2024/1/28 ヨハネの福音書13章31~35節「新しい戒めを」[i]
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
新しいと言っても、イエスは新規の戒めを創り出したのではありません。ずっとイエスは父なる神に言われたこと、父なる神のなさることだけを自分はしているのだと言ってきました[ii]。またマタイやマルコの福音書では
「最も大切な戒めは」
と聞かれて
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」
と
「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』」
と言いました[iii]。神を愛し、隣人を自分自身のように愛する。これが最も大切な戒めです。それをイエスは今、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「新しい戒め」に発展(バージョンアップ)です。なぜでしょうか。
それはイエスが愛してくれた愛がなければ、神をも隣人を自分自身のように愛することも分からないからです。神が願っているように愛すること、愛し合う事が、私たちには分からなくなっているのです。愛といっても色んな愛があります。恋愛、親子愛、兄弟愛、○○ラブ…。逆に、愛なんて甘えだとか、愛という言葉は重い、嫌いだ、という人も少なくありません。「愛」という言葉には人間の手垢がいっぱい付いているのです。だからイエスは、愛しなさいと命じるのでなく
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
と自らの模範を示しました。ですから私たちは、イエスの愛がどのような愛なのか、イエスの愛は他の愛とはどう違うのか、これはどんな文脈での言葉なのか、よく知る必要があります。
「31ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」
ユダ、十二弟子の一人で、なぜかイエスを敵の手に売り渡したユダが、こっそりと出て行った時でした。その時、なぜかイエスは絶望や怒りではなく、ご自分が栄光を受け、神に栄光を帰した、と言われるのですね。それは、イエスが弟子たちを愛し、裏切るユダさえ含めた弟子たちを愛し、彼らの過ち、弱さ、罪をもさばかずに、引き受けたから、です。イエスは、本当に弟子たちを愛されて、ここまで何年も一緒に過ごしてきました。彼らはイエスが自分たちの弱さや間違いを叱ったり諫めたりしながらも、一緒にいてくださったことを体験していました。そして、この直前、13章の最初にあったのは、イエスが自分たちの足を洗ったという生々しい出来事です。奴隷や身分の低い者がするような、汚れた足を洗うことをイエスは弟子たちの足元に跪いてしてくれました。その中にはユダもいました。その愛を深く味わった上での
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
なのです。この「ように」は、ただやり方を真似せよ、模範通りにせよ、という意味はありません。まず本当にイエスが弟子たちを愛してくださったのです。だから、弟子たちもイエスから愛された事を身を以て知る者として、この言葉が言われるのです。
本来私たちは、神に愛されて、互いに愛し合うようにと作られたものですから、愛したい・愛されたい願いを持っています。だからこそ、愛されるために、一生懸命頑張ったり、喜んで尽くしたりもするのです。イエスの言葉を聞いてもどこかでこう翻訳していないでしょうか。
「互いに愛し合いなさい。そうすれば、わたしもあなたがたをもっと愛してあげよう」
と。
その逆でした。もうイエスが愛してくれました。自分たちが忠実だから、愛があるから、立派で勇気ある信仰者だから、愛する――ではなく、イエスの方から自分たちを選び、慈しみ、喜び、ともにいることを楽しんでくれました。愛されたい、という渇望を満たすためにイエスの期待に応えなければ、という理屈はイエスとの関係にはありませんでした。
「33子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。…」
イエスは、まもなく逮捕され、弟子たちとは別れます。死んで復活した後、父の元に帰るのです。けれども、だからこそイエスは仰った「新しい戒め」が34節なのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
イエスは去って行き、見えなくなるけれど、だからこそイエスは弟子たちにこの「新しい戒め」を与えて、弟子たちの間に愛があることによって、すべての人がイエスの働きを見る――イエスが見えなくても、弟子たちの間に愛があることを通してイエスを見る、というのが、イエスの考えだというのです。
弟子たちはこれをどんな思いで聞いたのでしょうか。ここで分かるのは、36節でペテロが聞いたのが「主よ、どこにおいでになるのですか。」と応えた台詞です。イエスがどこかに行く方が気になって、新しい戒めは聞こえていないかのようです。他の弟子たちもどうだったのでしょう。イエスが自分たちの足を洗った事も吃驚でしたが、そのようにあなたがたも足を洗い合いなさい、愛し合いなさい、という言葉はそれに匹敵するほど、いや、それ以上に驚きだったのではないでしょうか。そして、それを通して、すべての人が知る。弟子たちは、まだ足にイエスが触れて、洗ってくださった感覚も生々しい中、そのように自分たちもする、というイエスの言葉は文字通り、世界が引っ繰り返されたような言葉であったはずです。
「そんなこと自分たちには到底出来ない、愛もないし、欠けだらけで…」。それは当然です。愛とは欠けだらけだろうと関係なく、その人を喜ぶことだからです。だからこそ欠けや罪、失敗や問題が生じた時にこそ、愛の真価が試されるのですね。この後、ペテロや弟子たちはイエスを離れ、知らぬ顔を決め込む卑怯者になります。それでもイエスは弟子たちを切り捨てず、関係を癒してくださいました。イエスが愛することで、自分が愛されていると知ること、もう人目を恐れ、見せかけたりしなくてよくされ、そして私たちも人を裁かず、愛せる事は本当に自由にされる事です。誰であっても尊い「神のかたち」であり、違う存在であり、時間をかけて変わると信じて、人に向き合えるのは、本当に楽なことです。愛するとは最も自由な事です。そして、私たちが愛せるようにしてくださることこそ、イエスの最大の奉仕です。弟子たちが愛し合うというのは、立派な愛を持つ善人ぶったり、教会が仲良く麗しい関係を装ったりしようとすることとは反対に、自分たちの愛のなさ、赦された罪、イエスの無条件の愛を、飾らずに、正直に認めた上で、自分たちの中にある問題、違い、悲しみ、罪などをイエスにあって受け止めようとすることです。なぜなら、イエスが弟子たちの鈍感さ、思い上がり、すべての失敗もご存じの上で、彼らを愛し、赦し、ともにいて立ち上がらせてくださったからです。
弟子たちは自分たちがイエスの弟子たちであることを、すべての人に証しします。イエスは健康な人の救い主、立派な人、真面目で敬虔な人のリーダーではなく、病人の医者、失われた人を捜す神です。迷子の羊を捜すよい羊飼い、傷んだ葦を折らず、くすぶる灯火を消さない方、老いて歩けなくなった者をも背負って救い出す主です。そのイエスの弟子であることを、すべての人が認めるのです。イエスがイエスである事は、その手と脇の傷の痕(あと)が証ししたように、イエスの弟子がイエスの弟子であることは、欠けがないことや欠けを隠したり責めたり誰かを責めることによってではなく、欠けを通してイエスが現される事によって、証しされるのです。
イエスが私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合う。これは、イエスが弟子たちの足を洗う事で驚くべき愛を体験させた中で与えられた「新しい戒め」です。イエスが私を愛してくださった愛は、押しつけがましさも束縛もなく、本当に深く、自由で聖なる愛。そして、私たちをも愛する者へと変えずにおらない愛なのです。「イエスが愛したように」とはどういうことか、ここに常に帰ってきて、そこに生きるから、互いに愛し合うことがあり得るのです。
「私たちを愛したもう神よ。あなたの愛により、恐れや疑いが、喜びと信頼に変えられました。その愛により私たちがお互いをも愛する自由を戴き始めました。私たちに仕えてくださるあなたに心から感謝と賛美をします。愛という言葉が虚しく思える中、まず主よ、私たちがあなたに愛に立ち戻り、愛に生かし、その私たちの交わりを通して、あなたの愛を証ししてください」
[i] 今年の週報に毎週記載されている2024年度の年間聖句が、この13章34節です。
[ii] ヨハネの福音書12章49~50節など。
[iii] マタイの福音書22章37~38節、マルコの福音書12章29~32節。