2023/10/1 ヨハネの福音書11章17-27節「わたしはよみがえりです、いのちです」
11章は、ヨハネの福音書全21章の丁度真ん中あたりにあります。この福音書が記す「七つのしるし」の最後のもので、最大のしるしとも言えます。それは、イエスが病気で死んで墓に入れられて四日経ったラザロを、復活させた、という奇蹟です。17節に
ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
とある通りです[i]。亡骸は長い布を巻かれて葬られて後、家族は家に帰って来て床に座り、一週間を喪に服します[ii]。当時はまだ、医者の死亡診断という手続きはありません。現代でも死亡宣告は医者だけが出来る専門的な判断で、その後も、蘇生の可能性があるので24時間は火葬はしません。まして二千年前、死んだと思っても、三日位は様子見です。流石に三日も過ぎると亡骸は朽ち始め、魂も諦めて天に行き、本当に死んだのだと嘆いて、もう四日、合計一週間を過ごしたそうです。イエスが来た四日目は、本当にラザロは死んで、蘇生は諦め、完全な死を嘆き始めた頃です。だからこそラザロの復活は、元々死んでなかったのが息を吹き返したのではなく、紛れもなく、イエスの力だと言えるのです[iii]。
同時に、この記事はそこに至るプロセスを丁寧に描いています。まず、マルタのセリフです。
21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
これは誰かを失う経験をした者なら、誰もが覚える思いです。二千年経った私たちも、ヨハネの福音書が書かれた一世紀末の信徒たちも、既に、死別を避けることが出来なかった人々です。今より遙かに医療は未熟で、キリスト者に対する迫害も始まり、治安も悪かった時代です。
「主よ、もしここにいてくださったなら」
この台詞は、ヨハネ福音書の時から今も、またこれからも、聴く者たちの心中をすくい取ります。言葉では「信仰深い言い回し」を捜せても、心に強く澱(よど)んでいるのは「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、こんなことにはならなかったはずだ…」という思いです。決して信仰を失ったわけではない。イエスと神の関係も、神の全能も信じている。それでも、こういう思いが心に兆す。その時、マルタに向かって、
23イエスは言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
ユダヤ人は聖書から、やがて「終わりの日」が来て、死者は復活する、という信仰を持っていました。旧約のダニエル書12章2節にはハッキリ書かれています[iv]。マルタもそれを知っています。だからそう答えました。しかし、イエスはそれを修正するように言うのです。
25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
終わりの日のよみがえりの時が来たらよみがえる、ではない。わたしがよみがえりであり、いのちだから、よみがえるのです。イエスは今までも「わたしは○○です」という言い方でご自分を例えてきました。
「わたしはいのちのパンです。…世の光です。…羊たちの門です。…よい羊飼いです。[v]」
とでした。その五つ目の今回は、譬えではなく、ド直球です。
「わたしはよみがえりです。いのちです」。
決して、「私には超自然的な神としての力があるから、ラザロをよみがえらせることができる」とは言いませんでした[vi]。また、マルタが応えた、将来、「終わりの日」が来てよみがえるとか、将来の安心を保証する宗教とも違い、イエスは、わたしこそいのちだ、わたしを信じることそのものがいのちである、と言います。
このイエスが、マルタたちを愛して、私たちを愛しているのです。そして、マルタの最初の台詞に先立って、15節で言っていました。
「あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。」
人が「もし主がここにいてくれたなら」と思わずにおれない時こそ、イエスに新しく出会う時です。私たちの考えていた信仰、神の御計画、将来の保証…そうした事々への依存がガタガタと崩れ落ちて、イエスご自身を信じる時です。「神の不在」と思える時を通してこそ、イエスは私たちに出会い、他の何でもない、ただわたしがよみがえりでもあるいのちだ、と言います[vii]。そして私たちは、将来がどうとか、愛する人との再会をもらうための信仰ではなく、ひたすらイエスというお方を信じる――信頼し、喜び、愛するのです。それは痛みや忍耐を通りますけれど、本当に必要で幸いなことですから、イエスはその信仰の刷新を望み見て喜ばれたのです[viii]。マルタは言います。
27…「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
この「信じております」は完了形で、もう信じてしまっています、の意です[ix]。改めて、イエスの言葉で思い出すのです。そうだ、私はイエスを神の子キリストと信じていたのだ。神の全能、罪の赦し、永遠のいのち。また、神の愛も、すべてを最善としたもう恵みも信じている。それでも、予想外のことが起きて、死の悲しみに打ちひしがれる時を通してこそ、私たちは、イエスが「わたしはよみがえりです。いのちです」と言われた言葉を改めて知ります。そして、「そうでした、私はあなたが世に来られた神の子キリストであると信じていたのです、今もこれからも信じます」と改めて心から言うのです。何日も、何年もかけて、本当に心から。
皆さんの中には、この11章のラザロの復活や、聖書に出て来る癒しや奇蹟が「つらくて読めない」という方がいるかもしれません。私も以前、突然の死別を経験した時は、イエスの癒しの記事を読むのは難しい、数年を過ごしました。「あの時、イエスがいてくださったなら…」と考え続けました。それは信仰や不信仰とか、理屈や口先でどう言おうと、魂の深い嘆きでした。何年もかけてじっくりと、このイエスの言葉を、頭だけでなく心と体で覚えるようにされました[x]。深い悲しみの時、急いで、信仰的な台詞に飛びつく必要はありません。主は時間をかけることを惜しまない神です。四日目に現れるため二日待ち、三日目によみがえった方です。ヨハネの中で半世紀寝かせた記憶がこの福音書です。私たちが改めて、主のよみがえりといのちを自分のこととして信じるのも生涯かけてのことです。しかし、よみがえりでありいのちである主は、私たちにもいのちを与え、信仰が何度挫けて、死のうとも、信じる関係をよみがえらせてくださるのです[xi]。ラザロをよみがえらせた主が、私たちを今日も生かしておられます。
「よみがえりでありいのちである主よ。あなたがいたら、と思う時こそ、あなたとの深く慰めに満ちた尊い恵みです。どうぞその恵みをもってあなたの愛するすべての人を導き、慰めてください。あなたにあっては死も眠りとされましたが、それでも辛く耐えがたい別れであることもまた、主が誰より深くご存じです。どうぞ、私たちを憐れみ、支えてください。ただいまから聖餐をします。死を知り、よみがえった主がここにいますことをともに味わわせてください」
[i] イエスが、6節で二日待たずに来ていたとしても、墓に入れられた二日後だったわけです。
[ii] 20節で、マリアが家で座っていたのは、遺族として家に座っているのが自然な役割だったからです。
[iii] 先の10章10節や28節でも言っていた通り、自分の羊にいのちを豊かに与え、決して滅びることがないようにしてくださる「良い牧者」だという言葉の、これ以上無い実践だと言い得るのです。
[iv] ダニエル書12章1~4節:その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。2ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。3賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。4ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。」
[v] ヨハネの福音書6章35、51節、8章12節、10章7、9節、同11、14節。この後は、14章6節(わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。)、15章1、5節(わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。)で、あわせて七つの「わたしは○○です」(エゴー・エイミ)がヨハネのモチーフです。
[vi] ティモシー・ケラー『イエスに出会うということ』(廣橋麻子訳、いのちのことば社、2017年)、59ページ。同書、第3章「嘆く姉妹」は、ヨハネの福音書11章を講解する説教です。おすすめです。
[vii] ヘンリ・ナウエンは、「不在のミニストリー」について語っています。「神の臨在と不在」。「神の存在のみを証しし、その不在から目を背(そむ)けるのならば、牧会者はその責を果たしているとは言えない」の言葉は「不在のミニストリー」(クリスチャニティ・トゥディより)を参照。https://christianpress.jp/the-ministry-of-absence/
[viii] 喜ぶカレオー、および喜ぶカラは、ヨハネに9回ずつ、計18回:3章29節(花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。)、4章36節(すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。)、8章56節(あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」)、11章15節(あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」)、14章28節(『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。)、15章11節(わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。)、16章20節(まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。22あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。)、24節(今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。)、17章13節(わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。)、19章3節(彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。)、20章20節(こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。)
[ix] ここまでのハッキリしたイエスに対する告白は、ヨハネ伝でも初めてです。
[x] そのことを通して、聖書自体が語っているのも、癒しや奇蹟などの神のわざ、というよりも、もし主がここにいたなら、という呻きであり、もし神があなたを愛しているなら証明してみろと囁くサタンの誘惑であり、そのことを通して、なお主を信頼するよう導かれる民だと思うようになりました。
[xi] 私がいてほしいときにイエスがいて、癒したりよみがえらせたり、助けてくださる――そんな期待が打ち砕かれて、後悔や神や自分を責める思いがないまぜになり、将来への希望を持ちつつも、今の悲しみの間を行きつ戻りつして、心を持て余すような時、その時、そこに遅まきながらのように近づいて、主は言われる。「わたしはよみがえりであり、いのちである。」 そう言われる主と出会い、私たちは、主が「もしここにいてくださったなら」という思いから踏み出した、主を信じる信仰を知る。それを、イエスは喜ばれます。その喜びは、身勝手で残酷な喜びではありません。弟子たちや私たちが、本当にイエスを信じること、信頼すること、禍や悲しみを免れるための信心ではなく、本当に信頼すべき方、いのちそのものであるイエスを知って、何がなくても、期待が叶わなくても、イエスご自身を信じるようになることは、私たちにとっての喜びであり幸いです。それを神の子イエスご自身が喜びとしてくださいました。そこから離れて、疑いや恐れに囚われている人間の現実を、イエスはご自分の悲しみとしてくださいました。この後、ラザロの墓に行きながら、イエスが涙を流されるのは、その悲しみの深さです。イエスの喜びは悲しみも含めた、私たちへの愛です。そして、そのために、ご自分が――よみがえりでありいのちである方が――死すべき人間となり、十字架の苦難をも厭わないで、私たちが信じることを喜びとされたイエスなのです。