2026/9/13 イザヤ書44章23〜28節「住まいを再建する神」讃美歌355主をあおぎみれば
天よ、喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地の底よ、喜び叫べ。山々よ、喜びの歌声をあげよ。林と、そのすべての木々も。
主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに 栄光を現されたからだ。
と始まります[i]。前回9~20節は、林の中の木から彫った偶像を礼拝する姿が描かれました。今日の23節ではその林も、そのすべての木々も、主なる神が栄光を現してくださったことを喜び叫べというのです。本当に、天や地や山々、林やその木々が、賛美するんでしょうか。山や木々がしゃべる、というのは自然崇拝や偶像礼拝と紙一重のアニミズムですが、このイザヤの言葉で言うならば、山や木々に口があったとしても、ひれ伏されて崇められるなんて真っ平御免のはずで、主を賛美したいはず――神がこの世界を深く癒してくださる日を、天も地も、山も木も、うめきながら待ち焦がれているのだ――そしてその日は必ず来る、というのです。
この24節以降、主が「万物を造った主」、造り主であることが繰り返されます[ii]。天地を造られた主は、ただ一人、世界に権威を持っておられて、この世界を贖われるのです。贖うとは何度もお話ししてきたように、「買い戻す・誰かの代わりに費用を支払って、あるべき状態に戻す・不当な暴力に復讐する」という意味です。では、主の贖いとは、具体的にはどのようにすることなのでしょうか。ここでは、25節以下に4つの事が言われていきます。
まず
25わたしは易者のしるしを打ち壊し、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。
占いや尤もらしいことを言う人たちが馬脚を現すようにする。この言葉は、新約聖書のIコリント1・20で引用されています。
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
こう言われたのは、教会外の未信者ではなく、コリントの教会の信徒たちに対してでした。洗礼を受け、礼拝を献げ、聖餐に与っていても、教会の中にまだ、人を誇ったり、比べたり、争う考えが深く根を下ろしていました。そのようなこの世の知恵から、主は私たちを生涯かけて救い出してくださっています。そして、主の栄光やご支配やあわれみを歪めるような考えから、すっかり救い出してくださる。私たちは、もう何の迷いも恐れもなく、頑張ったり取り繕ったりもなしに、主を心から礼拝するようになるのです。
次に26節
主のしもべのことばを成就させ、使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムについては『人が住むようになる』と言い、ユダの町々については『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。
都エルサレムの回復と、周囲の町々の再建・復興です。イスラエルの民にとって、エルサレムは聖地、神殿があり、主の名がそこに置かれている約束の地の拠点です。イスラエル人にとってのエルサレムの大切さは、現代の私たちには想像を超えています。しかし、その都に不正や暴力が蔓延っていました。そのため、主も外国の脅威がエルサレムを取り囲むことさえ許されました。そして、やがてバビロンが攻めて来て、エルサレムも攻め落とすことも既に予告されていました[iii]。誰も住まない廃墟となる日が来る。そのエルサレムについて主は「人が住むようになる」、ユダの町々も「再建される、その廃墟はわたしが復興させる」と言われるのです。ここには将来の安全な生活、人が集まり、社会活動を営み(良い意味で)人間らしい文化を発展させる、現実的な幻ビジョンの余地があります。
聖書の最終巻、ヨハネの黙示録の結びは「新しいエルサレムが天から降って来る」幻です[iv]。すべての戦いや悪が終わって、栄光に輝く、巨大な美しい都が始まる、という光景です。聖書全体は贖いの契約が一貫しています。そこからすると、今日のイザヤ書44章で語られるエルサレムの再建は、黙示録の「新しいエルサレム」への伏線と言って良いでしょう。ここには非常に具体的な将来像があります。漠然とした「救い」とか、雲の上で聖歌隊が歌うような天国イメージとは全然違う贖い――「都市計画」というべき主の計画であることに気づくのです。
ある方は
「イザヤ書は「都市の書」と呼ぶことが出来る」
と言います[v]。別の方は、聖書はバビロンという、滅ぼされるべき地上の王の都と、神の都として回復されるエルサレム。この2つの都(都市)を象徴として、聖書は進んで行く「二都物語」だと言います。
「都市」にどんなイメージが浮かびますか。巨大ビル、人が多い、華やか、最先端…。いや、冷たい、ごみごみ・セコセコして、空気が悪く、治安も悪そう…という所でしょうか。「あんなところ、住む気がしない」と思うでしょうか。安心してください。このエルサレムは「人が住むようになる」と言われるのです。人が住みたいと思う場所となってこそ、本当の意味で、街の再建であり復興なのです。都市は人が集まって住む所であり、古代から城壁で囲まれ、安全と安定がありました。色々な人が集まってきますので、多様な、自分たちとは違う出会いや共生がありました。その中で、必要なものや新しい物が生み出され、創造され、発展していく場が都市です[vi]。しかしそこで、人が思い上がり、天にも届く塔を建てようと、人が奴隷扱いされる罪が生まれるのも聖書の伝える負の面です。エルサレムが再建される時、新しい都には、そうした負の面はなく、バベルの塔や無駄に高いビルもないのでしょう。27節にあります。
淵については『干上がれ。わたしはおまえの豊かな流れを涸らす』と言う。
「淵」とはここにしか出て来ない言葉ですが[vii]、崖っぷちから谷底を覗くと、真っ暗で底が見えない、そんな不安、闇、恐怖と、悪や滅びの力を重ねているのでしょう。私たちは、主の約束や希望を聞いても、それを小さく、安っぽく、薄っぺらに考えやすい。悪の力や、自分の心の闇の方が底知れず、どうしようもないように思ってしまいます。主は、しかし、そうした闇の淵よりも強いお方です。闇の底をも干上がらせられるのです。更に、28節は、
キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」
ペルシャのキュロス王の登場が告げます。未信者・異教徒の王です。その王をも、主は意のままに用いるのです。これが第三です。これは次の45章の話の伏線になりますが、来週ここに焦点を当てます。今はその前にもう一度、エルサレムの再建を告げています。壊れたものを建て直してくださる。安心して住まわせてくださる。言い換えれば、どれほど私たちの今の生活が壊れているか、安心できない要素があるか、崖っぷちな現実があるかも、主はご存じでいてくださいます。「人が集まる都会なんだから仕方がない」と片付けず、そんな中で喜び歌えない、心のどこかに影が差すことを知っておられます。だから、再建する、と重ねて約束してくださっています。それは都の建物の外面的な再建だけではなく、生活の営みや人々の心や関係性も含めた再建です。
何よりも「神殿」とあります。第四は礼拝の再建です。建物や日曜日の礼拝式のこと以上に、礼拝者としての私たちの土台そのものの再建です。だから、この部分の最初は
あなたを贖い、あなたを母の胎内で形造った方、主は…
と言っていたのですね。胎児の私たちを造られた主は、エルサレムの再建に託して、私たちを建て直してくださる。再建してくださる。愚かな知恵や神ならぬものを崇める生き方から救い、主の都に住まわせてくださいます。私たちを建て直し、共に生きる生活を始めさせてくださる。そういう将来のビジョンをここに下さっています。「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。[viii]」「キリスト教は再出発の宗教である」と言います。何度でも何度でも立ち上がり、再出発させてくださる。そういえるのは、主がわたしが再建すると言ってくださるお方だからです。
「万物を造り、すべてを成し遂げられる主よ。母の胎内で私たちを造られたあなたは、私たちの住む町を備え、私たち自身を深く作り直してくださる主です。やがて、天も地も、山も木も喜び歌う時、私たちも声を上げるのでしょうか。まだ、悪の深さや人の罪、悲しみの方が強いように思える中、それを熟知しているあなたが、あらゆるものをも奇しく用いて、御心を前進させておられる――この信仰に与って、神の町の市民としての生き方を今始めさせてください」
[i] 天にも地にも、山々にも、喜び歌うようにと呼び掛ける大胆な言葉です。この呼びかけは、そもそも天も地も、神である主が創造されたからです。この世界は、初めに神が創造された神の手の業、神の作品です。その世界の中に生きている私たちも、神によって創造された作品です。しかし、その神に背を向けることを選んでしまった人間は、神に背きつつ、神に替わる何か縋(すが)るもの、崇め、慕い、礼拝するものを持たずにはおれません。それは、偶像の神々や宗教だったり、繁栄や名声だったり、家族や趣味や、その人にとっての手当たり次第の何かでしょう。
[ii] 45・7 わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。
8 天よ、上から滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開け。天地が救いを実らせるように。正義をともに芽生えさせよ。わたしは主。わたしがこれを創造した。」
11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう言われる。「これから起こることを、わたしに尋ねよ。わたしの子たちについて、またわたしの手のわざについて、あなたはわたしに命じるのか。
12 このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。
18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない。
[iii] イザヤ書39・6~9など。
[iv] 「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。」
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。
また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。
私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。
ヨハネの黙示録21・1〜27
[v] 「聖書学者J・アレック・モティアは「イザヤ書は正確には『都市の書」と呼ぶことができる」と書いている。彼は、イザヤ書では「エルサレム」、「シオン」、「山」、「町」はどれも神の御心と計画における都市の中心性を指し示す互換性のある用語であると述べている。この点で、歴史における霊的な戦いの概要が明確になる。歴史上の大きな霊的な戦いは、都市対地方ではなく、さながら『二都物語」のようだと言えるだろう。それは人間の都市の代表であるバビロンと神の都の象徴であるエルサレムとの間に見られる戦いである。地上の都市は神抜きで形成された人間生活の比喩であり、自己救済,自己奉仕,自己顕示を生み出す。搾取と不正の光景である。しかし、神の都は、神の栄光と神と隣人への犠牲的な奉仕に基づく社会である。この都市は、平和と正義という光景を提示する。アウグスティヌスが言うように、「謙虚な町は聖い人と善なる天使たちの社会である。高慢な町はよこしまな人と悪の天使の社会である。神の愛から始まる都市がある一方、自分への愛から始まる都市もある。」、ティム・ケラー『センターチャーチ』239頁。
[vi] 都市の再建については、ティム・ケラー『センターチャーチ』の第4部「都市のビジョン」(第11章「都市の緊張関係」から第14章「都市のための福音」、225~299ページ)を参照。
[vii] 淵 צוּלָה ツラー ここのみ。新改訳2017の欄外注は「11・15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中で御手をその川に向かって振り動かし、それを打って七つの水無し川とし、履き物のままで歩けるようにする。」
[viii] ヘブル12・28。

