2023/6/4 ヨハネの福音書7章53~8章11節「身をかがめて」転入会式・聖餐式のある礼拝[i]
この個所は53節から8章11節まで括弧で括っています。53節の欄外にあるように、「古い写本のほとんどが七53-八11を欠いていて」、元々ヨハネが書いたのではない出来事、後からここや他の箇所に書き加えられて[ii]、今私たちが読むことが出来ているものです。
勿論、話自体が後代の創作だとは考えられておらず、これは実にイエスらしい出来事です。神の愛と赦しの恵みを教えたイエスのお姿を、最も豊かに伝える出来事の一つです。「律法学者とパリサイ人」当時の宗教的権威、指導者たちはイエスを憎み、やってきました[iii]。彼らは、
3…姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに銘じています。あなたは何と言われますか。」
旧約聖書で指導者モーセは、夫や妻以外の相手との不貞行為を禁じています[iv]。その現場で捕らえられたという女性が連れて来られたのです。イエスよ、普段は愛を語るあなたも、律法通り石打ちにせよというか、それとも、愛と赦しを語るあなたは、律法を破らせるのか。どちらにも答えにくい難問でした[v]。そもそも
6彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。
という罠でした。姦淫を悲しみ怒っていたからでなく、イエスを訴えたかっただけ。そういえば、姦淫の現場というなら、相手の男はどうしてここにいないのでしょう。こんなところからも、彼らの悪意、不誠実さが思えてなりません。
ところがイエスは直ぐには答えず
イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
それでも彼らがしつこく問い続けるので、
7…イエスは身を起して言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」8そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
こう応じられます。そうです。律法は姦淫だけでなく、悪を図ること、弱者を困らせることを罪として禁じています[vi]。あっちの罪が極刑で、自分はまし、などとは神の前に言えません。これは痛い現実です[vii]。こう言われると、
9彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
「年長者たちから」[viii]。人生が長くなれば、自分は潔白だなどと言えなくなります。しかし年を取るからこそ一層頑固になり、非を認めるのが居たたまれなくなりもします。実際、彼らがその手に石打ちの石を握っていたとは書かれていませんが、きっと見えない石がギュッとあったでしょう。冷たい言葉、さばく心は、本当の石と同じぐらい、人を傷つけます。余りにも長く見えない石を握っていると、手放すなんて考えられなくなります。ですから、年長者も後の人々も、石打ちを止めるだけでなく、そこを去ってしまいます。取り敢えず石を投げるのはやめたけれど、手は固く握ったまま、冷たい口と固い心のままならで終わるなら残念です[ix]。
10イエスは身を起して、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」11彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」…
ずっと屈んでいたイエスが、身を起して[x]こう彼女に声をかけました。そう、イエスが何を書いていたかは分かりません。彼らの罪を書いていたとか、聖書のあの言葉だとか、様々に想像します[xi]。聖書にはイエスが直接書いた文書はなく、ここが唯一イエスが文字を書いた記録ですが、何を書いたのでしょうか[xii]。ただ、イエスはこの女性のそばにしゃがみ、指で地面に何か書いていじりながら、ともにいました。折角の唯一の言葉が何かより、立たされている女性のそばにいることの方が大事かのように、身をかがめている姿を、心に刻みたいのです[xiii]。
…イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕
罪のない者はいないと誰よりも知っているお方が、「姦淫の女」という烙印を押さずに、罪のない生き方を語ります[xiv]。罪を容認したり大目に見たりはしません。聖書が罪を禁じるのは、罪がもたらす害を知っているからです。姦淫や嘘、また言葉や態度で石を投げることの悲惨な結末を嘆くからです[xv]。しかし聖書は罪を断罪するだけでなく、希望と将来を語ります。そのための悔い改めと具体的な処方箋を伝えます。罪や冷たい正義に、石のように固くなった心を、神は、肉のように柔らかく、温かく、血の通ったものとすると語ります。そのために、神の子イエスが天から低く身をかがめて人となり、人のそばに立ち、十字架と死の深みにまで低くなった事実を伝えるのが聖書です。このイエスの言葉と愛に包まれて、私たちは罪を犯さないという以上の希望、聖書が言う、神を愛し、隣人を自分のように愛する生き方に踏み出すことが出来るのです[xvi]。その希望に立ち戻って、罪のない者はいない私たちが、石を投げ合うのでない、イエスとともにかがみ、立ち上がり、罪を犯さないよう助け合うのが教会なのです[xvii]。
「私たちを愛したもう主よ。この出来事を、忘れさせずに聖書に残してくださり、有り難うございます[xviii]。本当にあなたは赦しと和解の恵みの方で、それを私たちに届けるため、身を低くしてくださる方です。どうぞ私たちをお救いください。罪を選ぶことからも、それを裁く冷たく固い心からも、お救いください。あなたがわざわざ残してくださったこの尊い箇所に、これからも立ち帰り、傲慢を砕き、赦されて生きる恵みに立ち戻らせてください。御名によって」
[i] この礼拝の前の週、池戸キリスト教会では「特別礼拝」として、田村治郎氏(国際飢餓対策機構巡回牧師)を迎え、「赦しに生かされて」と題する伝道説教をしていただきました。この主題のプログラムに続いての今日の礼拝において、ヨハネの福音書の連続講解説教の順番として、この個所を開くこととなりました。このタイミングを、主の尊い御配慮として受け止め、ともに「罪のない者が石を投げよ」のこの個所に聴きたいと思います。
[ii] F. F. Bruce「これを含むヨハネの写本の中で、大多数はそれを 7:52 と 8:12 の間に配置しています。 7:36 以降、7:44 後、または 21:25 以降に配置する人もいます。ある写本のファミリー (ファミリー 13) では、これがルカ 21:38 の後に置かれています。これを収めた証人の多くは、その原文の証明が不確実であることを示すために、アスタリスクや短剣でマークしています。」DeepLで翻訳
[iii] 他の福音書では定型文で出てくる「律法学者とパリサイ人」ですが、ヨハネの福音書に「律法学者」単体でさえ登場することはここ以外にありません。このことも、このエピソードが、ヨハネのオリジナルの筆によるものではない論拠です。
[iv] 出エジプト記20章14節(姦淫してはならない)、レビ記 20章10節(人が他人の妻と姦淫したなら、すなわち自分の隣人の妻と姦淫したなら、その姦淫した男も女も必ず殺されなければならない。)、申命記 22章22節(夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。)、など。「石打」とまでは言いませんが、厳罰とされました。
[v] 当時の事情からもう少し踏み込んで言えば、ユダヤ人はローマの許可なく死刑を行うことは出来なかったので、(ヨハネの福音書19章31節:そこで、ピラトは言った。「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」ユダヤ人たちは言った。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」)、もしイエスの答えが石打ちを選んだとしたら、ローマに逆らう反逆罪で訴えることも見越していた、とも考えられます。しかし、この記事がいつ書かれたにせよ、ヨハネの福音書の時期でさえ、既にエルサレムはローマによって陥落し、政治的な統治関係はありませんでした。また、今日に至るまで、このような企みは続いており、それぞれの時代・状況に即した、政治的な影響は何かしらあるものです。処刑の権限とローマへの反逆罪の要素は、本質的なものではないと考えて良いでしょう。
[vi] 私たちは、誰もが罪を犯さずに生きてはいない。あからさまな罪もあれば、隠れた罪もある。また、「自分が正しい」と冷たく思い、他者を見下し、責めるとしたら、それこそたちの悪い罪だ、というのが聖書の理解。神は究極に正しい方だが、だからこそ、罪ある者を悔い改めと再出発に導く方。ご自身がどんな犠牲・痛み・忍耐を払うとしても。その神を差し置いて、自分を義とするのは、神よりも自分を基準とする罪。
[vii] 「あなたがたの中で罪のない者が」。直球で帰って来る言葉です。これを読む私たちも突きつけられます。「姦淫ほど酷い罪はしていない。あの人ほど責められるような過去はない。自分も偉そうなことは言えないが、あんな悪は許しちゃいかんよ。」そう思っていたら、イエスの言葉は衝撃的です。
[viii] 年長者 プレスビュテロス=長老 長老教会は、長老たちこそさばきの場から最初に、自分の罪を自覚して、離れて、集まっている場でありたいと願います。
[ix] 私たちが「自分には罪があって、人様に石を投げ、さばくことは出来ない」と思うことがゴールではない。さばかずに、「行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません」と言ってくださる方、言い続けてくださる方、人の裁きや冷たい言葉から身を盾にして守ってくださる方の言葉を聴くこと、聴き続けることで、生かされる。それがこの箇所から私たちへのメッセージなのです。
[x] 身を起こして アナクプトー 7節と10節。身をまっすぐに起こして。(ルカ13章11節、21章28節)。この個所に出てくる多くのギリシャ語は、ヨハネではここ以外使われない言葉です。これも、このエピソードがもともとヨハネの筆によるものではないとする理由の一つです。
[xi] たとえば、多くの人が十戒だとか、エレミヤ17章13節を想定します。いずれにせよ、イエスが聴き続けたのは、神のことばであることは確かです。自分への非難や彼らの悪意の言葉を黙って溜め込んで、反論を書いていたのではないでしょう。イエスが聞き続けたのは、父なる神のことばです。その言葉こそ、イエスがここで記したのではないか、と思い巡らします。
[xii] イエスが何を書いていたのかよりも、律法学者たちは自分の言葉・議論に囚われていたのかもしれません(私たちの多くが、対立する関係にある相手と話すとき、相手の言葉よりも、自分の言葉や次に言うべき言葉を考えているものです)。イエスの弟子たちやこの女性は、あまりに緊迫していて、イエスの言葉に注意する余裕さえなかったのかもしれません。私たちも、イエスが何を書いていたよりも、自分自身の罪、恥ずべき冷たさを恥じ入るべき者ではないか。
[xiii] 身を屈めて クプトー 6節8節と、マルコ1章7節の三回だけ。洗礼者ヨハネが身を屈めて靴のひもを解く値打ちもない、と言った言葉。しかし、イエスこそは身を屈めて、弟子や罪人、私たちに仕えてくださるお方。石を投げるより、パンを下さり、いのちのことばを下さり、足を洗ってくださった。
[xiv] 最後の言葉「これからは決して罪を犯してはなりませんメーケティ・ハマルタネ」は、「あなたはもう罪を犯すことはできなくなったという程の意味」加藤常昭、240ページ。「決して罪を犯すなよ」という命令や、「二度目はないぞ」と脅す言葉ではないのです!
[xv] 罪を犯すな、と言われる罪の、根本的な罪は、この神から離れること。神以外のもの、自分の名誉とか力、安心、欲望を、究極のものとすること。それ自体は良い物を、神そのものにすり替えてしまうこと。神のもとから去ること。神を神とせず、神との関係に生きないこと。それを棚上げして、「自分も悪いがあいつはもっと悪い」と自分を正当化する。しかし、多く赦された者こそ多く愛する。少ししか赦しを必要としない、という者は神を愛することも、人を愛することも出来ない。この厳しさこそ、聖書によって立ち戻らされるメッセージです。
[xvi] これに続くイエスの言葉は、12節「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 さばきではなく、激励でもなく、光の中を歩ませてくださるイエスなのだ。
[xvii] なぜ私たちは固く冷たい石を握っているのだろうか。それを「罪」として片付けることさえ、石をますますギュッと握りしめさせるだけなのではないか。あらゆる形で、石を投げられ、投げられることを恐れ、そう思い込んでいるのであり、それこそ堕落がもたらしたものではないか。
[xviii] この時イエスが何を地面に書いていたのかは分からないが、この記事そのものが書かれずに忘れられることを神はよしとされなかった。どのような経緯でか、ここに再録され、今に至るまで伝えられている。この神によって、私たちは赦しに立ち戻り、自分のさばきから救い出される。私たちの罪を記録するのでなく、私たちの赦しとイエスの力強い恵みとを刻んで残す神を仰ぐ。