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2025/11/23 イザヤ書27章1~6節「ただ主を礼拝する」招詞:ヨハネの福音書1章5節

イザヤ書27章は、24章から四章かけて歌われてきた、勝利の歌の結びに当たります。

1その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタンを、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。

レビヤタンとは、欄外のヨブ記や詩篇にも出て来る、神話的な巨獣です。悪の力、闇の獣です。それが実在するというよりも、そのような怪物さえも主は治め、最後には鋭い大きな強い剣で打ち負かされる、ということで、最終的な主の勝利を、読者の心にありありと思い描かせてくれるのです。現代でも「リヴァイアサン」の名で用いられ、ある注解者は、巨大な鯨くじらと戦う小説『白鯨』や、映画「ジュラシックワールド」など、恐ろしいとてつもない存在が描かれ続けていると言います[i]。日本でなら、「ゴジラ」や「鬼滅の刃」の人気は不動です。そういう怖い存在の方がリアルで、世界を脅かしている、という感覚が現代も、私たちにも、ある。神が創造された世界を脅かす、得体のしれない化け物、竜にリアリティを感じてしまう。それは、イザヤ書やヨブ記の時代から何千年も経っても変わらない感覚です。だから、この27章の最初に、主がレビヤタンを罰して、殺してしまう、という描写には、途方もなく力強いものがあるのです。世界を脅かす存在は、もういなくなるのです。

2節からは

その日、麗しいぶどう畑について歌え。

と6節まで葡萄畑の歌が続きます。以前、5章にも葡萄畑の歌がありました。それは、イスラエルの民を葡萄畑に例えた歌で、神が手塩にかけて育てたのに、悪い葡萄を実らせたことを歌って、イスラエルが神の恵みに十分に与りながら、暴力や不正、嘘や不信でいっぱいになっている問題を非難する歌でした。そこには神の悲しみ、怒り、さばきの厳しさが溢れていました。しかし、その後のイザヤ書で、主の赤裸々な断罪や処罰の言葉が連ねられた末に、最終的な将来が描かれるここでは、どうでしょう。

その日、麗しいぶどう畑について歌え。わたし、主はそれを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも害を加えないように、夜も昼もこれを見守る。…

というのです。5章では

25…主の御怒りはその民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打つ。…

とか

わたしはこれを滅びるままにしておく。枝は下ろされず、草は刈られず、茨やおどろが生い茂る。…

と言われたのが、ここでは

わたしにもう憤りはない。もしも茨とおどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。

と言われます。神は人間の罪を決して見逃したり、放置したりはせず、必ずそれに報い、悪を終わらせます。しかしそれもまた、葡萄畑を見守り、世話をし、実を結ばせるための作業だ、と言えましょう。そして、主と戦って踏み潰されそうな者にも、主はこう呼びかけます。

あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。

主はこう言葉を重ねて、御自身に頼るように呼びかけてくださるのです。葡萄畑の主人にご自分を準える神は、その酷い実りを激しく嘆くお方ですが、その徹底的な手入れの末に、必ずや麗しい葡萄畑へと作り上げるお方に他なりません。そういうイメージをもって、私たちに、御自身に頼り、和を結ぶようにと呼び掛けてやまないお方です。そして6節で、葡萄の木のイメージで結びます。

時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。

37・31でも

下に根を張り、上に実を結ぶ

と描かれます[ii]。主が約束してくださる豊かな、生き生きとした果樹の約束。この言葉に私は高校時代に出会って、記憶に焼き付きました。その頃はしっかり根を張り、たわわに実を結ぶ、そんな立派な木となれると励まされたものです。それから40年してイザヤ書を読んで来て、木の美しさとか堂々たる佇たたずまいより、根付くべき土壌に根を張り[iii]、主との関係に根ざすようになる変化に思えます。土は堅すぎても根が張れず柔らかすぎても根の意味がありません。しっかりした土壌に、時間をかけて根を張っていく。主を神とすることを学び、現実に向き合い、安易な解決に飛び付かず、じっくり良いこと、正しく、真実なことを求めていくことです。『根を持つこと』でシモーヌ・ヴェイユは

「力の崇拝の否定、弱さに着目し、美と正義と真理が一致する唯一無二の善を選ぶ」

と言います[iv]。この世界の富とか地位、国々との関係や競争に安住したり、「神頼み」の、根を張らない生き方から、根を下ろす生き方、主の言葉に養われ、深い根を持つ生き方――それを主は下さる。

ですから7節から11節でもそのことが歌われます。

主は、イスラエルを打ったものを打つように、イスラエルを打たれただろうか。イスラエルを殺した者を殺したように、イスラエルを殺しただろうか。あなたは追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日に、激しい息で彼らを吹き払われた。それゆえ、次のようにしてヤコブの不義は許される。祭壇の石をすべて、粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台を二度と立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得る実のすべてだ。

アシェラとは、オリエント一帯で広く信奉されていた女神です[v]。その像を造り、祭壇で祭り、香を献げることがヤコブイスラエルの民の中でも広まっていました。それが完全に終わるのです。勿論、アシェラ像を破壊することに免じて不義が赦されるという意味ではありません。9節最後に「」とあるように、赦しの根拠ではなく、赦しとはどうなることか、なのです。赦しとは罰せられない以上に、偶像や罪を崇めること自体が完全に撤去されることです[vi]。アシェラだけでなく、あらゆる偶像崇拝も終わるのです。響きが似ている阿修羅あしゅらという戦争の神も考えだし、恵みの神に似てなくもない慈愛の菩薩も考案し、人は次々に礼拝の対象を想像してきました。宗教の体裁は取らなくても、経済とか名誉、影響力とか家柄…何かしら真の神ならぬ物――それ自体は良い物――に、見えない祭壇を築き、お金や時間、家族や自分自身を犠牲に献げている。そういう偽りの神礼拝という不義が、もう心から終わって二度と立ちあがらない。そして、偶像を土台に繁栄してきた街も廃れるのです(10〜11節)。

しかしそれに続くのが12、13節です。

その日、主はあの大河からエジプト川まで穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは一人ひとり拾い上げられる。13その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリアの地にいる失われていた者や、エジプトの地に追いやられた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で主を礼拝する。

欄外にあるように「大河」とはユーフラテス川、北のアッシリアの向こうにある大河。その反対の、南はエジプト川まで、失われていた者、追いやられていた者たちを、主は一人ひとり拾い上げて集めてくださる。オリーブの実は棒で打ち落としたのを拾い集めます。そのように、主が人や諸国を打つのは、そうして人を拾い上げるため――一粒も無駄にせず一人ひとりを拾い上げて、北の果てからも南の彼方からも集めてくださるため、エルサレムに来て主を礼拝するため、なのです。

この人々は罪のためにアッシリアに捕囚となり、みことばに背いてエジプトに居た人々かもしれません。その外国での宗教や文化が染みついていたでしょう。そんな生活から不義を残らず除き去れば、何が残るでしょうか。しかし、その何も残るものがないような彼らを、真の神は一人ひとり拾い上げ、エルサレムへ帰って来させ、主を礼拝させなさる。もう心の底では別の何かに香を炊く祭壇を隠すような、形ばかりの礼拝ではありません。そして、1節でわざわざレビヤタンを罰して打たれると言われたように、悪の力、恐ろしい存在に怯えることもありません。今でも人がゴジラやホラーや怖い話を思いつきながら、この世界を脅かす「破壊の神」を信じていますが、それをも神は滅ぼしてくださる[vii]。そうして、偶像やレビヤタンに心を奪われるような私たち一人ひとりを拾い上げて、御自身を礼拝する場へと招いてくださる。そのために大きな角笛が鳴り渡る日を備えていてくださるのです。私たちが今ここに集い、罪の赦しと恵みの御言葉を聴いている礼拝は、この終わりが備えられている、確かなしるしなのです。

「聖なる主。私たちが慕う何物よりも、あなたは慕わしくいのちに満ち、私たちが恐れる何物よりも、力強く正しく、恵みに溢れるお方です。どうぞ、そのあなたが約束される将来の栄光を味わいます。今この時も、あなたに根を下ろし、豊かないのちを戴く幸いに与らせてください。今の世界にある尊いものも、悲しみや恐れも、やがてすべてはあなたが新しくされますから、あなたを礼拝し、みことばに根を張り、主の実を実らせる者たちとならせてください。」

[i] 「現代の科学的合理性が重視される現代においても、制御も飼いならすこともできない、すぐそばにある悪の力に詩的な名前を与える必要があるのです。これは、ハーマン・メルヴィルの古典『白鯨』から、近年の『ジュラシック・パーク』への熱狂に至るまで、明白です。これらの芸術的表現は、脅威を名指しし、語りかける必要性を如実に示しています。そして、この脅威を名指しし、語りかける必要性こそが、この驚くべき詩を突き動かしているのです。

この古代の詩人は、同時代の人々が確かに抱いていたであろう感覚を表現しています。それは、悪がはびこり、創造の調和そのものを脅かし、世界は危険にさらされ、住むのに安全な場所ではないという感覚です。しかし、詩人は現実を言葉で表現する以上のことをしています。詩人はまた、間もなくヤハウェがその脅威となる怪物を罰し、制圧するだけでなく、客観的な悪の脅威を実際に殺し、つまり最終的に排除するであろうと主張しています。これは、黙示録21章1節の「海はもはやなかった」という言葉に示されたのと同じ希望です。

私の判断では、現代の教会は人間の失敗としての罪悪感に過度に囚われています。現代において、あるいはこの詩人が生きた古代の文脈において、創造の危機は単なる人間の罪悪感よりも、より根源的な牧会的問題です。人間の違反に対する罰よりも大きな何かが働いています。そして、その「大きな何か」は、その強大な力の前で私たちを不安にさせ、深く無力にさせます。したがって、悪をこのように名指しすることだけでなく、神が確かに完全にそして最終的に悪の力を克服し、それによって創造主の意図どおりに、すべての被造物にとって真に安全な住まいにしてくださるという、大胆な福音主義的な期待にも注目すべきでしょう。」、ブルッゲマンより。

[ii] イザヤ書37・31:ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。

[iii] イザヤ書5章の「ぶどう畑についてのわが愛の歌」でも、「わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え…、」と土壌選び・土壌づくりから始まっていました。

[iv] 「人間の魂は根をもつことをおそらく必要としている。根をもつことは、もっとも大切であるのに、見過ごされている。根をもつことを定義するのは難しい。現に存在しているある集団に、実際に、活き活きと、自然に属することで人は根をもつ。過去から受け継いだ宝物と未来への確かな予感を保持している集団に属することで根をもつのである」、シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』(山崎庸一郎訳、春秋社、新版2009年[初版1967年])https://bookmeter.com/books/16417588

[v] 「【アシェラ】アシュタロテと共にカナン宗教の肥沃祭儀の礼拝の対象とされていた女神で、古代オリエント全域で信奉されていた。アシェラはイスラエルにおいて、唯一の真の神ヤハウェに対する信仰が自然および自然の力を信奉する宗教に堕落する時には、必ず入り込んできた。そして至高神の妻として崇拝される偶像となった。(以下略)」、『新聖書事典』、20頁。

[vi] 「(これが)この果実のすべてであるというのは、正確に解釈するのが難しい表現です。14 しかし、これは前のものと並行する考えのようです(不義を償うことと罪を遠ざけることは並行する考えです)。そうであれば、その果実は罪の除去の原因であると同時に結果でもあります。15 一方で、赦しを受けるためには偶像を打ち砕くことが必要です。他方で、赦しの宣言は、打ち砕く動機を与えます(44:1-5; 57:17-19; 59:15b-20; コロサイ3:1-17)。グレイが言うように、彼はこのような重要な教理がこの1つのわかりにくい聖句に依存していないことを嬉しく思っていますが、その真理が聖書の他の箇所に現れていることを考えると、それをここで適用することは誤解ではないようです。」、オズワルト

[vii] 「最後に、この終末論的な可能性を表明する詩において、この詩は世界資本への攻撃や暴力と破壊のレトリックを超越する。今や焦点は復興という唯一かつ肯定的なものへと移っている。この幻想的な題材の集大成は、ヤハウェの最も熱心な忠誠者たちによる、ヤハウェの正しい礼拝の場でのヤハウェへの正しい礼拝である。しかしながら、このセクションの最後の主張は、冒頭の主張があるからこそ可能となる。「最後の敵」(リヴァイアサン)の排除こそが、世界を唯一の神への真の礼拝へと解放するのだ。世界はシャロームへと転換され、それゆえこの礼拝は、すべての真理の神、すべての平和の神に関わるものとなる。」、ブルッゲマン