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2026/6/21 イザヤ書41章14〜29節(21〜24節)「後の日は御手の中にある」

今日聴くのは、イザヤ書41章14節からの後半です。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々

という言葉で始まります。虫けらの、とは酷いでしょうか。しかし「恐れるな」と始まって、

わたしがあなたを助ける

と続くのですから、虫けらのように扱う、と言うのではない。むしろ、激励の言葉です。「虫けらだ」と思っていたのは実はイスラエル人自身で「自分たちなどもう虫けらだ、人間の屑だ、踏み潰されるばかりだ」と思っていたのでしょう。皆さんも、自分が虫けらのように小さく、ダメだ、救われようがない、と思ったことがあるでしょうか。その苦しさ、心が麻痺して、諦めているどん底に、主は言われるのです。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。

これが主の言葉です。

続きの

あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者

――イザヤ書に初めて出て来る「贖う者」です。贖うという言葉はキリスト教会以外ほぼ聞かれない言葉ですが、紛れもない日本語で代価を払って買い取る、という行為です。聖書では「贖い主」と訳された名詞は、借金を返せなくなった親族の代わりに、その負債を払って生活を取り戻す、有難い近親者――あるいは誰かが殺された時、その血の仇を取って復讐してくれる人も「贖い主」と訳された言葉です[i]。ここでは、イスラエルの民は、無力で、襲い掛かって来る敵を恐れるしか出来ないでいる。その彼らのために神である主が立ち上がってくださる――抑圧から救い出すための出費を惜しまず、抑圧者を打ち負かして復讐してくださる、と言って「恐れるな」と言われる。いやそれ以上に、

15見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする。16あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主にあって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。

神である主は、虫けらを新品・新製品の打穀機とする方です。打穀機とは、農業の収穫期の大事な道具です[ii]。恐ろしい破壊マシーンにする、ではなく、コンバインを想像してください。山や丘のように立ちはだかる障害や問題を、穀物の山のように脱穀して、殻を吹き飛ばし、美味しい穀物を残す。そして、そのようにしてくださった主にあって喜ぶ絵が描かれます。

ここにも「イスラエルの聖なる者」と、14節の言葉が繰り返されますが、神が「聖なる者」であるとはどういうことかがここにも現れます。私たちを贖い、虫けらを打穀機とするような、力づけ、新しくし、喜びや誇りを下さる。そこに、神が聖なる方であることが現れるのです[iii]。神である主は、強く聖なるお方です。その方の前に、私たちは小さく、虫けら、虫けら以下の存在でもあります。だからこそ、主が私たちを贖ってくださり、私たちを力づけて、自分では出来ないことをさせてくださいます。そもそも自分の力では何も出来ないのですが、主はその私たちを通して、神にしかできないことをなされるのです。これが「聖」ということです。

 この神、主の唯一無二の力は、渇いた人を潤し、砂漠に森を創り出すイメージで描かれます。17~19節がそれです。裸の丘に川を、荒野を水のある沢に、荒野に杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、もみの木、すずかけの木、檜ひのきを植える、という緑の光景です。その目的は

20…主の手がこれを行い、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、ともに悟るためである。

聖なる主が、聖なる主にしかできないことをしてくださり、人がそれを見て、主を悟る。そのために、主は、主にしかできないことをしてくださるのです。

 それとは雲泥の差で、人間が作り出す偶像、「神々」は、創り出すどころか、無力で虚しい。21節から24節の「あなたがた」は偶像そのものでしょう。答えることも出来ない偶像に言う。

21あなたがたの訴えを出せ。…22持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。前の事は何であったのかを告げよ。…23後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれはあなたがたが神々であることを知るだろう。…

 でも偶像には答えられません。それは、偶像が

24…無に等しい。あなたがたの行いは空しい。あなたがたを選ぶ者は忌まわしい。

からです。無に等しい、無力さが、ここで繰り返されています[iv]。「後に起ころうとする事を告げよ」も繰り返されます。この先にも何度も出て来るフレーズですが[v]、彼らが偶像に未来を占ってもらい、安心しようとしていた期待を逆手に取ったのでしょう。これから後に何が起きるかの予言こそ、宗教や占いへの期待でもあるでしょう。そこにこの言葉は問います。後に起こることを告げて見よ、いいや、前の事だって告げて見よ、と挑む。未来を知らせてくれるはずの偶像や占いが、冷静に振り返れば、どれほど外れて、当てにならなかったかは明らかです。それでもまた人間は、懲りもせずに、未来を知ろうとして、占いを気にして、予言に振り回されます。(丁度一年前、日本に大災害が起きるとの予言に日本も世界も振り回されました。結局、予言は外れましたが、また同じような予言が出てくれば、また不安で煽られる事でしょう)。それは聖なる主への信頼とは大違いです。

25わたしが来たから人を起こすと、彼は来て、日の昇るところから、わたしの名を呼ぶ。…

 これは、2節でも出てきた予告で、この人は45・1で名指しされるキュロス王の登場の予告です。主は将来、思いもかけない所から一人の人を起こして、世界の地勢図を一変することを予告しています。偶像や占いには決して語り得ない、後に起こることを主は告げます。それが26節から29節まで語られ、偶像の空虚さを一層強く印象づけるのです。

主が将来を告げるのは、主ご自身がそのように定めて、世界の歴史を綴る方だからですね。この先も出てくる「後の日のことを告げる」には、主こそが将来を創造し、支配し、平和を用意するお方であるという宣言が通底します[vi]。そして、その将来に向けて、私たち自身が変わるべきこと、今日選ぶべき善い業、方向転換、踏み出す一歩が告げられるのです。そうした私たち自身の今日を棚上げして、「将来何が起きるか」を問うのは意味がないことです。[vii]

23節欄外にはヨハネの福音書13・19とあります。主イエスが最後の晩餐で言われる。

事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。

ヨハネ13章でイエスが予告したのは、弟子から裏切る者が出ること、そしてイエスが弟子たちの汚れた足を洗った洗足の意味、の二つです。裏切られるって、一番つらいことでしょう? 人の足を洗うって、最も卑しいとされた奉仕でしたね。イエスが語る「後に起こること」とは、辛いこと、困難やリスクもあるのだ、という現実と、その中で、謙って仕え、イエスに倣う今日を重ねていくことです。その時、イエスが「わたしはある」方だとわかる、そこにイエスがともにいてくださると約束されました。

 24節欄外にはIコリント8・4とあります[viii]

さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。

その続きは、そうは言っても、今まで偶像に馴染んできたために、キリスト者でも偶像にお供えにした肉には特別視してしまう感覚も考慮し合いなさい、という配慮を語る言葉です[ix]。私たちはどうでしょう。主イエス・キリストの神だけを告白しつつ、他の宗教行事や祟り、迷信を気にしたり、占いやお祓いに囚われないよう距離を置くことは勿論[x]、後のことを語るのに、神である主ならぬ何か別のものの告げる言葉を信じてしまっている事もあるでしょう。「お金があれば将来は安泰だ」「努力はきっと報われる」「いい会社に入り、いい相手と結婚できれば幸せ」…。「きっと○○」と予測したことがどれほど外れたでしょう。私たちの予想以上のことをしてくださる主が、私たちの時を支配しておられます。主はご自身が用意する「後の日」に向けて、私たちを教え、今日を大切に生きるよう整えてくださいます。

「主よ、私たちの時はあなたの御手にあります。明日をも知れぬ旅路でも、明日をも守るあなたがともにいてくださいます。明日を知ろうと思い煩い、人の言葉に振り回されるより、あなたのみことばに励まされ、今ここで、委ねられた命を喜んで働くよう、あなたが教え、導いてくださいます。主イエスが歩まれた足跡に倣い、仕える道を行く今日は、決して無駄にはならず、あなたが祝福してくださいます。この希望によって私たちを新しくし、力付けてください」

[i] 「ここで「贖い主」という言葉は、この書の中で 13 回登場する最初の例です。72 旧約聖書の他の箇所では、貧しい人を奴隷状態から解放し、貧困によって家族の相続財産を失うことから救う近親者を指すのに使われています (レビ記 25:25、ルツ記 4:1-8)。しかし、殺された人の血の復讐として殺人者を殺す人を指すのにも使われています (ゴエル・ハダム、民数記 35:21-27、申命記 19:6、ヨシュア記 20:5)。このように、この言葉には肯定的な意味 (抑圧された人に対して) と否定的な意味 (抑圧者に対して) の両方があります。ここでの使用法は、他の使用例の 1 つを除いてすべてに典型的です。それは、神の偉大さと独自性を強調する他の称号と結びついた形容詞として使用されています。6 回は「イスラエルの聖なる者」と結びついて、3 回は「万軍の主」と結びついて登場します。 「ヤコブの力ある者」という言葉が2回登場する。その他、「イスラエルの王」「最初であり最後」「母の胎内からあなたを形造った」「すべてを造った」「全地の神」「我らの父」といった言葉も少なくとも1回は登場する。これらのつながりが示しているのは、神が救世主としての務めを果たすことができるということである。神は十分に強く、創造的で、慈悲深いので、宇宙のいかなる存在も、神がその計画を実行するのを妨げることはできない。」、オズワルト

[ii] 「穀物の脱穀とふるい分け 脱穀は、棒で打ったり、動物を歩き回らせたり、脱穀そりを使ったりして行った。脱穀そりは、簡単な1枚の板かそれに車輪のついたもので、石や鉄の小片がついていた。これによって茎は寸断され、穀粒は殻から分離するのである。農夫は続いて、木の熊手やシャベルを使って、脱穀したものを空中に放り投げ、風を利用して「ふるい分け」をする。麦藁は吹き飛ばされ、(これは冬の間、動物の飼料として使われた)、重い穀粒は打ち場の床に落ちる。穀粒はふるいにかけて、大きな土器の壺に入れ、床に掘った乾いた水槽の「サイロ」や「納屋」に貯蔵した。」、『ビジュアル聖書百科』、105ページ。

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[iii] 「「贖い主」という言葉が「イスラエルの聖なる方」との関連によって理解されるのであれば、その逆もまた真である。本書のこの部分において、神の聖性、すなわち神の唯一無二の神性の証拠は、贖う意志と能力にある。いわゆる神々は、贖う意志も能力もない。彼らは気まぐれな人間と何ら変わらず、したがって聖なる者と呼ばれる資格はない。しかし、主は歴史にも自然にも縛られず、真に超越的な存在であり、あらゆる状況において正しいことを行う自由を持っている。これこそが聖性である。」、オズワルト

[iv] 11、12節、24節、26節、28、29節、参照。

[v] 「「空の鳥を見なさい」との言葉を真剣に受け止め、日常の何気ない出来事の中に神の働きを見いだすことに努めなければならない。神の働きを正しく評価することで、明日への展望、希望が生まれる。神の働きを見失うと、明日への展望が閉ざされ、不安が心に広がってくる。」、豊田信行『真の自己となる旅路』(いのちのことば社、2025年)、225頁。

[vi] 最初と後の事柄の特定は、この後も繰り返される:

42・9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」

43・19 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。18-19、46:9、10、48:3も参照)41:22 持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。前の事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれを心に留め、後の事を知ることができるだろう。または、来たるべき事をわれわれに聞かせよ。

43・9 すべての国々をともに集わせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、初めのことを聞かせることができるだろうか。彼らが自分たちの証人を出して証言し、人々がそれを聞いて、『本当だ』と言うようにせよ。

43・10 あなたがたはわたしの証人、──主のことば──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。

46・10 わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。

48・6 あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる。

[vii] 神は人間が偶像や占いに期待するような意味での未来予言とは全く違う。「聖書の神様なら将来の出来事を間違いなく予言できるだろう」と期待するのは、主が人に求める信仰とは似ても似つきません。主は、よい将来、平和(シャローム)の訪れを約束します。そしてその平和を妨げるものが私たちにある、と言われます。私たちにこそ砕かれなければならない山や、低められなければならない丘があり、恐れて偶像に頼り、神ならぬものの声に耳を傾けることを止める必要があります。自分たちが主との関係に生きるよう変えられることなしに、将来どうなるかを問うても無意味です。主は私たちを愛しておられ、私たちを砂漠から泉に変えることにこそ、心を留めておられるのですから。

[viii] ただし、参照先のIコリント8・4の欄外には、イザヤ書41・25はなく、旧約聖書の箇所として書かれているのは、申命記4・35(あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。)、4・39(今日あなたは、上は天、下は地において主だけが神であり、ほかに神はいないことを知り、心にとどめなさい。)、6・4(聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。)だけです。

[ix] Iコリント8章から10章参照。その結びは、「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。32ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。」です。

[x] 逆に、そうしたものとの関係が、主なる神の怒りを買っているのに違いない、というのも、異教的な発想で、主を考えることになるかもしれません。とはいえ、そう考えてしまうこと自体も、「良心の弱さ」として配慮すべきことであり、一蹴して片付けるべきことでもありません。