2025/11/30 イザヤ書28章1~13節「『ここに休息がある』と言われたのに」
イザヤ書28章からは、また新たな纏まとまりになります。13章から27章までは「諸国への裁き」が「その日」世界は一つの民となると語ってきました。今日の28章からは、「最も信頼すべき力は何か、それは全能の神である」というテーマが一貫しています[i]。そして「わざわいだ」とか「ああ」という始まりが繰り返されるのも特徴です[ii]。今日からこの段落を区切って見ていきながら、私たちが頼る、全能の神、主がどのようなお方であるのかを見ていきましょう。
1わざわいだ。エフライムの酔いどれが誇りとする冠、その麗しい飾りの、しぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。
エフライムとは北イスラエル王国の中心部族です。ですから、この部分はまだ北イスラエルが陥落する前の預言でしょう。主の言葉に聞かず、不正を続け、自分の力で大丈夫だと思い込んで、まもなく国が滅びる現実が見えていない…その鈍感ぶりが「酔いどれ」と皮肉られます。その誇りなど、しぼんでゆく花だと言い切られます。これに対して、神である主にあるのは
2激しく力強いもの…突き刺さり荒れ狂う雹の嵐のようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主は御手をもってこれを地に下される。3エフライムの酔いどれが誇りとする冠は、足の下に踏みにじられる。」こうして4節では、北イスラエルがアッシリアによって攻め落とされることが「花もしぼみ、いちじくの実のように…呑み込んでしまう。
と描かれます。けれど、
5その日、万軍の主は、民の残りの者には輝かしい冠、栄えの飾り輪となり、6さばきの座に着く者にはさばきの霊となり、攻撃して来る者を城門で追い返す者には力となられる。
北イスラエルが落とされる日、残りの者といえば南ユダ王国の民でしょう。当時の王ヒゼキヤは信仰篤き人でした。ヒゼキヤに率いられた民です。万軍の主は、その人々にとっての冠、飾り輪となる。裁きの霊、力ともなる、と言われる。1節の、酔いどれが誇りとする冠や飾りのショボさとは比べ物にならない。主ご自身が民を飾り、力づけてくださる、という言葉です。
ところが、その南ユダも、滅びたイスラエルの轍を踏んでゆこうとしている、と指摘します。
7しかし、これらの者も、ぶどう酒でよろめき、強い酒でふらつく。祭司も預言者も強い酒でよろめき、ぶどう酒で混乱し、強い酒でふらつく。幻を見ながらよろめき、さばきを下すとき、よろける。8どの食卓も吐いた物であふれ、余すところもない。…
残されて生き延びた方のユダの民も、酔っ払いの国となる、と言われるのです。これが文字通り酒浸りになっていた様子なのか、それともこんな表現はここだけですから実際に酔っ払ってはいなくても、神の目から見れば、ぐでんぐでんで、感覚が麻痺して、正気を失っていることが非難されているのは間違いないでしょう。その末に口にするのがイザヤへの戯言ざれごとです。
9「彼は知識をだれに教えようとするのか。知らされたことをだれに悟らせようとするのか。乳離れした子にか。乳房から離された子にか。10彼は言っている。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ。カウにカウ、カウにカウ。あっちにゼエル、こっちにゼエル』。」
イザヤが主の言葉を語っても、ユダの人々は馬鹿にして茶化すのです。「誰を教えるつもりだ? ようやくお喋りを始めた赤ん坊にか?」そして10節は、なんだと思うでしょう。欄外にあるように「決まりに決まり、決まりに決まり、ひもにひも、ひもにひも、あっちに少し、こっちに少し」とも訳せますが[iii]、酔っ払いか舌足らずな赤ん坊が話す喃語なんごのような文句でイザヤを笑っている――意味がある言葉というより意味のない揶揄からかい言葉なのでしょう。彼らが嘲っている主の言葉は、12節でその内容がわかります。
12主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息があると言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。」
この主の言葉を聞いても、「誰に教えるつもりだ? 乳離れした子にか?」そして赤ちゃん言葉で揶揄する。でも、ハッと思うのです。ある意味では、主の招きというのは確かに赤ん坊や幼子に対するようなものです。
「ここに憩いがある。ここに休息がある」
と言って、主は人にご自分のもとに来るよう招かれるお方。人の中にある子どもの心に語りかける神です。悪に怒り、回復を約束する、というイザヤの言葉は、御伽話のようでもあります。私たちを愛する神、私たちの救いのために自らを犠牲にすることも厭わない神、だなんて、子どもの心がない者には信じ難いメッセージです。しかし、それを子どものように信じて、御伽話以上に突拍子も無い約束をなさって憚らない神を礼拝しているのが私たちでもあります。友人も、平和についての講演の結びで書いていました。「「いまどき〝平和〟だの〝希望〟だの、おまえの頭の中はお花畑か」と嘲られることがあるかもしれません。しかしキリスト者が平和をあきらめ、希望を抱くことを止めてしまっては、世界はまったく暗闇です。おこがましい言い方かもしれませんが、教会が世界の最後の砦だと私は信じています。」[iv] そう主の言葉を信じること、私たちに憩いを与えてくださる主を信頼することを、揶揄からかわれる時には、イザヤもそうだったのだと思い出し、堂々と子どもの夢を信じる自分を笑われてみたい、とも思うのです。
嘲笑う民に対して、主は同じような言葉で語り、その高慢を報います。
11まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる。…13主は彼らに告げられる。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ。カウにカウ、カウにカウ。あっちにゼエル、こっちにゼエル。』これは、彼らが歩くとき後ろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕えられるためである。」
こう言って、主が彼らの嘲りを聞いておられ、その嘲りが報われることが告げられるのです。
ところで、今日の11節12節は、新約聖書のコリント人への手紙第一14章で引用されます。
20兄弟たち、考え方においては子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。21律法にこう書かれています。「『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない。』と主は言われる。」[v]
こう言って、11節と12節の最後を結びつけた自由引用をしています。イザヤ書の言葉で主がいうのは、裁きとしての「異なる言葉で語る」でしたが、コリントの教会では霊に憑かれたら自分たちにはわからない言葉(異言)で話し出す、恍惚状態が、さも勝れた信仰の証拠であるかのような混乱が起きていたのです。分からない言葉で語れる体験が自慢され、憧れられました。パウロはこれに対して、神が語る言葉を理解し、私たちが考え、育てられ、罪を指摘され、心の秘密が明らかにされて、神が確かにここにおられると未信者も平伏して主を礼拝する――それこそが教会のあり方だと教えています。
酔いどれたり恍惚状態になったりして、主のことばに聴き、学び、心を探られることが教会では疎かになりがちです。もちろんその逆に、酒も煙草も飲まない禁欲生活や、異言とか非日常的なものを避けている雰囲気が、それ自体「冠」や酔い痴れる飾りになって、主の言葉に聴くだなんて面倒臭い、あれもしろこれもしろと小煩こうるさい……となりえます。こういう傾向は、イザヤの時代から新約の時代、今に至るまで、神の民に染み付いている一面でしょう。そしてそんなイスラエル、教会、私たちにも、主は語りかける方です。酔いを覚ましてくださり、ご自身が冠になろうと言われます。ここに憩いがある、と幼子を呼ぶように語ってくださいます[vi]。
イエスが下さるのは、規則づくめでも子どもじみた生き方でも、何かに酔いしれたり神秘体験をしたりする宗教ではなく、私たちに語り、教え、ともに頸木を負い、歩んで新しくしくださる主との生きる関係です。これを教会は、賢ぶったり嘲ったりせず、ひとりひとりが幼子のようになっていくことと、特別な体験やしるしを見せようとするよりも、わかることばで伝えること、この二つの面で伝えていくのです。
「聖なる主、私たちの輝かしい冠なる神。イザヤ書を読みつつ、あなたのご計画の徹底ぶり、惜しみなさ、私たちへの熱い慈しみに驚かされます。これを素直に喜ぶ幼子の心もまた、あなたからの贈り物です。忘れやすい私たちも、主のことばに教え、悟らされる幼子としてください。信じ難いほどのあなたの約束だからこそ、私たちがこれを待ち望んで生きることで地の塩、世の光であれますように。それを妨げる、嘲る愚かさをも、捨てることを学ばせてください」
[i] モティア、242ページ。
[ii] הוֹי へホーイ:28・1、29・1、15、30・1、31・1、33・1。
[iii] 聖書協会共同訳は「命令に命令、命令に命令/規則に規則、規則に規則/しばらくはここ、しばらくはここ。」、新改訳第3版は「彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」」
[iv] 朝岡勝『平和へのはじめの一歩』(いのちのことば社、2025年)、105ページ。
[v] Ⅰコリント14・20〜22:20兄弟たち、考え方においては子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。21律法にこう書かれています。「『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない。』と主は言われる。」22それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。
[vi] その言葉に聞かない民に対して報いつつも、それで腹の虫が治って終わり、ではありません。12節の欄外には、有名なイエスの言葉があります。マタイ11・28〜29すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

