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2026/9/13 イザヤ書45章1〜8節「天地の造り主だからこそ」

 今日の箇所では「キュロス」という人物についての言葉です。既に、直前の44章28節にも彼の名前がありましたし、41章2節でも「一人の者を東から起こし、…」と予告されてきた人が、ここで遂に名指しされて、詳しく語られるのです[i]。「主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。

わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前を進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかなところに隠された宝をあなたに与える。…」

 神である主は、キュロス王を連れて来て、国々を打ち負かすと言われます。どんな国も武装解除され、抵抗は無駄に終わり、厳重に保管していた財宝は奪われる…。大国を悉く征服して、帝国を拡張していくのです。この言葉通り、キュロス王は、紀元前6世紀、ペルシア帝国の王キュロス2世として登場します。そして、十年ほどの間に、トルコからインドまでを占領して、バビロン帝国も陥落させました[ii]。そして、バビロンに捕囚となっていたイスラエル人を初め、占領下にあった民族も、キュロスによる解放を喜んだことが碑文に残されているそうです。

 こうしたキュロスの登場を、今日のイザヤ書は預言しています。預言は「予言」とは違いますが、ここは「予言・予告」と言えそうです。イザヤの時代は、紀元前8世紀、ペルシア帝国のキュロス2世登場は6世紀ですから、先立つ事二百年もの前からの予告でした。イザヤの言葉を直接聞いた人たちは、イザヤ自身も含めて、誰一人、この言葉の成就を見ることは叶わなかったのですし、その孫の孫の孫がやっと目にするような先の話でした。

 そこで今日の箇所も含めたイザヤ書の後半は、イザヤではなく、二百年後の人々――キュロス2世の登場を見た人が書き足したのだ、とする説も持ち上がり、広まっています。(皆さんが読んだり観たりする本や動画でも、そんな解説に出会えたら、思い出してください)。そこには「200年も未来の話が前もって分かったはずがない」という大前提があります[iii]。しかし、そうした「はず」を引っ繰り返して、主の主であることを語るのが、まさに今日の箇所です[iv]

 ここで主は「わたしは彼の右手を握り、…」から始まって、「わたしはあなたの前を進み…わたしは財宝と宝をあなたに与える」と主導権を握っています。決してただキュロスという人物がやがて現れる、という未来を予言しているのでなく、主ご自身が主権をもって、キュロスをキャスティングして立たせるのです。そして、その目的も、キュロスの野心とか有能さとか、名声のためとかではありません。主ご自身を知らせるため、また、主のご計画のためです[v]

3節後半から「わたしは主である」が5回繰り返されます[vi]。主という名前は「わたしはある、わたしはいる、わたしはなりたいものになる」などと訳せる意味があります。この主と無関係に存在するものは一つもありません。キュロス王の登場を予告する主は、その目的もまた、主の栄光を現すためだと先に仰っているのです。そして、主はそのようなことを、二百年前だろうと七百年先だろうと、言い得るお方です。それは、この方が主であるからです。

この言葉があったからこそ、その二百年後、キュロス王の登場を見て、主の大きな御手を認めないわけにはいきませんでした。二百年の間、イザヤの子孫たちは紆余曲折の年月を経ました。ユダの国は滅ぼされ、バビロンに捕囚となって連れて行かれ、何十年の時が経ちました。そこに現れたキュロス王による進軍、ペルシアによる解放の出来事を、主の御手だ――ただの偶然や無秩序ではない、歴史の悪戯でもない、キュロス王が有能で野心家だったからだけでもない。主の長い御計画が背後にあっての事として受け入れざるを得なかったのです。[vii]

1節の「油注がれた者」はメシアというヘブル語です。聖書の歴史では、祭司、王、預言者の三つの特別な職務に就かせる時、油を頭に注ぐ儀式をしました。そこから、神がやがて民を救い、治めてくださる特別なメシア(油注がれた方)を送ってくださる、という「メシア信仰」が生まれました。このメシアのギリシャ語訳がキリストです。でも、そのメシアが外国人、異教徒、聖書も唯一の神、主も知らない人物だなんて、あり得ないことでした。汚らわしいこと、自分たちの選民としてのプライドが侮辱される暴言でした。しかし、この事にこそ、主が主であること、他に神はいないこと、主が唯一の創造主、王、神であることが現されるのです。

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。

 主が世界のすべてを造り、支え、治められる方であるなら、すべての人を用いられます。神の民でないキュロス王が、神の民の解放と世界のさばきのために用いられ、メシアと呼ばれていることは、聖書の歴史の中で画期的な出来事でした。主が本当に唯一無二の主である証しとして、神の民の信仰を大きく広げました。イザヤ書後半にイスラエルの王は登場せず[viii]、ただキュロスが登場します[ix]。キュロスが告げた言葉は、歴代誌第二の最後と、エズラ記の最初に記されています[x]。そして、ユダヤ人が使っている聖書では、歴代誌が一番後ろにあります。つまり、聖書の結びの言葉がキュロスの台詞なのです。その後も、ユダヤ人の歴史では、ユダヤ人ならぬ人々がユダヤ人を助けてくれた出来事がたくさんありました。ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺ホロコーストの時、密かにユダヤ人を匿い、助けた多くの人々が「義なる異邦人」と呼ばれます。それは、聖書の神が全世界を造られた、唯一の創造主である、という告白と強く結びついて、主がすべての人を用いられる、という事実に基づいた信仰です[xi]。信仰から遠い人、異教徒や無神論者も、主は尊い働きに用いられる。これが、創り主なる主を信じることです。

 勿論、主がどんな人をもお用いになるからといって、その人の問題や悪まで正当化するのではありません。最近も、キリスト教界隈の一部で、ある指導者を「現代のキュロス王だ」と呼んでいるのを見かけました。その人が、長年続いていた残酷な支配に対して、思い切った大攻撃をしかけたことを、このキュロスと重ねたのです。そして、その人本人の個人的な問題には、目を瞑ろうとする動きがありました。神はそんな人をもお用いになるのだから…ということでしょうか[xii]。それは、この箇所からの乱暴すぎる解釈です。確かに主はキュロスも、アッシリアの王もお用いになります。同時にその人物が、主ご自身を見上げて恐れ、謙るかは問うのです。実際、このキュロスも、ここで言われるような「主を知るため」という肝心な目的に従ったかどうかは不明です。イザヤ書の中でも、キュロスは最終的なメシアではありません。ここでのキュロスの登場では不十分であって、52、53章で「主のしもべ」が登場します[xiii]。それは、キュロスとは正反対の、苦しみを負い、辱められ、いのちを献げる方です。この苦難のしもべイエスこそ神に油注がれた方、メシア=キリストです[xiv]。そしてイエスは、キュロス以上に予想外の姿で現れました。赤ん坊で、貧しくて、罪人の友となり、十字架の辱めを担ったのです。

主はいつも、私たちの常識や予想を覆す方法で、ご計画を進めます。それは、この世界を創造された神が、世界のそこかしこに鏤ちりばめてくださっている創造主としてのしるしです。そしてその主が、主の方法と主のタイミングとで、確かに私たちを救ってくださる証拠なのです。

天よ、上から滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開け。天地が救いを実らせるように。正義をともに芽生えさせよ。わたしは主。わたしがこれを創造した。」 [xv]

「天地の造り主、唯一の神である主。すべてのものはあなたの御手の業。私たちの貧しい予想よりも遥かに大きく、途方もない形で、あなたはご自身の計画は進んでいます。その方法も、その時がいつであるかも分からず、待ち草臥くたびれ、疑う時も、それでも主よ、あなたは万物を治めておられます。その不思議な恵みの中にあることを、見落とさない目を与えてください。それが見えずにただ待つ時も、待つ日々が決して無駄ではないことを覚えさせてください」

ペルシャのキュロス2世の墓

[i] イザヤ書におけるキュロスの登場は、以下の言葉に伏線が見られます:

41・2  だれが一人の者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせるのか。だれが彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。彼はその剣で彼らをちりのようにし、その弓で藁のように追い散らす。

25 わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の昇るところから、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。

43・14 あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデア人を彼らの喜びの船で。

44・28 キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」

45・1 主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。

[ii] 「クロス王は実際に紀元前五五〇年には優勢になり、預言のように、シリヤ、アッシリヤ、アラビヤ、カパドキヤ、フルギヤ、ルデヤ、フェニキヤそして、五三九年にバビロンを征服しました。その前の五四七年、フルギヤの首都サルデスは難攻不落の町でしたが、クロエサスの軍隊を打ち破ってサルデスを占領しました。」、油井、376ページ

[iii] ただし、保守的な神学陣営の中にも、イザヤ書の最終的な完成は、捕囚帰還後の6世紀であるとする立場の方もいます。「聖書は誤りない神の霊感された言葉」としつつ、編集や時代的な背景の影響を考慮することはあり得ます。こうした見方を一概には排除すべきではないと私は考えています。参考、Youtube「イザヤ書1-39章 Isaiah 1-39【概観】」など。

[iv] 「補注・イザヤ44・28のクロス預言

多くの研究者たちが、4・28にあるクロスという個人的な名前にまつわる詳細な預言を問題としている。しかもそれに対して実に多くの解決策を提案している。このクロス預言に困難を覚えている人々は、預言者をバビロンに置く。そうすればクロスの出来事と近くなるからである。これはいわゆる「第二イザヤ」説である(本書三一―三七頁を見よ)。この場合、関連した予言は、クロスを解放者とする預言者の判断ということになる。この見方の弱点は、これらの章が主張していることと合わないことである。というのも、預言者はクロスの働きの結果だけを予言しているのではなく、その発端をも語っているからである(41・25-27)。さらに、もし預言者がバビロンの住人であったとすれば、その預言が完全に「地方色」を欠いていることに驚かざるを得ない。特に、彼らの実際の状態に合わない捕囚の状況を予言していることになり(42・2を見よ)、単に使いやすいイメージを手段として用いているにすぎないことになる。同じことは、バビロンの崩壊についての詩的な描写についても言える(47.1以下)*1。ほかには、旧約聖書だけが、旧約聖書の預言の主題についての情報源であるとの主張もあり、それが本質的なことだと言われることもある。もちろん、述べられていることを信じないという選択もあるのだが、とにかく、その証言を現代の習慣や経験、先入観に合わせてしまうことは良くない。旧約聖書の証拠(新約聖書の場合も同じであるが)、個人名を先に知っているということはあり得るのである。どのような理由であっても、状況がそれを支持するのである(I列王13・2とⅡ列王23.155-11、使徒9.12参照)。予言のこの特別な局面は、イザヤには珍しいことではなかった。彼は、ほかの預言者以上に、予言とその成就を、主が唯一の神であることの証明の鍵としていたからである。

*1 Smart(History and Theology in Second Isaiah) は、クロスに関するすべての言及を取り除こうとする。それらを五世紀のエルサレム共同体による「第二イザヤ」の「再解釈」であるとするからである。これに関するコメントとしては、40・3から「イスラエル」という名を取り除こうとする者たちを批判して「テキストを扱ううえでの批評的な正しい手順に反する」と述べた彼自身のことばを紹介するだけで恐らく十分であろう。残念なことに、R. K. HarrisonもSmartと同様の考えである(Introduction to the Old Testament [Tyndale Press, 1970), p. 794)もし予告的な預言の事実が受け入れられれば、私たちにはその行為の限界を定めることはできない。旧約は霊感のメカニズムや「心理学」の神秘について語っていないので、私たちには何が可能で何が不可能かを決定するヒントがない。聖書の全体的な文脈においては、名前の啓示は完全に手慣れたものである(創世16・1、マタイ1・2、ルカ1・13参照)。」モティア、378〜379ページ。

[v] 「1-3bクロスの不敗の成功の業績は、アンシャン王国の最初のスタートから、ペルシア王国によるバビロン帝国の占領に至るまで、彼の同時代の人々にとっては驚嘆すべきことであった。多くの人々は彼をただただ「神々に愛された人」と見るばかりであっただろう。イザヤは私たちを見える舞台の裏側に連れていく。それは、主が彼を歴史の表舞台へと引き出し(「右手を握り」)、クロスが遂行すべき目的をつくり(「諸国を下らせ」)、勝利を企図し(「とびらを開いて」)、前進しやすくし(「平らにし……打ち砕き……へし折る」)、地の「財宝」(3a)によって富ませたのである。7節は主がまさしく歴史を支配しておられることを数え上げており、そこで主は「わたしがこれらすべてのことをする」〔新改訳「わたしは主、これらすべてを造る者」〕と言われる。」、モティア、380ページ。

[vi] 3、5、6、7、8節。

[vii] しかし、それはやすやすと信じられたのでしょうか。「主は素晴らしい、ハレルヤ!」と喜んで受け入れられたのでしょうか。いや、もっとあり得るのは、抵抗感、拒絶感です。キュロスという名は聞いていたけれど、まさか遠い東の異国人、忌まわしい無割礼の、偶像崇拝のペルシア人だなんて…という受け入れがたい思いがあったのだろう。それが、この45章に炙り出されて来る、民の本心なのです。そしてそれこそ、その二百年前のイザヤの時代に、この言葉を聞いた人々にとっても、この箇所が持つチャレンジでした。

[viii] ダビデが一度登場するのみ。55・3(耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。)

[ix] 「第二イザヤに、イスラエルの王の名前は一度もない。」、大島、下、51ページ。

[x] Ⅱ歴代36・22~23:ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。23「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神、主がともにいてくださるように。その者は上って行くようにせよ。』」

エズラ記1・1~4:ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神、主がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」

[xi] バーバラ・ブラウン・テイラーの説教(Google翻訳による)「イザヤ書 45:1-7 私たちに属さない神に属する2023年10月22日日曜日

認めましょう。21 世紀の週末の朝に、パルテノン神殿と同じくらい古いテキストの周りに集まり、何年も経った今、神との関係について何を教えてくれるのかを考えるというのは、奇妙なことです。どうやら、このように日曜日の朝を過ごす人はどんどん少なくなっているようです。そして、そうする人たちでさえ、たいていは、その意味を少しだけ汲み取るだけで満足しています。それは、より良い親、より良い人、より良い友人になるための教訓であり、神はどんなことがあっても自分を愛しているということを思い出させてくれるものです。

うまくいっているなら、直す必要はありません。問題は、私たちの問題のほとんどは簡単に直せるものではないということです。聖書のほとんどの箇所が「自分にしてもらいたいことは、人にも同じようにしなさい」というほど単純ではないのと同じです。中には「死体のあるところには、鷲が集まる」(ルカによる福音書 17:37 NRSVUE)や「持っている人はさらに与えられ、さらに豊かになる。しかし、持っていない人は、持っているわずかなものまでも取り上げられる」(マタイによる福音書 13:12 CEB)のように難解な箇所もあります。

ピーター・ウォレスが今日ここに来るように私を招待してくれたとき、私は課題の朗読を一目見て、イザヤ書 45 章に手を当てました。私はずっとこの章が大好きです。簡単だからではなく、難しいからです。この章には、戦いの言葉、闇の宝物、そして神には影に潜む邪悪なライバルはいないという明確な主張があります。神はただ 1 人しかおらず、光を形作り、闇を創り、幸福をもたらし、災いをもたらすのです。どちらかの責任を誰かに負わせたいなら、これ以上探す必要はありません。「私は主である。ほかにはいない。」

聖書には神についての別の見解もあります。結局のところ、聖書は書物の図書館のようなもので、この見解も他のすべての見解と同様に、特定の時代と場所に根ざしています。聖書には秘密の場所に隠された富があり、21世紀の人々に急いで明らかにすることはできません。2500年を経てもまだ生きているテキストの表面上の私たち自身の反射よりも深いところにあるものを発見するには、それよりももっと時間が必要です。このような時間です。しばらく井戸のそばにとどまり、コップではなくバケツを落として、2500年経ってもまだ生きているテキストの表面上の私たち自身の反射よりも深いところにあるものを発見する必要があります。

最初の行が鍵です。「主は、その油を注がれた者、キュロスにこう言われる…」。キュロスが誰で、神が彼に何をするよう選んだかが分かれば、残りはそこから展開します。イザヤ書 45 章は、神が誰で、どのように働かれるかについての私たちの先祖の理解に大きな変化をもたらしました。神は彼らの神であるが、彼らの神だけではない、神は彼らを通して働くが、彼らだけを通してではない、ということです。彼らを永遠に神と結びつける契約の条項を 1 つも無効にすることなく、神はキュロスを選び、彼らが属する神は彼らのものではないことを先祖に思い出させました。しかし、神は天地を動かして、幸か不幸か彼らの世話をします。そこには、まだ多くの人生が残っています。

バビロンの川のほとりで始まる詩篇、あるいはゴッドスペルの歌を覚えているなら、イザヤの預言の時代と場所をすでに知っているでしょう。エルサレムから追放された何万人もの人々が、柳にハープを吊るしてチグリス川とユーフラテス川のほとりに野営していました。捕虜たちは彼らに歌を歌わせようとしましたが、彼らは歌うことができませんでした。彼らは自分たちの存在を形づくっていたすべてのもの、土地、家、王国、王、自分たちを守ってくれた神のために建てた神殿を失っていたのです。あなたも私も、次の選挙に負けるとパニック発作を起こしている人たちを知っています。これはそれよりずっと大きなことでした。追放された人々は悲しみに暮れていました。

預言者たちは、それは彼らが神の目的に従わなかったからだと言いました。地上のすべての人々への祝福となるために選ばれた彼らは、自分たちの利己心以外の何も祝福できなかったのです。そのため、バビロンの拳が彼らに降りかかったとき、それは激しく降りかかり、神はそれを止めることができませんでした。外国の兵士たちは、まるでコンビニエンスストアのようにソロモンの400年の歴史を持つ神殿を略奪し、エルサレムから欲しいものをすべて奪い去った後、エルサレムを焼き払いました。そして、彼らはエルサレムのエリートたちが金で脱出する前に彼らを一斉に捕らえ、1600マイル以上離れたバビロンへの流刑に向かう長い長い捕虜の列に加えました。そしてそれがユダ王国の終わりでした。

誰の計算に従うかにもよりますが、亡命生活は少なくとも 48 年間、あるいは 70 年間続きました。いずれにせよ、エルサレムの通りの雨の匂いを覚えていた人が老衰で亡くなり、その子孫に故郷の記憶がまったくない人々が生まれるには十分な期間でした。

イザヤの預言がどのようにして彼らの中に届いたのかは分かりませんが、その預言は「主はその油を注がれた者、キュロスにこう言われる…」で始まっています。ただ、すべてが実現し始めた頃でした。紀元前539年の秋、キュロスという名のペルシャ王が首都バビロンに進軍しました。彼はすでに新しい世界帝国の他の部分をまとめ上げていたため、彼の評判は先行していました。キュロスは、征服した人々が自分たちの伝統を維持できるようにし、戦いで奪った神々の像を返す、慈悲深い統治者として知られていました。そのため、彼と兵士たちが首都に迫ると、バビロニア人(自国の王にうんざりしていた)は門を開け放ち、ペルシャ人を歓迎しました。[クリスティン・ベアード・ラティーニ、「キュロス大王とは誰か?」(ナショナルジオグラフィック、2019年5月6日)。イザヤによれば、神はキュロスも認めた。彼は神が協力できる人物だった。彼は捕虜を解放し、ついに故郷に帰すことができる人物だった。そこで神はキュロスを名乗って油を注いだが、イスラエルの歴史上、神がそのようなことをしたことはなかった。

「油を注がれた」は、ヘブライ語では重要な言葉であり、mashiach は「救世主」と訳されています。また、ギリシャ語でも同様に重要な言葉で、christos、つまり「キリスト」と訳されています。どちらの用語も、その語源まで掘り下げて考えると、救済の目的のために神に油を注がれた人、つまり、神がそのような人を介入者として選ばなかったら人々が向かっていたであろう方向から人々を救う人という意味になります。

旧約聖書では、王、祭司、預言者がこの意味で救世主でした。旧約聖書では、イエスだけが救世主でした。おそらく、その頃には「救世主」が大文字になっていて、救いが非常に特別な意味を持つようになり、その何かはキリスト一人を通してのみ得られるようになったからでしょう。どう考えても、これらの救世主はすべてユダヤ人でしたが、キュロスはどうでしょう。なぜ異邦人が神の油注がれた者のリストに載っているのでしょう。彼はイスラエルと神の契約のパートナーではありませんでした。彼はアブラハムのことを聞いたこともありませんでした。エルサレムに行ったこともありませんでした。ヘブライ語を話すこともできず、ましてやイザヤが彼について語ったことなど読むこともできませんでした。キュロスはペルシャ人だったので、ゾロアスター教徒だったかもしれません。アフラ・マズダやマルドゥクを崇拝していたかもしれません。多神教徒だったかもしれません。彼は霊的でしたが、宗教的ではなかったかもしれません。興味深いのは、サイラスの国籍、親、職業などと同じように、神はこれに関心を示さなかったようだということです。実際、神はサイラスが誰に話しかけられているのかさえ知らなかったことを非常に明確に示しました。

 

 

わたしのしもべヤコブとわたしの選んだイスラエルのために、

わたしはあなたの名を呼び、あなたに

称号を与える。あなたはわたしを知らないが。

わたしは主である。ほかにはいない。

わたしのほかに神はいない。

あなたはわたしを知らないが、

わたしはあなたに武器を与える。そうすれば、日の出る方から

西の方まで、わたしのほかに神はいないことが彼らに分かる。

わたしは主である。ほかにはいない。

 

ですから、この聖句が語っているのは、神が異邦人の救世主の右手を握る用意があるということだけでなく、神がすべての人々の神として知られる用意があり、神の大義を受け入れる意思のある誰とでも協力できるということなのです。「取って代わる」という言葉をご存知なら、これはそれではありません。私は神が教会と新しい契約を結ぶためにイスラエルとの契約を破ったことについて話しているのではありません。神は神の言葉を破りません。その代わりに、私はユダヤ教が何千年もの間認識してきたことを認識しています。つまり、どの宗教も神を独占できないということです。ラビのジョナサン・サックスは、それがユダヤ教をユニークにしているのだとよく言っています。その教えは「知恵、正義、そして神との真の関係の可能性は、神がノアとその子孫全員と結んだ契約から受け継がれた遺産として、非ユダヤ文化や宗教にもすべて存在する」というものです。そのため、伝統では、神や真実を知ったり、救いを得たりするのにユダヤ人である必要はない、と教えています。[ジョナサン・サックス著『違いの尊厳』第2版(ブルームズベリー・アカデミック、2003年)、vii、52-65]

 

それは大きなことです。救われるために、あるいは救世主になるために、ユダヤ人である必要はありません。キュロス大王はバビロンの新しい支配者になった後、捕虜を解放して故郷に帰らせ、エルサレムの再建に取り組ませました。彼は自分が任命されたことを実行し、今日までユダヤの教えで「義なる異邦人」として知られている者となりました。義なる異邦人とは、ユダヤ人ではないにもかかわらず、ユダヤ人との救済関係に入り、自分の民族の利己心を超えて他の民族のためにより高次の目的に奉仕し、その過程で神の名を学び、自分の物語を知るすべての人にそれを知らせた人です。今日「義なる異邦人」をGoogle で検索すると、エルサレムにある世界ホロコースト記念センター、ヤド・ヴァシェムの Web サイトに直接誘導されます。このセンターはデータベースで諸国民の義なる人々の記録を保管しています。現在、リストには51カ国から28,000人以上の名前が載っている。彼らは第二次世界大戦中に大きな危険を冒してユダヤ人の隣人を守った正義の異教徒たちだ。

 

オスカー・シンドラーの名前は、スティーブン・スピルバーグ監督の映画のおかげで、すぐに目につくようになった。彼はナチ党員だったため、徳の高い人物ではなかったが、それは必須条件ではなかった。重要なのは、彼が自分の工場で働く1000人以上のユダヤ人労働者が強制収容所に送られるのを防ぐ方法を見つけたとき、それを実行したということだ。しかし、ヤド・ヴァシェムが保管しているリストに載っている人物全員がそれほど有名というわけではない。

 

1938年、オーストリアがナチスドイツに併合され、ユダヤ人が他国へ出国するにはビザか船の切符が必要だったとき、馮山和はウィーンの中国総領事だった。馮山和はベルリン駐在の中国大使の直接の命令により、希望者全員に上海行きのビザを何百枚も発行した。

 

アドルフとマリア・アルトホフは、戦時中ヨーロッパ中を巡業するサーカス団を経営していたため、何年間も4人の不法家族をかくまって捕まることなく過ごすことができた。ゲシュタポの警官が定期検査にやって来ても、サーカス団全体、つまり90人以上のアーティストとその家族は秘密を守った。

 

ヴェセルとファティマ・ヴェセリはアルバニア系イスラム教徒で、山中の自分たちの小さな家にユダヤ人家族を1家族受け入れ、その後、大人5人と子ども2人からなる別の家族も受け入れ、1944年の戦争終結まで彼らと一緒に暮らした。その後、彼らの息子レフィクは、イスラエルに移住できるようになるまで、ユーゴスラビアのある家族のもとで暮らした。

 

これらの人々は、正義の異教徒になろうとしたわけではありません。救世主になろうとした人などほとんどいません。彼らはただの普通の人々で、キュロスというよりはあなたや私に似ています。彼らは深い分裂と深刻な危険の世界に生き、ほとんど知らない人が助けを必要としているとき、20分ほど考えるだけで、たとえ致命的な一線を越える必要はあっても、助けてあげられると分かっていました。宗教や政治に基づいて決断した人もいたでしょうが、明らかにそれはどちらに転ぶかわかりません。ですから、関係者全員にとって非常に大きなリスクがあったとしても、できる限り長く、できる限り正しいことをする、何か他のものが働いていたのです。

 

私が気に入っているのは、ヤド・ヴァシェムが彼らのリストを保管していることです。私たちのような人々を助けた、私たちとは異なる人々のリストです。すべての宗教がそのようなリストを保管してほしいと思います。すべての政党とともに、宗教からの自由財団がそのようなリストを保管してほしいと思います。同じ本を読んでいない、同じことを信じていない、同じ教えに従っていない、同じ教師を尊敬していないにもかかわらず、お互いに救済関係を結んだ人々のリストです。

 

そういうことは起こるものです。私たちはみんな、意見の合わない人たちに大なり小なり救われています。高速道路でパンクを修理してもらうか、空港で母親のために車椅子を探してもらうか、飼い犬が死んだときにスープを持ってきてもらうか、スーパーで置き忘れたはずの携帯電話を探すのを手伝ってもらうかを決める前に、全員の資格を確認するのは大変です。また、誰も立ち止まって荷物をチェックしたり、水に飛び込んで引き上げたり、結婚披露宴でチキンナゲットで窒息しそうになっているのを見て背中を叩いたり、事故はすべてあなたのせいなのに警察が来るのを一緒に座って待っているだけの人がいないのもうれしいことです。

 

そういうことは起こります。ただ、私たちはあまりそのことについて話さないのです。私たちを助けるために一線を越えた、私たちとは違う人たちにどれほど感謝しているか、そして彼らが私たちにとって敵ではないように思えるか、ということについて。なぜなら、私たちが自分の仲間と一緒にいると、それは…何だか分からないが…裏切り者、無節操、弱虫のように思われるからです。あなたは頭が弱いのですか?あなたがいないときに彼らがどんなふうになるか知っていますよね?あなたは味方を変えていますか?そのような話は、私たち全員を、お互いから追放するもので、今まさにそのようなことが多々起こっています。

 

キュロスの物語の最も素晴らしいところは、神は私たちほど差別的ではない、あるいは少なくとも同じことについては差別的ではないという可能性を切り開く点だ。宗教、国籍、性別、教育、職業、社会階級、政党:まあまあ。神がパートナーを探すとき、何か他のものがリストの一番上に来る。困難な状況で人々が正しいことをする可能性を高めるものなら何であれ、私たち自身の時代と場所、私たち自身の座標とスキルセットで物事を悪化させるのではなく、より良くするために。それが私たちを聖別されるべきものにするものであり、そこに到達するためのアルゴリズムはない。あるのは、準備、願望、そして勇気のタンクがいっぱいあるだけであり、それは賢明な抑制からの自由とも言えるかもしれない。

 

残りの一日をもっと文化的に適切な方法で過ごした後、この言葉があなたに何か考えるきっかけを与えてくれることを願っています。そして、今夜遅くに闇の宝物を開くとき、正しい場所に自分の名前を入れて、この文章を少なくともいじってみてほしいと思います。「主は、その油を注がれた者(ここにあなたの名前が入ります)にこう言われる。私はその右の手を握った…」。あなたがこれを信じたら何が起こるか、神のみぞ知る。」私たちに属さない神に属する

[xii] 「その預言とは、ドナルド・トランプはイザヤ45章のキュロスであり、第45代大統領はイザヤ45章のキュロスになるというものです。

 

聖書のイザヤ書には、キュロスという人物についての記述があります。キュロスはペルシャ帝国の皇帝で、キリスト教が始まる前の紀元前6世紀、ユダヤの民はバビロンに流されていて、バビロン帝国に征服されていたのですが、キュロスとペルシャ人がバビロン帝国を征服します。そしてキュロスは、エルサレムを再建し、神殿を再建するためにユダヤの民を送り返した皇帝です。

イザヤ書45章には、神がキュロスに語りかけ、キュロスを「神の油注がれた者」と呼ぶ箇所があります。ヘブライ語で油注がれたとはマシャハのことです。そこからメシア(救世主)という言葉が生まれました。つまり、イザヤ書のビジョンの中でキュロスは世俗的な救世主であり、絶対的な救世主ではありませんが、救世主のひとりです。彼はイスラエルの救世主のひとりです。

つまり、ドナルド・トランプは良いクリスチャンではなく、神の民の一員でもないですが、クリスチャンを救うため、アメリカのクリスチャンを解放するために神によって油注がれた世俗的な指導者なのです。」それでも「トランプ信者」が減らない理由 宗教学者が解説する人間の本性とは AERA Degital 2024年11月6日

[xiii] 「これから見ていくように(45.9-13、46・1-13)、イスラエルは目が見えないままとどまっており、なおも教えられることなく無知のままで世界をながめている。クロスは主の目的の中心ではあったが、その目的を成し遂げるのに失敗した。そこで、恵み深い主は、クロスの影に隠れている、もうひとりのしもべを起こして、別の計画(40・1-55.133)をお立てになったのである。」、モティア、381ページ。

[xiv] 「キュロスは、「主のしもべ」とは呼ばれていないことは興味深い。」鈴木、284ページ。

[xv] 「この短い節は、創造主への壮大な賛美であり、44章23節の賛美に対応していますが、両節には重要な違いがあります。44章23節では、イスラエルの救済が祝われています。ここでは、創造の賜物が地を繁栄させています。ヤハウェの主権の地平は、イスラエルの未来をはるかに超えた、最も包括的な主張へと押し広げられています。」、ブルッゲマン