2023/6/11 ヨハネの福音書8章12-20節「わたしは世の光です」交読文詩27篇[i]
12イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。…」
この他に
「わたしはいのちのパンです[ii]…門です[iii]…良い牧者です[iv]…よみがえりです、いのちです[v]」
と七つの豊かなイメージで、イエスを思い描かせるのがヨハネの福音書です。今日はその二つ目、
「わたしは世の光です」
と語るイエスの言葉を私たちは聞いています[vi]。
前回の7章53節~8章11節は括弧付きでした。最初はここにはなく、8章12節は本来7章52節の続きでした。7章は「仮庵の祭り」の出来事で、仮庵の祭りの初日には今日の最後、8章20節の
「宮で…献金箱の近く」
とある場所(「婦人の庭」)に、四つの大きな燭台を長い棒の上に立てたそうです。梯子を上って火を灯すと大変な明るさで、神殿全体を昼間のように照らし、エルサレムの街々をも照らすほどであった。その光の中で、人々は喜び、歌い、踊り、祝ったのす。その「光の祭り」でもある仮庵祭の終わりに、イエスが言ったのです。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
喜ばしい祭りの灯火と重ねて、「世の光」として自らを差し出したのです。「仮庵の祭り」は、イスラエルの民がかつてエジプトの奴隷生活から救い出されて、荒野を四十年、仮庵(テント)住まいをしながら旅した時を思い起こす祭りでした。その荒野の旅で神である主は、民の先頭に
「昼は雲の柱、夜は火の柱」
となってずっと民を導き、ともにいてくださいました[vii]。夜も火の柱に照らされて、歩み続け、安心して過ごすことが出来ました。その「火の柱」の再現として、仮庵の祭りでは四つの燭台を高々と神殿の庭に掲げて、明々と街中を照らさせたのです。そして、荒野の四十年の後も、主はみことばをもって民を導きました。だからこう言われます。
詩篇27篇1節主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
詩篇119篇105節あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
「わたしは世の光です」と言ったイエスは、荒野の旅を導いた「火の柱」のように、私たちとともにいて、先立って導かれます。生活から闇がすべて消えるのでも、明るく輝いた生涯を約束するわけでもありません。
「決して闇の中を歩むことがなく」
と言われても、文字通り闇の中を歩むこともあれば、真っ暗な夜に嵐の海を旅するような思いの日々もあります[viii]。そのただ中で「わたしは世の光です」と力強く言うイエスがともにいるのです。みことばの教えと、イエスご自身のユニークな御業、十字架と復活、そして、それを届ける聖霊の働きにより、私たちは「いのちの光」を持つのです。
あなたのみことばは私の足の灯火、私の道の光です。
「わたしは世の光」と言われたイエスは、私たちにもこう心から言わせてくださるのです[ix]。
そう、イエスは一般論として「わたしを信じる者は」と語っているのでしょうか。それとも、人々の一人一人、私やあなたを見つめながら、
「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」
そうなってほしいと強く願っているのではありませんか[x]。
私たちはそれぞれ闇を持っていて、それが暗い余り、イエスが「わたしは世の光です」と言われても却ってピンと来なくて、自分の闇が知られるなんて信じられないかもしれません。闇は隠さなくちゃ、と「大丈夫」を装うとか、陽気なキャラを演じるよう言われているぐらいに思っているのです[xi]。どう思っているにせよ、イエスは私たち一人一人が「闇の中を歩むことなくいのちの光を持つ」ため、「世の光」として自己紹介しています。本当にイエスは私たちの光であり、すべてをご存じで、すべての闇に優って強く、私たちを力づけてくださるお方です。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。[xii]
すべてのものは光によって明るみに出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。[xiii]
自分のあるがままの状態が照らし出され、闇を隠す生き方が終わります。自分が見たい幻より、現実を見る目をくださいます。私たちの本心、見たくない罪、知らなかった価値、神が下さった深く美しい願い、自分の限界…。そして主がそれら私たちのすべてを包んで、私たちを神の民としてくださり、養い導き、旅を完成させてくださる恵みが明らかになります。そこにある、赦しと信頼、素晴らしい喜びや希望という神の真実が照らされます。それは一般論ではなく、私たち一人一人を念頭に置いた、主の思いです。この、神の真実と自分の闇と真実とを照らされて、周りが夜でも、主がともにいて、足元に灯火が、道に光があるので、十分に歩めるのです[xiv]。
ですから、この言葉を聞いたパリサイ人の13節からの反論は、彼らの墓穴を掘っています。
13すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だからあなたの証しは真実ではありません。」
この「真実」というのは欄外に「別訳「有効ではありません」」とあるように、証言としては有効ではない、とも読めます。17節に
「あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。」
とあるように、旧約聖書にある律法では、一人の人の証言だけでは有効ではなく、二人か三人の証人がいて初めて有罪が確定する、は大原則でした[xv]。でも法的に有効ではないから、普段の会話やイエスの語る説教まで否定する、というのは、苦しい言いがかりでしょう。イエスに従いたくない、光に照らされると都合が悪いから、揚げ足取りをしているだけです[xvi]。そしてそれは闇の中、それこそ闇雲にいちゃもんをつけているだけで、そんな彼らの魂胆も頑なさも闇も、すべてお見通しのイエスは微塵もたじろぎません。
14イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。15あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。
この「わたしはだれもさばきません」が、先の11節までの
「罪のない者が石を投げよ」
の記事が他でもなくこの場所に挿入された理由だろうと言われます。イエスはあの姦淫の場で捕らえられた女性へのさばきを止めさせ
「わたしもあなたにさばきを下さない」
と言われて、
「行きなさい」
と立ち上がらせました。14節以降の言葉を一つ一つ、詳しく説明するよりも、このことを心に刻みましょう。
イエスが「世の光」であり、私たちがいのちの光を持つのは、何よりもイエスが教えの言葉と、罪に押し潰されていた多くの人々との出会いと、十字架の詩と復活で現してくださった深い恵みにおいてです。どんなスキャンダルや秘かな罪もご存じのイエスが、罪をさばくよりそこからの再出発をさせてくださる。パリサイ人は、神を恐れ、聖書に忠実に生きようとしていた人々です。しかし、その光は冷たく、イエスの底知れない愛を拒み、イエスをどこの誰か分からない、イエスの証言は真実でないと一蹴しようとしました。イエスは、ご自分のことも、人の罪も闇も知り尽くした上で、罪を照らすだけでなく、恵みをお語りになります。イエスの父、天の神も、さばきも証言もイエスとともになさいます[xvii]。これ以上確かな証人はいません[xviii]。世の光であるイエスと、父なる神がともに証しして、私たちに罪と赦しを語り、冷たい裁きではなく、いのちの光を持たせてくださいます。
20イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
献金箱に次々と献金が投げ込まれる音がする中、イエスは教えました[xix]。今も、経済や生活、暮らし向きのあれこれの音がします。陽気な声や陰気な声が煩(うるさ)く響いています。主を忘れて、いつのまにか冷たく固い石を握りしめて、喜びを失った私たちに、主は言います。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
ともに祈りましょう。
「光を作られた神、光の光。あなたには何も隠れず、どんな闇より強い慰め主です。あなたが私たちの光となり、いのちの光を持たせたいと願ってくださることを感謝します。どうぞ、その御心のままに、私たちの目を開いてください。何にもまして、聖なるあなたと、時至って果たされた十字架と復活の光の中を、その中にある私たちとあらゆる現実を見させてください。いのちの光を持って歩む喜び幸いを、あなたの言葉通りお恵みください」
[i] この個所について、先月亡くなったティム・ケラーの説教の資料(英文)がありました。レジュメhttps://christchurchil.org/wp-content/uploads/2021/03/I-AM-Intro-week-23.pdfとパワポ資料 https://heritagegvl.com/wp-content/uploads/2021/10/6-I-AM-the-Light-Tim-Keller.pdfが読めます。
またこちらの資料も参照: https://www.pas.rochester.edu/~tim/study/BBT%20I%20Am%20Who%20I%20Am.pdf
[ii] ヨハネの福音書6章48節。
[iii] ヨハネの福音書10章7、9節。
[iv] ヨハネの福音書10章11、14節。
[v] ヨハネの福音書11章25節。
[vi] 「世の光」は、ここだけでなく、ヨハネが繰り返して語るイメージです:9章5節(わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」)。1章6節(4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。)、12章46節(わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。)も。
[vii] 出エジプト記13章21-22節(主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。22昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。)
[viii] 闇 1章5節(光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。)、12章35節(そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。)、46節(わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。)。
[ix] マタイ5章14節では「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」ピリピ2章16節「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」と、キリスト者が「世の光」と言われます。それを言わしめてくださるのは、「世の光です」と宣言しうる方、イエス・キリストなのです。
[x] 12章35-36節:そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。36自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
同様の趣旨は、他の聖句にも見られます。イザヤ書9章2節(闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。)、Ⅱコリント4章6節(「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。)。
[xi] この神・イエスから離れては、人は暗闇の中に生きる。しかし、本人がその自覚を持っているわけではなく、イエスから離れたまま思い浮かぶ意味とも違う。スポットライトを浴びるとか、陽キャになるとかではない。闇を見つめず、明るさ・陽気さだけを求める人は、却って闇の深さ、闇への恐れを現している。そういう時に思い描く「光を持つ」とは違い、まさにイエスという光に導かれて生きる、私のすべてを知り、私を照らし、希望を与えてくださるイエスを光として生きる、ということ、そのもののこと。
[xii] ヨハネの福音書1章5節。
[xiii] エペソ人への手紙5章13-14節。
[xiv] 主は、光と言われる。詩編27編1節(主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。)、36篇9節(いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。)、イザヤ書49章6節(主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」)、Ⅰヨハネ1章5-7節(私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。6もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。)、黙示録22章5節(もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。)
[xv] 申命記17章6節(二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。)、19章15節(いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。)、
[xvi] 神なんかいないと言い張る人々ではなく、神はおられ、救いをなしてくださったと仮庵祭を祝い、踊り、献げる人々。そこでイエスを信じる、自分の闇を認め、他者をさばき、神に証拠を求めるような思いでいる生き方を止めて、光であるイエスを、罪人の赦しと再出発を宣言し、人間の比較的ましだという正義を拒まれるイエスを、光として受け入れることがなければ、いくら敬虔で熱心でも、闇の中に留まる信心でしかないのだ。
[xvii] ヨハネの福音書ではこの「証しする」「証人」という言葉も繰り返されます。証し:マルテュレオー(動詞verb、33回)、マルテュリア(名詞noun、14回):1章7-8節(この人は証しnのために来た。光について証しするvためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。8彼は光ではなかった。ただ光について証しするvために来たのである。)、15節(ヨハネはこの方について証ししてv、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」)、19節(さて、ヨハネの証しnはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、)32節(そして、ヨハネはこのように証ししたv。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。)、34節(私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているvのです。」)、2章25節(人についてだれの証言もv必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。)、3章11節(まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているvのに、あなたがたはわたしたちの証しnを受け入れません。)、26節(彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたvあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」)、28節(『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてvくれます。)、32-33節(この方は見たこと、聞いたことを証しされるvが、だれもその証しnを受け入れない。33その証しnを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。)、4章39節(さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言したv女のことばによって、イエスを信じた。)、44節(イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたv。)、5章31-34節(もしわたし自身について証しをするvのがわたしだけなら、わたしの証言nは真実ではありません。32わたしについては、ほかにも証しをするv方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言nが真実であることを、わたしは知っています。33あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししましたv。34わたしは人からの証しnを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。)、36-37節(しかし、わたしにはヨハネの証しnよりもすぐれた証しnがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているvのです。37また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいましたv。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。)、39節(あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているvものです。)、7章7節(世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているvからです。)、8章13-14節(すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しnは真実ではありません。」14イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしてvも、わたしの証しnは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。)、17-18節(あなたがたの律法にも、二人の人による証しnは真実であると書かれています。18わたしは自分について証しするv者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししてvおられます。」)、10章25節(イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししてvいるのに、)、12章17節(さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証ししv続けていた。)、13章21節(イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされたv。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」)、15章26-27節(わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてvくださいます。27あなたがたも証ししますv。初めからわたしと一緒にいたからです。)、18章23節(イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさいv。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」)、37節(そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするvために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」)、19章35節(これを目撃した者が証ししているv。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しnは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。)、21章24節(これらのことについて証ししv、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しnが真実であることを知っている。)
[xviii] その上、15章26-27節では、聖霊が遣わされて証しするとあります。三位一体の神が揃って証言をなさるのです。その神が、律法において、「二人または三人の証人」が必要であることを規定されます。それは、人間の証言の不確かさを補うための、やむを得ない原則、という消極的な理由にもまして、神ご自身が三位一体の交わりにおいて、喜んで共同証人となりたもう姿の「似姿」として、人も、真実を証言する時に、二人か三人の共同体性を原則としてほしい、と願うかのようです。
[xix] 献金箱のそばで話していた時、ラッパ型の12の献金箱に、次々とお金が投げ入れられる音がしていたかもしれない。ジャラジャラと音がする中、イエスが世の光であると言われた。お金が不要だ、富よりもわたしを信じよ、と仰ったのではなく、経済的な必要が現実にある毎日の生活にあって、イエスに導かれながら歩む幸い、知恵を示す。経済は必要だが、それが神のように自分を絡め取る危うさと隣り合わせである中、イエスが金を神としない生き方を下さる。私たちとしては、受難週に、ここでレプタ二枚をささげた未亡人のことを思い起こさずにおれない。マルコ12章41節(それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。42そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。43イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。44皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」)。その最低額の献金を、イエスは「だれよりも多くを投げ入れた」と言われた。その、心貧しき思いをもって、初めて分かる場所ではないか。