2026/10/11 イザヤ書45章14〜25節「神は自らを隠す方」
イザヤ書45章は「キュロス」の名を告げて始まりました。イザヤの時代から100年以上後、囚われていたイスラエルの民を解放するために、ペルシャの王キュロスが現れます。その予告です。神である主は、イスラエル民族だけの神ではなく、ペルシャや遠くの国々をも治めておられる神であることを現す予言でもありました。その事が今日の14節から膨らまされます。
14主はこう言われる。「エジプトの産物とクシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らはあなたの後に従い、鎖につながれてやって来る。そして、あなたにひれ伏して、あなたに祈る。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』と。」
ペルシャは北東ですが、真反対のエジプトやエチオピアの背の高い人々もやって来る。ここまでイザヤ書の中で、エジプトはなかなか厄介な存在で、大国であり王ファラオは太陽神の子どもと崇められます。イスラエルの民を振り回す国でした。そのエジプトからもやがて貢ぎ物が運ばれて来て、神はただ主だけだ、他にはいない、という。鎖に繋がれというのは、強い力と降参を現すのであって、力づくで無理矢理という意味ではないでしょう。心から喜んで平伏し「神はただあなたの所にだけおられ、他にはなく、他に神々はいない」というのです。主が、今は難しい外国であるアフリカの国々にもそんな将来を用意しておられる…[i]。ここに、
15イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神。
という告白の一節が出て来ます。ため息のような、驚きと賛美の言葉です。言い換えれば、14節のエジプトや1節のキュロスといった外国、他民族をも、主はそこに働いて、ご自分だけが神であることを現すようにさせる、という事はショッキングな言葉だったのです。思いもかけない預言なのです。主が、世界を造られた唯一の神、他にはいない、という信仰告白はありましたが、それが他の国々をどう見るかといえば、ここまではなかった。彼らの宗教は偶像だ、間違っている、とは思っても、その彼らにとっても、主は唯一の神である、と言い切る現実は、隠れて見えなかった。だから「まことにあなたはご自分を隠す神」と言わずにおれないのです。
16節の「偶像を細工する者どもはみな 恥を見、辱めを受ける。彼らはともに、辱めのうちに去る。」――この人間が偶像を造って神とする愚かしさは、41章から何度も繰り返されてきたテーマです。それがここでも繰り返されているようですが、更に発展しています。
18天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない。19わたしは隠れたところ、闇の地の場所で、語らなかった。茫漠としたところで、ヤコブの子孫に『わたしを尋ね求めよ』とは言わなかった。わたしは主。正義を語り、公正を告げる者。
神が創造されたこの世界は、実に巧みに、驚きで満ちています。宇宙の中で、人間が住むのに適した地球の環境は、奇蹟だと分かります。この世界を造り、仕上げ、そして人の住む場所として創造した主は、私たち人間の理解や想像力を超えて、働いておられます。人間が考えられる精一杯の神よりも偉大で、人間の思いを超えた正義――正しいこと、生きた正義をなさいます。そして特にここでは、外国の人、異教徒、偶像を担ぐ者にさえ及ぶことが言われます。
20節の「救えもしない神」とは実に皮肉な言葉ですが、まことの神は救うことが出来る神であり、救ってくださる神、この世界を造られた神で、将来をも告げる方ですね。その方の言葉は、ただの批判だけでなく、世界の人々に対するこの言葉になります。
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。
「わたしを仰ぎ見て救われよ。」こう、地の果てのすべての者にまで言われるのです。イザヤの言葉を聞く人々は周囲の国々に圧倒されて、その偶像に心惹かれかけていました。しかし主が世界を創造された唯一の神である以上、すべての人に主は「わたしを仰ぎ見て救われよ」と言われます。そして、主を仰ぎ見れば救われるし、彼らがそうするように、心から主の前に跪き、偽りなく主を告白するようになさることで、主は唯一の神の正義を現すのです。
23わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、24わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきり立つ者はみな、主のもとに来て恥を見る。25イスラエルの子孫はみな主によって義とされ、主を誇りとする。」
こう主は誓われるのです。最後の25節は、イスラエル民族が特別扱いされて、大きな顔をするということではありませんね。むしろ、自分たちも形ばかりの礼拝で、悔い改めが必要だったことを、すべての民が主を礼拝する様になるのを見て、悟って立ち帰るのでしょう。
23節の最後の二行は新約聖書で二回引用されます。ローマ14・11では
次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」
とあります。ピリピ人への手紙2・10では
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
とあります。既に教会の中に生まれていた、最も早い讃美歌の一つだとされます。しかし、ローマ書もピリピ書も、前後に出て来るのは教会の中の対立や分派などの問題です。ローマ教会ではユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で、食習慣の違いから裁き合いが起きていました [ii]。そこで今日のイザヤ書が引用されて、違いがあるその人のために主イエスは死んでくださって、その人が膝を主にかがめ、舌で主を告白しているのだから、互いに裁き合わないように、と言います。ピリピでは違う衝突が起きていたようですが、利己的な思いや虚栄心を捨てて謙るように勧めた上で、キリストがご自分を空しくしてくださって、十字架の死にまで従われたことと、それがすべての者が膝を屈め、すべての舌がイエスは主ですと告白するようになるためであると歌うのです[iii]。イザヤ書の、全世界に及ぶ主のご計画は、私たちが今目の前にある人を見る目、その人との間にある色々な違いを見て、正しさを振り翳して裁く目を、もっと大きな御言葉の目、主の正しさの眼差しで見させてくれます。私たちが人を上辺で見て、国や民族や習慣、違いで判断してしまっては、主は隠れていて、決して見えません。
22節の言葉は、イギリスのスポルジョン牧師の回心の言葉として有名です。この言葉の説き明かしを聞いて、彼はキリストを信じ、その後、説教や本を書いて大きな働きをしました。彼が回心したのは雄弁な説教者の言葉ではなく、冬の大雪で牧師が到着できなかったため、代わりの信徒が説き明かしたぎこちない話によってだそうです[iv]。
本当に主は、人の予想を裏切る方法でなさいます。冴えない代役や、異教徒の回心、教会の問題、まさかと思う人や出来事にご自分を隠して、人に近づかれます。イエスの御生涯はまさしく飼い葉桶に隠れて始まり、十字架の惨めな死に、誰もこれが救い主とは思わなかった現れ方でした。またイエスは「最も小さい者たちの一人」の中に隠れておられます[v]。15節の言葉は、「隠された神」という言葉となって、深く思い巡らす言葉となりました[vi]。人間が神を自分の方に引き寄せて期待する「栄光の神学」とは反対の「十字架の神学」という考え方へと展開していきました[vii]。目の前にいる人に、神はご自身を隠して、私たちとともにおられます。「神などどこにも見えないではないか」と思われる時にこそ、そこに主イエスは私たちとともにいてくださいます。そのような神こそ、私たちの救い主でいてくださいます。
「ご自分を隠したもう神。あなたが、私たちの思い描く神でないことを感謝します。私たちの目には見えない程、大きく、近く、日常にも、逆風の中でも、御心を進めておられることを信頼します。見える上部で心を閉ざす頑なさを、主を仰ぎ見て溶かしてください。恵みが見えずに苦しむ時、隠れておられるあなたの慰めで包んでください。主、あなただけが神だからです」
[i] 「地上の人々がエルサレムを崇拝し祈るという考え(上記62番参照)は、一見すると少し違和感がある。63 彼らは神を崇拝すべきではないのだろうか。しかし、ここで言及されているのは服従の行為と態度である。諸国は明らかにイスラエルを神と間違えているわけではない。むしろ、かつて貧しいイスラエルを支配していた者たちが、今や強大なイスラエルに慈悲を求めているのは、彼らの神々が無価値であることが証明され、イスラエルの神だけが唯一の神であると悟ったからである。この点に関するミューレンバーグの次の言葉は引用する価値がある。「人間の共同体の一体性が、万物の上に唯一の神が存在するという認識をもたらすのではなく、歴史における神の偉大な救済の業が、人々に対し、神だけが唯一の神であるという認識をもたらすのである。」」オズワルト
[ii] ローマ人への手紙14・7〜13:私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
次のように書かれています。
「わたしは生きている──主のことば──。
すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、
すべての舌は、神に告白する。」
ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。
こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。
[iii] ピリピ人への手紙 2・5〜18:キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、
天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。
こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
[iv] 参照、https://www.rlhymersjr.com/Online_Sermons_Japanese/2011/112711AM_SpurgeonsText.html
[v] マタイの福音書25・31〜46:人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
[vi] 「この声明が諸国民からのものであると仮定すると、私たちはそれをどのように捉えるべきでしょうか。啓示を拒絶した者たちの誤った発言でしょうか。それとも、救い主が小さく取るに足りないイスラエルから来られるという驚くべき事実についての観察でしょうか。あるいは、何らかの意味で神学的真理の表現でしょうか。私は、これら三つすべてが組み合わさったものだと考えています。ローマ1章と詩篇19:2-7(英語訳1-6)は、自然界には十分な啓示があり、神の条件に従って神を求めない私たちには言い訳の余地がないことを明らかにしています。しかしながら、自然界だけでは、人間の知性が助けなしに神を理解するには決して十分ではないことは明らかです(ローマ11:23、箴言25:2)。さらに、神がこの世の弱く愚かなものを用いてご自身を啓示することにこだわることは(コリント第一1:21、25-29参照)、少なくとも予想外のことです。 67 最後に、人間の不信仰ゆえに、神がご自身を隠される時があります。それは、私たちが失望してひざまずき、信じる意志を持つようになるまでです(イザヤ書 8:17、54:8)。ですから、私たちが従うべき正義の神の存在を示す説得力のある証拠はないと言うならば、それは明らかに間違っています。対照的に、神の道もその思いも私たちのものではないこと(54:8)、そして神が私たちとの間の溝を埋めてくださらない限り、私たちは永遠に迷い続けることを認めるならば、私たちは真実を語っているに過ぎません。このように、諸国民は、ご自身を隠される神(’el mistatter)の言い表せない超越性と、世界の救い主、イスラエルの神、救い主(lõhê yiśrā ēl môšĩa)として顕現された神の臨在について、同時に語っているのです。」、オズワルト
[vii] 「十字架は、山の上にあったのではありませんでした。谷底にあったのです。神の存在など期待できないこの場所で、私はひとりぼっちだと叫ぶこの地べたに、イエスが先に来て待っていてくれたのです。2000年前、十字架にかかって死ぬ間際に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫んだイエスは、今も昔も谷底で、両手を広げて私たちを出迎える方でした。
この谷底の十字架を見出した時、私は初めて「イエスに従おう」と素直に思えました。もしもイエスが山の上に定住する方なら、私はキリスト教信仰をとっくに捨てていたでしょう。この谷底で出会ったからこそ、私はもう一度立ち上がる力と希望を与えられたのです。
この苦難のただ中で十字架、神の恵み、神が共にいることを信仰の眼差しで見出す学びを、「十字架の神学」とルターは呼びました。一方、山の上に十字架を見出す理性の営みを「栄光の神学」と見なしました。
若き日のモルトマン(略)は、一兵として第2次世界大戦に従軍しました。激戦の中、目前で多くの友人たちを失った彼の問いは「神よ、あなたはどこにいるのですか?」でした。それは「なぜ私は生きているのか?なぜ私は隣にいた友のように死ななかったのか?」という問いでもあります。山の上にも平地にも、平和な街にも戦場にも「神」は存在しませんでした。しかも1945年ドイツの敗戦後、状況は更に悪化します。信じていた母国がおこなったナチスの犯罪を知らされ、生き残った負い目に押しつぶされ、彼はスコットランドの捕虜収容所に入れられるのです。
生きることは苦しみ以外の何物でもなかったモルトマン。ある日のことでした。従軍牧師がやってきて彼に1冊の聖書を渡します。彼は何気なく、その聖書を読み進め、先ほどのイエスの死の叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」にたどり着きます。その時でした、彼にある確信が与えられます。
この決定的な信仰体験を彼は以下のように記しています。
「……マルコ福音書を読み、受難物語に来ました。『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』という、イエスの死の時の叫びを聞いた時、私は、わきあがる確信を覚えました。『ここに、あなた〔イエス〕を完全に理解した人〔モルトマン〕がいる、あなたの神への叫びに唱和し、あなたが今、まさにその中にいるのと同じ見捨てられた孤独を感じている人がいる』と。私は、試みを受け、見捨てられたキリストを理解し始めました。」
何とモルトマンは、最も神を見出せないような場所で、聖書を通し、十字架上のイエスを見出し、イエスを理解し、イエスに共感し始めたのです。それだけではありません。逆にイエスこそが自分を「神の兄弟、道連れ、苦悩の友」として理解してくれている、との驚きの事実に目覚めます。彼は続けます。
「なぜなら、私は彼によって理解されていることを知ったからです。苦しみのただ中にある神の兄弟、あなたと共に、…この死の陰の谷を行く道連れ、あなたを、あなたの苦悩もろとも担う苦悩の友。こうして私は、再び生きる勇気を得ました。そして、『もはや苦しみのない神の広々とした空間』へとよみがえる大いなる希望が、徐々に、しかし確実に、私を捕らえたのです。また、このキリスト認識は突然不意に訪れたのではなく、私にとっていよいよ重要なものとなり、そして私は繰り返し受難物語、特にマルコ福音書の受難物語を、最も愛して読むようになったのです。……1945年のあの時、あのスコットランドの捕虜収容所で、イエスが私の魂のブラックホールを訪ねて、私を見出してくださったのだと確信しています。」
モルトマンは、谷底に沈んだような捕虜収容所で、十字架にかかったイエスと出会いました。モルトマンはイエスを「完全に理解」し、イエスもモルトマンを理解します。それは互いの苦しみが共有され、真の友情がめばえたことを意味します。彼は再生しました。新しい人生が力強くスタートしたのです。その時、彼は19歳でした。
神を信じたから全てが順調だ、とのメッセージはわかりやすいものです。信仰生活の対価として、利益が与えられることも何ら問題ないと思います。幸福や成功の中に神の栄光、信仰の素晴らしさを見出すのは、難しくないかもしれません。しかし聖書の神は「御自分を隠される神」(イザヤ書45章15節)であることを忘れてはなりません。神は、幸福や成功と対極の、「お前の神はどこにいる」(詩編42編11節)と嘲笑される世界のただ中に、ご自身を隠している場合があります。その中に神を見出す学びこそ、真の「神学」と呼ぶにふさわしいのです。」塩谷直也『視点を変えて見てみれば』(日本キリスト教団出版局、2019年)、90〜94ページ。

