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2024/5/26 ヨハネの福音書16章29〜33節「しかし、一人ではありません」

ヨハネの福音書の13章の途中から続いてきた、イエスの告別説教の最後になります。17章は結びの(長い)祈りです。しばらく口を挟まずに聞いていた弟子たちが、語り出します。

29…『本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。30あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。』」

「分かりました」と言うのです。確かにイエスはここでハッキリと話しました。譬えも控え、自分が去った後のことを話しています。イエスはすべてをご存じで、人がイエスに質問したいこともイエスはご存じでいてくださいます。イエスは神から来た方です。弟子たちの言う通りではあります。けれどもこれに対してイエスは

31…あなたがたは今、信じているのですか。」

と言います。それは「やっと分かったのか」というよりもむしろここまで「あなたがたは今は分からない」と言ってきたのです。「今あなたがたには耐えられない、助け主なる聖霊が来た時に分かるようになる、信じさせてくれる。今ではないよ」と教えてきたのに[i]、「今分かりました!」と早とちり、勇み足で有頂天に言う弟子への、冷静な応答です。だから、

32見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。…」

イエスは有頂天な弟子たちが、去って行く将来を見据えています。ヨハネはイエス逮捕で弟子たちが逃げて行くことには触れません。「自分のところに」[ii]とは、むしろ復活した後、21章で弟子たちの故郷のガリラヤに帰って、漁に出て行くことでしょう。イエスの逮捕なんて危険に仕方なく逃げるというより、復活したイエスと再会しても、弟子たちはイエスを残して自分の生活に帰るのです。人間が「私は分かりました。今、信じました」と胸を張っても、それは吹けば飛ぶような「今」でしかないのです。けれどもイエスはそれが寂しいと冷めて言ってはいないのです。

「…しかし、父がともにおられるので、わたしは一人ではありません。」

決して一人にはなりません。父なる神がいるからです。

イエスの根拠は父との揺るがない関係にあります。弟子たちが離れ、たとえ全世界がイエスを見捨てたとしても、父なる神がいつもイエスとともにいます。ヨハネの福音書は、十字架に御子を与えたことも御父の愛であり、御父と御子の愛の中でなされたと語ります[iii]。その御父との絶対的な愛から、御子イエスは弟子たちとともに過ごしました。その揺るがない絆は、弟子たちがイエスから離れて行っても、変わることがありません。むしろ、この御父と御子との愛こそ、私たちがイエスから戴く根拠です。私がイエスを棄てても、イエスは決して一人ではない。そして、この神は私たちを決して見捨てず離れない。ですから

「わたしは一人ではありません。」

は私たちにも与えられた言葉です。人が私を一人残しても、しかし私は一人ではありません、御父がイエスにあって私とともにいますから、と。この32節の言葉は、獄中の宗教改革者を慰めました[iv]。イエスがこれを語ったのも弟子たちが平安を得るためです。

33これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです…。」

イエスが弟子たちの言葉に、ある意味で否定的な、出鼻を挫くような返事をしたのは、イエスにある平安を持たせたかったからです。自分の信仰や頑張り、自信が崩れる時、そんな恥ずべき自分に居たたまれない思いをする時、一人孤独に残されたように思う時も、父と御子とが共にいる、愛の神は変わることがありません。その神の愛から、イエスが遣わされ、聖霊が遣わされて私たちとともにいる。それは、私たちがイエスにあって持てる平安です。

あるいは「これらのこと」には広く14章からの説教全体のことでしょうか。この夜の説教でイエスが伝えたは、弟子たちに、頑張って信じなさい、これを分かった人をわたしは喜ぶ、という要求ではありません。自ら弟子の足を洗う模範をもって

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」

という新しい戒めを与えたのです。イエスが去った後、残された弟子たち――互いに性格や個性も違う、地上にあっては罪がある、不完全な人間同士の弟子たち――が、互いに愛し合う(尊ぶ、大事にする、受け入れる)という新しい戒めが、この遺言説教の肝です。そのために助け主なる聖霊が来ることも語られました。

しかしその主の戒めを妨げて、弟子たちは「今私たちは分かりました。信じます」と言います。その自信・プライドが砕かれる時が来るでしょう。

33…世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

苦難がある。病気、悩み、災害、健康や経済的な問題、家族や人間関係、色々な苦難…。これは21節にあった「激しい痛み」と同じ言葉です[v]。激しい痛み。それは出産の時の激しい痛みです。産み出すための痛み。つまり外から襲い来る苦難、災害、悩みと共に、私たちの内側に生じる痛みも苦難に入ります。イエスが私たちを愛する者へと産み出されるに伴う苦難です。自分には信仰がある、愛がある、知識があると思っていたのが、そうでなかったと気づかされる衝撃。自分の愛のなさ、他者を受け入れられない狭さ、変わることを拒む意固地さ…そしてそれらを認めて丸裸になることへの恐れ。

弱い自分に直面するのは耐え難いことです。人をもガッカリさせ、イエス様も軽蔑されるだろうと思います。軽蔑されたくない、失望されるなんて耐えられない…。でもそういう動機で頑張るのこそ、それが世の方法です。弱さを見せず、強く、立派で、間違いを認めたくないのが男らしさ、勇敢さと思われている。それが出来ないなら何か罪が原因だ…、これこそ、イエスとは真逆の、世の理屈です。「諸悪の根源」だとさえ言える。イエスと御父の愛を信じる生き方ではなく、不安や恐怖に裏付けられた、間違った、死にいたる道です。

そんなガードの固い私たちが、イエスと御父とに愛されていることを受け入れ、愛されているように愛させてくださいと祈って、変えられることに自分を差し出すこと。これこそ本当の勇気です。[vi]

「勇気を出す」

を多くの英語聖書はTake heart「心を取り戻しなさい」と訳します。本当の勇気は、心を取り戻す事、自分の弱さや罪や恥も含めた正直な事実を認めることです[vii]。私の弱さ、隠したい正直な恐れ、愛には遠い自分の本音…それを私たち以上にイエスは十分知ってくれています。そして、私たちが背伸びをしたりヘたれたりしても変わらない、父と御子との愛をもって、私たちを愛し、聖霊によって助けてくださっています。イエスの勇気とは、この世を愛し、愛によってこの世に勝利しました。無条件の愛を否定する世に対して、愛を全うすることで、イエスは世に勝ったのです。

「勝ちました」はヨハネの福音書ではここしか出て来ません[viii]。しかし、ヨハネの手紙とヨハネの黙示録では、繰り返されるキーワードです。ヨハネの手紙第一は、愛しなさい、神は愛です、神の命令は愛です、と愛という言葉を51回も繰り返しています[ix]。その愛の手紙の中で

「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」

と言う勝利の言葉が輝いているのです。イエスが私を、弱い人を、世が愛さないような人を愛して勝利された。そのイエスを信じる者も世に勝つ。

勇気や信仰さえ自分を覆う鎧にしたがる世にあって、他者と共に生きること、イエスが愛された、自分とは違う人を愛するのは、外からの苦難に匹敵する苦難です。自分の間違いや、自分とは違う考え、個性を認めるのは痛いことです。しかし、その時のためにこの言葉が語られました。

「しかし一人ではない、しかしわたしは世に勝った」

と言われるイエスがいます。私たちを勇気をもって愛したイエスは、私たちを既に勝ち取ってくれました。その言葉に勇気づけられて、私たちは心を取り戻せます。自分の罪も弱さも恐れも認めながら、イエスの愛に立ち戻ります。

そして、自分だけではありません、どんな人も、私たちや社会が見捨てるとしても、決してひとりではありません、神とイエスがその人とともにいてくださいます。だから、私たちもその人と共に生きたい、主がともにいてくださる者同士、ともにいることを大事にしたいと思います。

このイエスに愛された者同士、共に生きることを学ばせてくださるのです。

「私たちを愛したもう主よ。あなたこそ愛の太陽です。私たちはそれを映す月に過ぎませんが、どうぞあなたの愛と勇気を映させてください。世の苦難の中で支え、痛みを耐えさせてください。自分の弱さを認め、あなたにも他者にも心を開かせてください。あなたの愛を無条件に受け取らせてください。あなたは世の誤りよりも強く、私たちの罪やプライドよりも強い方です。どうぞ今、あなたの愛に包まれて、心を取り戻して、遣わされていく幸いをお恵みください。」

[i] ヨハネの福音書13章19節(事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。)、14章20節(その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。)、29節(今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。)、16章13節(しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。)

[ii] 「(自分の)ところに」 イディオス 10回:1章11節(この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。)、41節(彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。)、4章44節(イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。)、5章18節(そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。)、43節、7章18節(自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。)、8章44節(あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。)、10章3〜4節(門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。4羊たち[直訳:自分のものたち]をみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。)、12節(牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。)、13章1節(さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。)、15章19節(もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。)、16章32節(見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。)、19章27節(それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。)

[iii] 他の福音書は十字架においてイエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と叫んだ言葉を記して、父なる神もイエスを見捨てた面を語ります(マタイの福音書27章46節、他。)が、ヨハネの視点は別角度の理解を与えてくれます。

[iv] 山室軍平。

[v] ギスリプシス。

[vi] だから勇気を持てるのです。勇敢なふりをして虚勢を張り、弱さや恐れを必死に隠すのではありません。そういう自分の面子は、父もイエスも知らない世のものです。その世にイエスは既に勝ちました。

[vii] ブレネー・ブラウン『本当の勇気は「弱さ」を認めること』、サンマーク出版、門脇陽子、2013年。

[viii] 勝ちました ニカオー ヨハネの福音書ではここのみ。しかし、Iヨハネで6回、黙示録で17回も。そのほかには、ルカの福音書11章22節とローマ書3章4節、12章21節だけ。:Iヨハネ2章13〜14節(父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。14幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。)、4章4節(子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。)、5章4節(神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5               世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。)、ヨハネの黙示録2章7節(耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』)、11節(耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。』)、17節(耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』)、26節(勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。)、28節(わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。)、3章5節(勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。)、12節(わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。)、21節(勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。)、5章5節(すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」)、6章2節(私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。)、11章7節(二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。)、12章8節(勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。)、11節(兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。)、13章7節(獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。)、15章2節(私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。)、17章14節(彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」)、21章7節(勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。)

[ix] https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/ce45d8e59a8bfd8fcc8d30220d4aa19d