2025/11/9 イザヤ書26章1~6節「全き平安のうちに守られます」
1その日、ユダの地でこの歌が歌われる。…
とこの26章は始まります。「その日」とは将来に備えられているこの世界のゴールの日。今はまだこんな歌を歌うなんて思いもつかないけれど、やがての「その日」にはこの歌が歌われる、と言って、6節までその歌の言葉を口ずさみます。それは
私たちには強い都がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。2城門を開けて、忠誠を尽くす正しい人を入らせよ。
と歌われていく喜びの賛美の歌です。
この26章は、前後の24~27章まで、主の勝利を歌う、賛美が続いています。その前、13~23章には諸外国への宣告が続きました。イザヤの時代、彼の国であるユダ・イスラエルは、形式的な宗教と、不当が罷り通る社会となって、神はイザヤを通して、裁きの言葉を告げましたが、イスラエル・ユダの周辺諸国に対しても、神はそれぞれの問題や高ぶりを裁くことを告げたのです。今日の26章直前の、25・10~12では「モアブ」の「高ぶり」を裁くと言って、その事を想起させました。この26章の歌では、倒される都とは対照的に「強い都がある」と歌うのです。それは、今の社会で、権力や財産や地位がある者が支配する都とは違います。人間の力で築き上げる要塞とは全く違う、「神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる」、神の救いそのものである「強い都」です。3節は平和・平安と訳されるシャロームを二度重ねて
3志の堅固な者を、あなたは全き平安シャローム・シャロームのうちに守られます。
と言っています[i]。それは
その人があなたに信頼しているからです。
とありますが、直ぐに4節以下に畳みかけます。
4いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。5主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、その都を低くして、地にまで下らせ、これを投げつけて、ちりにまで下らされる。6足がこれを踏みつける。苦しむ者の足、弱い者の足の裏が。
主は人間の作り上げた高ぶりや虚栄を倒して、塵のように低くします。そして、その人間の造って来た都、胡坐をかいてきたピラミッド、支配のヒエラルキーの底の底で苦しんできた者、弱く・無価値だとされてきた者の足が、人間の自慢の都の残り屑を踏みつけるようにされます。これが主の「遠い昔からの不思議なご計画」です[ii]。そんな計画を抱き、成し遂げる方である主を、いつまでも信頼せよ、この主を信頼するところから「志の堅固な者」となれ、「忠誠を尽くす正しい民」として歩め――と言われるのです。逆ではありません。人の忠誠心、意志の強さ、信心深さが、強い都に入る権利や、全き平安で守られる根拠となるという理屈ではなく、主が人の支配を終わらせて、苦しむ者・弱い者を引き上げる――ここがすべての根拠なのです。
ですからこの26章は、8節から「主」の名が11回も繰り返され、うち7回は「主よ…」という呼びかけです[iii]。
7正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。8主よ。まことに、あなたのさばきの道で私たちはあなたを待ち望みます。あなたの御名、あなたの呼び名は私のたましいの望みです。
平らな道とは、思い上がりや軽蔑、偏見や上下関係のない道でしょう[iv]。正しいから、危険や困難がない人生になる、ということではなく、神が人をご自身との正しい関係に置いてくださる時、その人は高ぶりを捨て、苦しむ人、弱い人を蔑んだりもしないのです。6節までの「この歌」をやがての日に歌うことを信じるならば、その日を迎えるまでの今ここにあっても、主を待ち望みつつ、自分の道を平らにならしていただきながら歩むのです。今はまだその日ではありません。平らでない、歪んだ道の方が罷り通っているかもしれません。
10悪しき者は、恵みを受けても義を学びません。公正の地にあっても不正を行い、主のご威光を見ようともしません。
というのが現実です。それでもイザヤは、主の下さる希望の中で、歌い続けています。
12主よ。あなたは私たちのために平和を備えてくださいます。まことに、私たちのすべてのわざも、あなたが私たちのためになさったことです。
やがての「その日」の未来の話ではなく、今ここで私たちが主を信頼すること、思い上がりや見下す心を平らにならされること、希望をもって歩むこと――そのすべては、主が私たちのためにしてくださることです。この7節以降では、「その日」がまだ来ていない今、葛藤ジレンマがある中、現実を見据えた上での言葉が続きます[v]。
13私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が私たちを治めました。私たちはただあなただけを、あなたの御名だけを呼び求めます。14彼ら[多くの君主]は死人であって、生き返りません。彼らは死者の霊であって、よみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して根絶やしにし、彼らについての記憶をすべて消し去られました。
人間の君主が、神のような顔をして治めてきたけれど、みな最後は死んでしまい、その記憶もどんどん薄れてしまう…。そこにイザヤは主の御手を見るのです。しかし、君主たちだけでなく自分たちを振り返ってもそうです。15節は14節と続いて、段落の終わりになるのかもしれません。そうであったとしても、16節からはイザヤ自身も含めた、主の民の今の呻き、労苦しても実りがない様を歌っています。
16主よ。苦難の時に彼らはあなたを求め、あなたが懲らしめられたとき、彼らはうめきをあげました。17子を産む時が近づいた妊婦が産みの苦しみで、もだえ叫ぶように、主よ、私たちは御前でそのようでした。18私たちは身ごもり、産みの苦しみをしました。それはあたかも、風を産むようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれてきません。
こういう空しさ、空振りのような現実を、イザヤはここでごまかしません。それはイザヤが、「その日」を見つめているからです。
19あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。
最後の「その日」には死者は復活し、私も復活し、露で潤される――それも「光の露」と言われるように、体も魂も瑞々しく生き返る。そういう最後を主は思い描かせます。その主への信頼は、今ここでの生き方を大きく軌道修正させ、決定してくれます。
20さあ、私の民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ。21それは、主がまさにご自分のところから出て、地に住む者の咎を罰せられるからだ。地は、その上に流された血をあらわにし、そこで殺された者たちを再びおおうことはない。
創世記7・16でノアが大洪水の前に箱舟に入り、すべての動物を入れた時、主は「後ろの戸を閉じ」ました。またエジプトの奴隷生活から解放された過越しの夜も、子羊を屠って血を門に塗った後、戸を閉じさせられました。大洪水の中の箱舟や、過越しの夜の家にいるように、神の民も暗い中、戸を閉めたままじっと待たなければならない――待つしかない時があります。いや、主イエスの弟子たちは、臆病から戸を閉めて鍵をかけ、閉じ籠りました。誰が一番立派か競い合っていたプライドが砕かれ、馬脚を露わした時でした。しかし、その閉められた部屋の中に主イエスは入って来、「平安があるように」と仰ったのです。
ある注解者は言います。「待つことは非常に難しい。なぜなら、それは今、自分にできることは何もないと認めることだから。けれどそれを認めて初めて、私たちが問題の鍵ではなく、神が鍵を持っていると宣言することになる。自分で自身を救うことはできないと認めない限り、神も私たちを救うことはできないのだ」と[vi]。戸を閉じて何も出来ない時、いいえ自ら戸を閉め不信仰を晒す時、自分の信仰心や正しさや行動など全く頼りにならないと気づく時を「しばらく」通らされる日々もあります。その夜こそ、主イエスに出会う時です。私たちの信心に応じたご利益を報いる神仏とは全く違う、大きなご計画を、ご自身の一方的な熱心によって成し遂げてくださる。こんな途方も無い言葉を聞かせていただく中で、私たちのうちに信仰を呼び起こしても下さるのです。
「聖なる主よ。みことばをゆっくり味わいながら、あなたが備えたもうゴールの壮大さ、高ぶりが終わり、貧しい者を祝福される約束に驚かされます。どうぞ恵みを小さく引き下げ、自分の理解に貶める私たちの目を開き、主の主権的な恵み、尊い救いを、今ここに生きる羅針盤とならせてください。そして、私たちのうちに平らな道、主イエスの歩まれた足跡に従う道を整えてください。「その日」を待ち望むすべての者を、全き平安でお守りください。」
[i] 小畑進『きょうの力』、463頁参照。
[ii] イザヤ書25・1。
[iii] 「主よ」8、11、12、13、15、16、17節。
[iv] イザヤ書40・3~5:荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために大路をまっすぐにせよ。4すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。5こうして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」
[v] 「この章は、輝かしい未来への思いと、その未来にあずかるために必要な揺るぎない信頼(1-6節)から、民が救われていない現状への冷静な視点(7-19節)へと移ります。しかしながら、この冷静な視点においては、神は約束を守ることができ、また守るであろうという確約が繰り返し述べられています。」オズワルト
[vi] 「ほとんどの人にとって、待つことは非常に難しいことです。なぜなら、それは今、目的を達成するために私たちにできることは何もないことを認めることだからです。しかし、この認めることは、霊的な祝福を得るための第一条件です。私たちが自分自身を救うことができないことを認めない限り、神も私たちを救うことはできません。ですから、この「待つ」ことは、何よりも自分自身に対して、私たちが問題の鍵ではなく、神が鍵であると確信していることを告げる霊的な宣言となるのです。」、オズワルト

