2026/9/20 イザヤ書45章9〜13節「自分を形造った方に抗議する者」
「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。」
と9節にあります。10節とも続いて、人間が造り主なる神に注文やクレームをつけることを、粘土が陶器師に指図する、あるいは子どもが、生んでくれた親に
「なぜ子を生むのか」
と問うような愚かなことだと言います[i]。陶器師に造られた陶器が、陶器師を見下す。この譬えは、以前の29章16節でも出て来ました[ii]。ここと64章でも繰り返され、エレミヤ書やローマ書にも出て来る、神と人間の関係の絵イメージです。神はこの世界と私たちの造り主であり、私たちはその神に造られた、小さな小さな、小さな被造物の一つです。造り主なる無限の神と、造られた私とは全く違うものです。似ても似つかないものであることを思い出させるのが、この陶器師と陶器、いや粘土の譬えです[iii]。
しかし、今日の所が言うのは、具体的な神の言葉についての、文句です。前回、45章の1節で「キュロス」の名前が出て来ました。主が、御自身の民を救うために選んで遣わすと宣言されたのがキュロスでした。キュロスは、遠い東の国のペルシャの王です。その外国人を、囚われの身となっているご自身の民を解放するためにお用いになる、と主は言われます。それも、1節で「油注がれた者」、メシアという称号を与えて、主の民を解放させる、というのです。今日の箇所もキュロスの登場予告とは違う話ではないのです。その事は13節に分かります。
13このわたしが義をもって彼を奮い立たせ、彼の道をことごとく平らにする。彼がわたしの都を建て直し、わたしの捕囚の民を解放する。…
この「彼」とは1節のキュロスのことで、主が彼をキュロス用いて、主の民を回復するという話が続いているのです。その途中で9節10節のような言葉が出て来ます。それは、主の民の中に強くあった抵抗・不満だったのでしょう。「どうして主は外国人なんか用いるのだ?」「あなたの計画はおかしいです」「どこの馬の骨か分からない奴を使うなんて抗議します」…。そんな声が強くあったことが、ここで取り上げられています。同胞ユダヤ人でないキュロスを使うことへの不平・不満が、粘土が陶器師に抗議をするような不遜ではないか、と諭されています。
その上で、11節からの言葉は、創造主である主の言葉から、キュロスを用いることを受け止めさせようとします。
11イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう言われる。「これから起こることを、わたしに尋ねよ。わたしの子たちについて、またわたしの手のわざについて、あなたはわたしに命じるのか。12このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。
単に、外国人差別はいけないとか「主に文句を言うなんて身の程知らずだ」というのではありません。主が地を造り人間を創造したこと、広い天、月、星々まで壮大な世界としてお造りになったのです。その事と、13節の「彼」キュロスを通して再建したり捕囚の民を解放したりすることが重ねられています。主が、主の民イスラエルだけでなく、すべての人も含めた、この大きな世界をお造りになりました。だから主は、外国人のキュロスをも奮い立たせて、エルサレムの再建のため、捕囚の民の解放のために、その務めを果たさせます。そうして主は創造主である栄光を現されるのです。それは、人間の中に、主の贖いに与って、天地の創造主なる唯一の神を信じたとする人間――私たちの中にもなお残っている、強い差別や偏見、自分と違うグループの人に対する抵抗に対する挑戦です。別の言い方をすれば、神である主が造られたのに、その中で人間が争ったり敵視したり、そういう相手を主が用いようとしたら「なんてことをするんですか」と抗議せずにおれない――こういう私たちの壊れた関係を主は取り扱おうとしています。創造主なる神を信じて礼拝するだけでなく、その神が造られたすべてのものとも、主の手の業として出会い直すのです。今までの関わり方を新しくして、そこに問題や傷があるならば癒されるのです。これこそ、11節で言われている「これから起こること」、主がされようとしている大きなご計画です。私たちの壊れた関係、そこに主が触れることさえ猛反発するような破れにこそ、主は目を留めておられます。その破れをそのまま放っておくのでなく、みことばで語ったり、キュロスやエチオピアの宦官やローマの隊長や迫害者サウロや、まさかと思う人と出会わせたり、何か予想もしない体験を通されたりします。そうやって、私たちの間にあった冷たい壁、憎しみや敵意、自分と同じ人として見ない目が開かれていきます。この人も自分も、主によって造られた同じ人だ。問題も欠けもある――自分と同じように。そして、主はそれでも私を変わらずあわれんで、回復を備えておられるように、この人もそうなのだ――。主のあわれみの中で、自分も人も見るようにと、主は私たちの目を開いてくださいます。それは、陶器師が粘土をこねたり形造ったりして、土の器とするような、主の御業です。母のような、神の「産みの苦しみ」なのです。
9節の欄外にあるローマ書9・20、21
人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないでしょうか。
ここでは、神と私たちの関係を「陶器師と粘土」に準えるのはイザヤ書と同じですが、イザヤ書では「粘土や陶器に過ぎないのに、作ってくれる陶器師に自惚れるな」という面が強かったのに対して、ローマ書はもっと積極的に、神は陶器師として、私たちを自由に、ご自分の造りたい器として作り上げる、という面が押し出されています。私たちは、主の前に、被造物にすぎない分際を弁えるだけでなく、主イエスが私も、あの人もこの人も、御心のままに、形づくり、用いてくださる、積極的な関係の中にあります。
この「普通の器」という言葉は、以前の新改訳では「卑しい器」でした。「卑しい」だと汚れ仕事とか価値のない用事を連想します。自分たちは尊い器、あの人たちは卑しいこと、詰まらない役割、と言うようでした。それが「普通の器」と変わると、嫌な仕事や価値のないどころではない、大事な役割だと気づきますね。主が造られた人は誰一人「卑しい」人などない、普通を担ってくれる存在です。では「尊い」とは、もっと高価だとか特別だ、という意味なのでしょうか。ローマ書の9章でも前後に出て来るのは、主のあわれみ、忍耐、慈しみ、という言葉です[iv]。立派で尊いどころか、捨てられても仕方ないような傷があり、いびつだったり、不出来なところがあったりする、売り物にならない器です。他の人を馬鹿にしたり、笑ったり、競ったりする立派さなど持ち合わせない土の器です。しかし、だからこそ、赦されている恵みを知っています。生かされている喜びを歌えます。苦しみやつらさを想像できますし、主イエスが来てくださったのは私のためだと感謝して、他の人をも、主のあわれみの深さの中で見ることが出来ます。それこそ、普通の器とは違う、「尊い器」です。その人が尊い、すごい、ずば抜けている、というのとは逆で、主の深いあわれみ・恵みを運ぶから、尊いのです。普通な器も大事ですが、普通とは違うからこそ、普通でない時にも絶望しないで、恵みの主が普通でないことをしてくださると言い得るのです[v]。そのような意味での「尊い器」を、主は造り続けておられます。ご自分が造られたすべてのものを、その深い慈しみによって一つとする。その大きなゴールに向けて、すべてのことをなさるのです。そのために、キュロス王という王様を動かすこともできるし、そうなさったのです。主は、本当にすべての人の創造者です。
私たちは「神様、間違えたんじゃないか。まさかあの人ではないでしょう?」と言いたくなることがあります。すばらしいことに、そのようなことを主はしてくださいます。私たちが人を見る目を、主が開いてくださいますように。私の小さな思い込みで、人を決めつけることが少しずつ砕かれていくこと……それは、主イエスが私たちを土の器とするための御業なのです。
「すべてのものの造り主なる主よ。キュロス王の名前を通して、あなたは歴史を治める主権を示されました。私たちのうちにも、あなたへの抗議があります。あなたに異議を唱えるうちなる声を、あなたは聞き取っておられます。あなたのあわれみは私たちに注がれています。私たちの疑いや冷たさを、あなたの光で照らしてください。そして、闇に光をもたらす、主の器とならせて、あなたの大きなご計画に加えてください[vi]。」
[i] 9ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。10わざわいだ。自分の父に「なぜ子を生むのか」と言い、母に「なぜ産みの苦しみをするのか」と言う者。
[ii] イザヤ書29章16節:ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。
[iii] リチャード・ブラッシュは、組織神学においてこの神と人間との「無限の質的差異」から始めることを重視しています。リチャード・ブラッシュ『神を知り人間を知る』は「第1章 神は私たちと似ても似つかない」から始めます(35~70頁)。その章末ではピューリタンの祈祷書の言葉が引用されます。「永遠の神よ あなたの偉大さは比類なく、あなたの親切は言い表し難く、あなたの恵みは満ち溢れています。海辺の砂を数えきれないように、あなたの私に対する慈しみも計り知れません。私は一部を知っているに過ぎませんが、その一部についても、あなたを十分に賛美することはできないほどです。」
[iv] ローマ人への手紙9章15〜33節:神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」
ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」
ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。
すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」
人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。
それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。
このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。
「わたしは、わたしの民でない者を
わたしの民と呼び、
愛されない者を愛される者と呼ぶ。
あなたがたはわたしの民ではない、
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。
「たとえ、イスラエルの子らの数が
海の砂のようであっても、
残りの者だけが救われる。
主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、
地の上で行おうとしておられる。」
また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。
「もしも、万軍の主が、私たちに
子孫を残されなかったなら、
私たちもソドムのようになり、
ゴモラと同じようになっていたであろう。」
それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、妨げの岩を置く。
この方に信頼する者は
失望させられることがない」
と書いてあるとおりです。
[v] 「神は私たちを「神の子」として「選んだ」時点で既に、私たちを「尊いことに用いる器」として計画してくださっているのです。一方で「別のものは普通の(卑しい)ことに用いるものに」と記されますが、原文で「卑しい」または「不名誉な」と記されている言葉は、今回の新改訳のように「普通の」と訳すことができます。それは英語で common use とも訳される言葉です。 それはこの世のごく普通の働きのために、陶器師である神が創造したと理解することができます。この世的には、家柄が良く、りっぱな体格で、有能な人が、影響力のある働き、また豊かな富を得る働きに就くことができる傾向があります。
しかし、あなたの「陶器師」である神は、あなたを「神の国」の特別な働きのために、敢えてイエスのように貧しい家庭に生まれさせ、人の生きにくさを理解できるよう敢えて見劣りにする体格と知恵を与え、人の痛みが理解できるように、敢えて「傷つきやすい性格に」創造してくださったと理解できます。
神が意図される「尊い働き」とは、この地にご自身の平和(シャローム)を広げることに他なりません。そのためには、あなたが強いリーダーシップで人を引っ張って行けるような、この世的な有能な者でないことが益とされるのです。
多くの人々が求める成功志向の中では、役に立たないと見える人が、神の平和を広げるという「神のご意思」の観点からは、かけがえのない「尊い器」として創造されていると見ることができるのです。」寺村幸雄牧師、ローマ人への手紙9章19〜29節「神のあわれみの器として生かされる」立川福音自由教会2024年11月17日
[vi] アッシジのフランシスコの「平和を求める祈り」より:
「神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。」

