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2024/3/10ヨハネの福音書11節「わたしはぶどうの木」

皆さんの生活には葡萄はよく乗るでしょうか。池戸キリスト教会の西側フェンスには、葡萄の蔓(つる)が這って、毎年少しずつ伸びています。桜や杉のような堂々とした大樹ではないし、花や紅葉で美しく飾られることもありません[i]。葡萄の棚が並ぶ葡萄園は見事な壮観ですが、聖書の時代は棚ではなく、杭に巻きつける農法でした[ii]。そんな地味な葡萄を指して、イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」最後の晩餐の席でこう言いました。この「わたしは○○です(いのちのパン、良い羊飼い、道)」という言い方は今までヨハネ福音書で6回繰り返されてきました[iii]。7回目、最後の〆がこの

「わたしはぶどうの木」

です。最後を飾るに相応しい、本当に豊かで喜ばしいイメージです。本当にここに留まりたいのです。

葡萄(ぶどう)は聖書の世界で最も大切な木で、イスラエルの生活に切り離せない果樹です。生活に密着した果物だけに、神の民イスラエルの象徴でもありました[iv]。イザヤ5章1〜7節は歌います。

「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。」

しかしこの後、その葡萄の木が、甘い実ではなく、酸っぱい葡萄を成らせた、つまり、イスラエルの民が神からの祝福に生きず、命を失った現状を嘆く言葉が続きます。そういう名ばかりのイスラエルを意識して、イエスは

「わたしはまことのぶどうの木」

と言うのです。そして

「わたしの父は農夫です。2わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように刈り込みをなさいます」

と葡萄園の農夫の管理・手入れによって実を結ばされていくと思い描かせます。

「刈り込み」に欄外注があります。「直訳「きよくなさいます」」です。刈り込みは木の形を整え、清くすること。より豊かに実を結ばせるため、農夫が枝を整えるのです。2節前半の実を結ばない枝を「取り除き」という言葉も、「持ち上げる」が直訳です。実を結ばないからと切るのではなく、持ち上げて泥や汚れをきれいに洗い、杭に引っ掛けて風通しを良くするのです。ぶどうの木を丁寧に世話することが、豊かな実りになることを知って、農夫はそうします。

この「きよくする(刈り込み)」がそのまま、私たちとイエス、また父なる神との関係に当てられます。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」

イエスは、その言葉で弟子たちをきよめる、余計な枝を刈り込んでもっと実を結ばせるように、私たちの生き方を整え、なくてならないものは何か、最も大切なものは何か、気づかせてくださって、私たちを実りある者としてくださるのです。「すでにきよいのです。」刈り込みは主のわざです。自分で刈り込め、きよくなれと命じられてはいません。命じられるのは、

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

とどまりなさい、枝が葡萄の木につながっている)ように、わたしにとどまっていなさい。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

この短い4〜7節にとどまると9回も繰り返されます。強調は「実を結びなさい」ではありません。聖書が「実を結びなさい」と言うのは一度皮肉で言うだけです[v]。ここでも命じられているのは、とどまっていなさいです[vi]。そうすれば結果として実を結ぶのです。「早く実を出せ、ぶどうの木、出さぬとハサミでちょん切るぞ」ではない。全く違うのです。

実りが豊かにあればと誰もが憧れます。成果を上げている人を羨ましく思います。でも実(み)は文字通り「結果」です。大事なのは主に結ばれていることです。実は、時が来れば結ばれます。実を実らせよう、せめて実があるふりをしてでも人として、あるいはキリスト者としての見せかけを装おうとしたり、神も実を求めているに違いないと思う。そういう中で、イエスは言うのです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしにとどまっていなさい。」

枝が繋がって生きているなら、時が来れば、実を結びます。勿論、繋がっていても何らかの原因で実を結べないこともあります。そんな状態も主イエスはご存知で、その枝を持ち上げ、汚れを洗い、風通しをよくしてくださるので、切り捨てはしません[vii]。留まっていても実を結ばない特例はともかく、それ以前に、そもそも幹に繋がることを忘れていることが多い。

以前、葡萄の農園で働いた方が話してくれました。葡萄の枝は幹にしっかりと繋がっていて、切るのも大変だそうです。ポキッと折れたりなんかしないのです。だから「イエス様が葡萄の木で私たちがその枝だって、こんなにシッカリと結び付けられていることなんだと分かった」と嬉しそうに話してくれた、忘れられない会話です。そんな葡萄と枝の譬えで、イエスは私たちがどんなにシッカリ結び付けられているか思い描かせてくださいます。私たちがイエスを握り締めるのではなく、イエスが私を握りしめてくださっている。

9節では

「…わたしの愛に留まりなさい」

と言い換え、10節では

「…わたしの戒めを守る…」

と言い換えて、葡萄の枝のイメージが膨らまされます。イエスの愛は、私たちを愛していのちをも惜しまず捨てた愛です。その愛によって、イエスに愛されたように私たちをも互いに愛し合わせる、それがイエスの戒めであり、イエスの愛です。そのイエスの愛のいのちに、私たちは既に捉えられています。ここに繰り返して立ち戻り、留まり続けるのです。そして私たちがその主に結ばれて豊かな命を頂くなら、枝が実を結ぶように私たちは実を結び、主の栄光を現す。これが福音です[viii]。この恵みの福音に立ち戻る、留まるのです。

それは苦行ではなく喜びです。

11わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

喜びに満ち溢れる! これが実ですね。イエスを知り、自分の考えや生き方の「刈り込み」をしてもらいながら[ix]、イエスの愛に留まっていく時、結果として喜びの実が溢れる。そういう豊かな命を、「葡萄の木」というモデルは教えてくれます。聖書の福音は、単純な救済モデルだけでなく、この「ぶどうの木モデル」に表される、生き生きとした命の面も持っています[x]。そして、この命から離れて、自分で実を実らせようとか、神も実を求めているとか、喜びを下さろうという主の御心から離れてしまう。ただ単純に主に繋がることを忘れてしまう。だからイエスは葡萄の木を持ち出すのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と。

この福音書の著者ヨハネは晩年、老齢になり弱くなってきた頃、説教に立って語ったのはいつも同じ説教でした。「互いに愛し合いなさい」。こればかり説教した。とうとう弟子が「それは前にも聞いたので、今度は違う話をしてください」とお願いしたら、「これが全て。これで十分」と言ったそうです。半世紀以上の伝道者生涯で、外からの迫害の厳しさも、教会内の人間関係の難しさも、舐め尽くしていたヨハネです。葡萄の木の刈り込みは冬の時期にするそうで、そろそろ終わった頃でしょうか。ヨハネも教会の冬の時代を経験して、様々な枝葉を刈り込まれました。そうして、もう「互いに愛し合いなさい」これで十分、と思うに至ったのです。そして主もまた、真冬より寒々しい思いをしながらも私たちを愛し続け、私たちの罪にも関わらず私たちに留まってくださいます[xi]。ここに立ち戻る中、私たちは喜びに溢れ、その結果として、実を結ぶ枝とされる…、愛なんて甘いという世界に命を届ける存在となるのです。

「私たちの葡萄の木である主よ。私たちはあなたの枝です。あなたの深い謙りと十字架の命により、主に結ばれた幸いを感謝します。ここからすぐに彷徨い、余計な枝葉をつけてしまう私達を、どうぞこの言葉により、あなたに立ち戻らせてください。私たちはあなたを離れては何も出来ないのですから。まもなく受難週。主がその苦しみをも厭わずに、私たちに命を下さった恵みを味わわせてください。その恵みから、私たちもこの時代に実を結ぶ枝としてください」

[i] 士師記9章12〜13節(木々はぶどうの木に言った。『あなたが来て、私たちの王となってください。』13しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人を喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために行かなければならないのだろうか。』)、エゼキエル15章1〜8節(次のような主のことばが私にあった。2「人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。3 何か役に立つものを作る木材が、そこからとれるというのか。それとも、何かの器具を掛ける木鉤を作ることができるというのか。4見よ。それは薪として火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中まで焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。5見よ。それが完全なときでも何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして焦がせば、それで何が作れるだろうか。」)

[ii] Wikipedia「葡萄の栽培」より

[iii] 「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:7)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)

[iv] ぶどうをイスラエルに例えるのは、詩篇80篇8節(あなたは エジプトから ぶどうの木を引き抜き 異邦の民を追い出して それを植えられました。)、14節(万軍の神よ どうか帰って来てください。 天から目を注ぎ ご覧になってください。 このぶどうの木を顧みてください。)、イザヤ5章1〜7節(さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。2彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。3今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。5さあ、今度はわたしがあなたがたに知らせよう。わたしが、わがぶどう畑に対してすることを。わたしはその垣を取り払い、荒れすたれるに任せ、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。7万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。)、27章2節(「その日、麗しいぶどう畑について歌え。)、エレミヤ2章21節(わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。)、エゼキエル15章1〜8節(次のような主のことばが私にあった。2「人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。3 何か役に立つものを作る木材が、そこからとれるというのか。それとも、何かの器具を掛ける木鉤を作ることができるというのか。4見よ。それは薪として火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中まで焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。5見よ。それが完全なときでも何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして焦がせば、それで何が作れるだろうか。」6それゆえ、神である主はこう言われる。「わたしが薪として火に投げ入れた、森の木立の間のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。7わたしは彼らに敵対して顔を向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを焼き尽くす。わたしが彼らに顔を向けるそのとき、あなたがたはわたしが主であることを知る。8彼らがわたしの信頼を裏切ったので、わたしはこの地を荒れ果てさせる──神である主のことば。」)、17章6〜8節(それは生長し、丈は低いが、よく生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向き、根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を作り、若枝を出した。7さて、大きな翼と豊かな羽毛を持つもう一羽の大鷲がいた。すると、このぶどうの木は、潤いを得るために根をその鷲の方に向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっているところからその鷲の方に伸ばした。8このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結んで見事なぶどうの木となるように、水の豊かな良い地に植えられていた。』)、19章10節(あなたの母は、水のほとりに植えられた、あなたのぶどう園のぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。)、ホセア10章1節(イスラエルは生い茂るぶどうの木。それは多くの実をつけた。実が増えるにしたがって祭壇の数を増やし、その地が豊かになるにしたがって石の柱を豊かにした。)、ルカ13章6節(イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。7そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』)

[v] マタイの福音書3章8節(それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。)、ルカの福音書3章8節(それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。)

[vi] 「もし私たちが聖でありたいなら、私たちは十字架のもとに行き、そこに宿らなければならない。さもないと、私たちは、私たちのあるゆる労働、勤勉、断食、祈り、善行にも関わらず、まだ真の聖化に欠け、明確な十字架の視点に付随する謙遜で慈悲深い性質を欠如することになる。。。聖性についての誤解は、偽りの信仰を告白する人たちの間だけではなく、正しい信仰を告白する人たちの間にも広がっている。私たちに対する神の愛と神に対する私たちの愛、この両者が聖性を生み出すために共に働くのである。恐怖は真の従順を達成しない。実も結ばることもできない。。。神の愛顧の中に無償で温かく迎え入れられることは、自分の全ての罪過をこのように無償で赦して下さった方と同じになりたいと願わせる、あらゆる動機の中で最も強い動機となるのである。」ホレイシャス・ボーナー

[vii] 汚れた足を洗い、聖霊を送るとの約束は、実を結ばせるための丁寧な配慮です。

[viii] 私たちはつい「一生懸命イエスに繋がっていなくちゃ」と、必死にしがみ付く信仰に傾いたと考えたり、「頑張って実を結ばなくちゃ、投げ捨てられて火に焼かれる」とか、思ったりしてしまう。そういう頑張りや力みが、葡萄の枝、という絵によって覆されます。

[ix] ナウエン「その全貌は、最後の別れの場面で明らかになりました。イエスがご自身を、新しい家であると言われたのです。「あなたの住まいをわたしの内に造りなさい。わたしもあなたの内に住まいを造ります(英訳)」。

神の満ち満ちているイエスご自身が、私たちの住まいとなってくださいました。私たちの内にイエスの住まいを持つことで、私たちも、イエスの内に住むことができます。私たちの最も深い自己の中に、イエスが親しく住んでくださったことで、イエスご自身が保っている神との親しさに私たちも加わる機会が開かれました。イエスがあえて私たちを住まいに選ばれたことにより、私たちもあえてイエスを住まいに選ぶように招かれています。これこそが、受肉の持つ奥義です。48〜49ページ

「イエスは言われました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。中たしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れ(刈り込み)をなさる」(ヨハネ15・1~2)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である

今日の福音書の言葉は、苦悩についての新しい展望を開いてくれました。刈り込みは木がより多くの実を結ぶ助けになるというのです。たとえ私が実を結び、神の国のためにあることをなし、人々が私によってイエスをより深く知ることができたと感謝しても、私にはさらに多くの刈り込みが必要です。

多くの不必要な枝や小枝が、実をたくさん結ぶのを妨げています。それらは切り取らねばなりません。それには痛みが伴います。不必要かどうか自覚しているわけでないので、なおいっそう痛みを感じます。さらに、それは美しく、魅力的で、とても活き活きと見えることが多いのです。でも、切り捨てねばなりません。実をより豊かに実らすために。

このことは私にとり、拒絶のつらさ、孤独な時期、心の闇と絶望感、人からの支援と愛情への飢餓は、神による刈り込みかもしれないと受け止める助けになります。人生での少しの実りを見て、私はあまりに早く満足してしまったかもしれません。「それなりに、あちこちで良いことをしたではないか。少しでもできたのだから感謝し、満足すべきだ」と。でも、もしかしてそれは偽りの慎み、あるいは霊的怠慢の一つかもしれません。神はさらなることに招いています。刈り込みをしたいのです。刈り込まれた木は見栄えがしません。しかし収穫の時には、多くの実を結びます。

私の人生における最も大きなチャレンジは、神の刈り込みの手を認め続けることです。そうすれば、恨みがましさや落胆を遠ざけることができ、さらには自分の考えている以上の結実に招かれていることを知って、なおいっそう感謝の思いにあふれるでしょう。そのとき、苦悩は清めへの道となり、奢らずに、深い感謝の念と共にその実りを喜ぶ者となれるでしょう。115〜116ページ

[x] ティム・ケラーは「福音はそれほど単純ではない」と題した章で、三つの福音モデルを紹介しています。「帰郷/追放」テーマでは「はじめに創造されたのは、安息とシャロームの場所」、「罪とは、そしてその結果」は「シャロームを破壊する自己中心」、「イスラエルは」「エジプト、そしてバビロンに捕囚となる」、「イエス・キリスト」は「拒絶されたが、復活し、死を打ち破った主」、「回復」は「神の都」とする。「ヤハウェ/契約」モデルでは「はじめに創造されたのは」「神との誠実な契約の愛の関係」、「罪とは、そしてその結果」は「神の呪いと怒りをもたらす不従順」、「イスラエル」は「誠実であることを求められるが不誠実となる」、「イエス・キリスト」は「罪の呪いを背負い、苦しみを受ける僕であり、新しい契約の主」、「回復」は「神の子羊の婚宴」。「王国」モデルでは、「はじめに創造されたのは」「神の王国と王政」、「罪とは、そしてその結果」は「霊的な奴隷状態をもたらす偶像礼拝」、「イスラエル」は「真の裁判官/王を探している」、「イエス・キリスト」は「私たちをこの世、肉、悪魔から解放するために再来する真の王」、「回復」は「神の統治の下での神の回復」とします。『センター・チャーチ』64〜69ページ。

[xi] 「「わたしの愛にとどまりなさい」イエスはこう言われました。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネ15・10)。イエスは、その愛の内にとどまるようにと私を招いています。それは、私がありのままの姿で、イエスの内に住むということです。それは、すべてをイエスのものとする、あふれるほどの親密さという、いつまでも共にいることへの招きです。

先週中、私を悩ませたしつこい不安は、自分の中の大きな部分が、いまだにイエスの内に「とどまって」いないことを明らかにしました。今もって私の思考も感情も、真に住むべき場所から逃げ続けよつとし、結局は、怒り、恨み、快楽、恐れ、苦悩へと行き着くしかない、見知らぬ土地を探し求めています。霊的な生活をするとは、自分の内のあらゆる部分を、本来のあるべき場所に置くことであると痛感しました。

イエスは、ご自身がもたらそうとする親しい関係を、ぶどうの木と枝のつながりとして描いています。枝がぶどうの木とつながっているように、イエスに接ぎ木されることを私は切望します。私の全生活が、ぶどうの木から生じるためです。ぶどうの木であるイエスとの親しい交わりの中で、私の小さな命は成長し、実を結ぶことができます。私はそのことを知ってはいますが、それを生きてはいません。私はまるで、イエス以外のところに命の源を探求すべきであるかのように生きています。しかしイエスは、絶えずこう語っています。「わたしのところに帰りなさい。あなたの重荷、すべての心配事、恐れ、不安をわたしに預けなさい。わたしといれば休息を見いだせることに信頼しなさい」。私はこの愛の語りかけを聴き、このいやしの力に信頼しようともがいています。

私は自分の家がイエスにあることをよく分かっています。ちょうどイエスの家が、神の内にあるように。またさらに、イエスの内にとどまれば、イエスと共に神の内にとどまることも知っています。イエスは言われました。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される」(ヨハネ14・21)。

真になすべき霊的な作業は、神によって十二分に、完全に私を愛していただくことであり、その愛のうちに自分の召命が成就するのだと信頼することです。私はこれからも、さまよい、落ち着かず、不安にとらわれがちな自己を、主の家に連れ戻し続けようと思います。神の愛に抱かれ、そこで休息することができるために。116〜117ページ」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』