の欄外でわざわざ、原語のギリシア語「エゴー・エイミー」を紹介し「出エジプト3章14節の「わたしは「わたしはある」という者である」という神の自己顕現の表現に由来」と説明します[iv]。神は「わたしはある」(または「わたしはいる」[v])と名乗る方です。更に、ギリシア語訳の旧約聖書でこの言い回しは、ハッキリとイザヤ書に見られます。

イザヤ書43章25節わたし、このわたしは(エゴー・エイミー)、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。46章4節あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする[ギリシア語訳では「わたしは彼だ(エゴー・エイミー)」]。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。[vi]

このように、主が「わたしがそれだ」と力強く語る箇所は、ただ神がある・不動な存在だというよりも、私たちの背きの罪を拭い去り、私たちが年老いて歩けなくなっても背負って運び、何としてでも救い出してくださること――私たちに決定的に関わってくださる方であること――この方のゆえに世界はあり、私たちは生きてきて、これからにも希望を持たせる神であるという、私たちにとってこの上なく重要な関わりの語りなのです。その言葉でイエスはヨハネの福音書で7回[vii]、ご自分を名乗られるのです。「わたしは「わたしはある」である」とは、神が「わたしはある」と言われた言葉に遡る、イエスの神としての大胆な自己宣言です。そして、その神は豊かないのちの神、御父と御子との信頼と一致の神、喜びの神です。

28…「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。29わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」[viii]

この「わたしがある」(わたしがいる)なる方イエスが、罪の中で死ぬばかりの人間のため、上から、この世ならざるところから来てくださいました。宗教改革の神学者ジャン・カルヴァンは

「神を知ることと自分を知ることは切り離せない、表裏一体のことである」

と言います[ix]。神を知って初めて、その神の前にある自分だと見えてくるのです。しかしこの言葉を聞いても、

22そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」

「あなたがたが死ぬ」と言われたのに彼らはイエスのことを「まさか自殺でもするつもりか」とまぜっ返します[x]。自殺は、ユダヤ社会では忌まわしい罪で、神の前に非常に大きな悪とされました[xi]。自分たちが行けない場所と言えば、自殺者が追いやられる場所か、と嘲る。彼らにとって死は他人事です。聖書を持っている自分たちは安全だと思っています。しかし、聖書は人間が、神よりも自分たちを中心において以来、世界が安全な場所ではなくなっていることを語ります。道徳的な悪や罪は勿論、そうでなくても死や病気や暴力が降りかかります。豊かな暮らしをしていても心に不安が忍び込んでしまいます。自殺ということさえ、自分たちには無縁の罪だと片付けられない現実なのです。自殺を罪と一蹴したユダヤ人たちは、その後のローマとの戦争で、神の都であるエルサレムにいれば大丈夫だと信じ込み、それもかなわなくなった最後、要塞マサダに千人近くが閉じ籠もり、ローマに捕虜になるより自害すべきと、強引な集団自決をしました[xii]。自死を強いた指導者は矛盾ですし、自死を強いられた人、自死しか選択の余地がないと思う人がいることを考えたら、「まさか自殺」などとは言えないはずです。

宗教改革者のマルチン・ルターは言いました。

「私たちは「生の只中で死にそうだ」というが、実は私たちは死の只中で生かされているのだ。」

自分は生きているのが当たり前で、死や災いを思いがけない不公平のように考える。けれど実は、神から離れて死や滅び、誘惑や破綻、絶望や矛盾の中で、生きている方が不思議、生かされているに他ならない。何よりいのちは、この壊れた世界をなおあらしめている神、「わたしはあるである」神からの贈り物なのです。

人々は死を他人事と考えて、「まさか自殺するつもりではないだろう」と言いましたが、イエスは10章18節で言います。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」確かにイエスは、自分からいのちを捨ててくださいました。人がまさかと思うような死をもって、私たちにいのちを下さったのです。

人は(私たちも含めて)神から離れた罪は共通しているのに、団栗の背比べをしがちです。感謝もなく、いのちを権利のように思い、死や自死するほどの苦しみを他人事とします。イエスはその私たちの死を、他人事とはせず、イエスは自ら死なれました。この、世界の外からの、「わたしはある」であるイエスのいのちに私たちは生かされています。私の拠り所や希望は私の中ではなく、私の外にある。だから、自分の罪や世界の矛盾、不条理な暴力や自死ほどの悲しみに、この世界の機能不全を感じつつ、自分は安全だとか、不幸を他人事としない。死を選ぶほどの辛い現実さえあることを受け止めて、世界の外からの救いを告白するのです。イエスが下さる信仰の関係に立って、生きてゆけるのです[xiii]。そういえる不思議を与えられています。

「あなたが来てくださり、いのちを捨ててくださったので私たちは今ここに生かされています。生きることが当たり前で、生きることの脆さ、辛さを忘れ、喜びや尊さにも鈍感な私たちが、ただ主よ、あなたの計り知れない情熱によって、生かされています。生涯「一つの罪」と無縁ではないにしても、その罪にまさる、唯一の主イエスのものとされた恵みに生かしてください。一日一日を、そして、死を覚える日にも、その日にこそ、主よ、私たちとともにいてください」

[i] 確かに、罪を犯したことがないと言い切れる人は誰もいませんでしたが(ヨハネの福音書8章7、9節、参照。)、それでも他の民族や不真面目な民衆よりは罪は少ないと思える人々でした。

[ii] もっと言えば、「わたしはある、である」方イエスを信じていない、イエスとの関係性に生きないことが罪であり死なのです。罪とは、神から離れた状態そのもの――「わたしがある」と言われ、私たちをあらしめてくださっている神の上からの恵みは、要らないか、オマケみたいなもので、自分がある心――犯罪や不道徳があるなしとは別の、造り主なる神との関係が壊れた状態です。神を熱心に礼拝して規律を守っているこのユダヤ人たちも(私たちキリスト者も)、行動で信心深い陰に、心の根本的な所では、神との関係が壊れている――神を神とするよりも、何か自分の益とか将来とか安心のために、信仰熱心なだけ、神にも人にも冷たい思いを抱いている、という壊れ方である――そういう、根源的な「一つの罪」の中で歩んでいることを正直に認めます。年を取ればますます、それを思い知り、偏(ひとえ)に神の恵みだと思います。

[iii] 8章25節:そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。」

[iv] 出エジプト記3章14-15節:神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

[v] 聖書協会共同訳は、「神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」15重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました。』/これこそ、とこしえに私の名/これこそ、代々に私の呼び名。」とします。この訳文は、同12節の「すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」」との関連を強く意識させてくれます。

[vi] この他にも、エゴー・エイミーが出てくるのは、イザヤ書41章4節(だれが、最初から代々の人々に呼びかけてこれらをなし、これらを行ったのか。主であるわたしだ。わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ(エゴー・エイミー)。)、43章10節(あなたがたはわたしの証人、──主のことば──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者である(エゴー・エイミー)ことを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。)、25節(わたし、このわたしは(エゴー・エイミー、エゴー・エイミー)、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。)、48章12節(わたしに聞け、ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしが(エゴー)初めであり(エイミー)、また、終わりである(エイミー)。)

[vii] 「このまま」以外に、ヨハネは「エゴー・エイミー」の後に「世の光」や「よい牧者」など言葉をつけて「わたしは世の光です」「わたしは良い牧者です」「わたしはぶどうの木です」と7通りの豊かな表現で、イエスを表現します。それはいずれも、イエスと私たちの関係性を表現するものです。

[viii] この聖句について、ヘンリ・J・M・ナウエンはこのような黙想を書いています。「神の愛する者、イエスは心の清い方です。清い心とは一つのことを願うことです。イエスは、天の父のみ心を行うことだけを願われました。イエスの言動はすべて、神の従順な子としての言動でした。「わたしが話すことは、父が教えられたことである。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしはいつもこのかたのみ心に適うことを行うからである」(ヨハネ8・28-29)。イエスの心には分裂がありません。ふたごころや隠れた意図がありません。イエスにあるのは、神との完全な一致から来る内面の完全な一致です。イエスのようになるとは、心の浄さに向けて成長してゆくことです。イエスに、そして私たちにも、まことの霊的な視野を与えるのはこの心の清さです。」『今日の糧、明日のパン』193ページ。

[ix] 『キリスト教綱要』第一篇一章「神認識と自己認識は結び合った事柄である。 それらはどのように 相互に関連しているか。 1 我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵と見做さるべきものの殆ど全ては、二つの部分から成り立つ。すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することとである。ところが、この二者は多くの絆によって結び合っているので、どちらが他方に先立つか、どちらが他方を生み出すかを識別するのは容易でない。すなわち、先ず我々がその内に生きかつ動く神(使徒行伝17:28)、この神への瞑想に己が思いを真っ直ぐに向けない限り、誰一人として自分自身について考察することはできない。なぜなら、我々の力の由来する賜物のどれ一つとして己自身からのものでないことは明らかであるのみか、我々がこうして生きている生存自体が一人の神において成り立っている以外の何ものでもないからである。第二に、天から我々の上に滴り落ちるこれらの恵みを辿って行けば、ちょうど小川に沿って泉へと溯るように、我々はその恵みの源泉に導かれる。更にその上、自分自身の卑小さによって、神の内にある恵みの測りがたい豊かさが我々にはいよいよはっきり分かる。特に、初めの人間の背反によって陥ったこの悲惨な破滅は、我々の目を高く挙げざるを得なくさせ、こうして我々は、自らにないものを飢え渇きつつ請い求めるが、それのみでなく、また恐怖に目覚めて遜(へりくだ)りを学ばせられる。すなわち、人間の内にはいわば悲惨に満ちた世界が見られ、更に我々は神の装わせたもうた飾りを剥ぎ取られているので、裸の恥を曝し、極まりない汚辱の堆積物を露わにするとともに、他方、自分自身の不幸についての意識が我々一人一人を駆り立てて、神について少なくとも何らかのことを知ろうとせずにはおられなくさせる。このようにして、我々は己が無知、虚妄、窮乏、無力、そして遂に堕落と退廃の感に打ちのめされて、主においての他にまことの知恵の光、確固たる力、満ち満ちた一切の善、および義の純潔はないのだと認識するに到る。すなわち、我々は、自己の悲惨によってこそ神にある諸々の善を考えざるを得ないように迫られるのであり、また自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできないのである。自己について無自覚な状態、つまり、自分の賜物に満足し、己が悲惨について無知あるいは忘却した状態にある限りは嬉々として安んじている――、こうでない人がどこにいるだろうか。そのようなわけで、自分自身についての知覚は、各々を駆り立てて神の探求に向かわせるのみでなく、言うならば手を取って導くようにして、神を発見するように各々を引いて行くのである。」、渡辺信夫訳、改訂版第一篇(新教出版社、2007年)、38~39ページ。

[x] 7章34節でイエスが「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」と言われた時も、ユダヤ人たちは「35…まさかギリシア人のところに行くつもりではあるまい」と茶化しましたが、ここでも、同じように「まさか」と茶化すのです。

[xi] 紀元70年のユダヤ戦争で、「マサダの集団自決」がありましたが、その時は「異教徒の奴隷となるよりは、自害するほうが良い」という論理が説得に用いられました。ですから、自殺は大罪だが、異教の生活はそれ以上の大罪である、という理屈です。

[xii] より詳しい事情は、「たびこふれ 【イスラエル】ユダヤ人の集団自決はこうして起きた~悲劇の歴史を持つマサダ国立公園~」https://tabicoffret.com/article/78667/ 、Wikipedia「マサダ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80 などを参照ください。

[xiii] この罪を人間は自分で解決して、いのちを得ることは出来ません。心を入れ替えたり行いを改めたり、努力して何とか出来ることではありません。イエスを信じること、つまり、イエスによって神との壊れた関係が回復されることによらなければ、誰もが自分の罪の中で死ぬことになるのです。そして、私たちは、そのために来てくださったイエスがいる、私たちの外、この世ならぬ方イエスが、上なる神の元から来られた方が、私たちが自分の罪の中で死ぬ運命を変えてくださる。この私たちの外に希望を置くことが出来るのが、キリスト信仰なのです。