2025/7/13 イザヤ書13章「バビロンへの宣告、人間の回復」
先回イザヤ書12章を読みました。フォークダンスでも知られる「マイム、マイム」の歌がここから取られたこともお話しして、1章から12章という一纏まりが喜びと希望のうちに終わったことを見ました。今日からは、13章から35章という次の纏まりに入ります。
1バビロンについての宣告。これはアモツの子イザヤが見たものである。2「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に入らせよ。…
と始まります。この「〇〇についての宣告」が、15章、17章、19章、21章、22章、23章と続きます。今日のバビロンを初めとして、世界の強い国々の名前を上げながら、一つ一つの王国への主の宣告が述べられます。今は強さを誇っているおまえたちに終わりが来ると宣告されるのです。2節に出て来る「貴族の門」とはバビロニア帝国の門です。貴族たちが専用に使っている門から、敵の大軍が侵入してくる。無線も大砲もない時代ですから、合図と言えば、木も草も生えていない裸山の上に大きく旗を掲げて、遠くの軍隊を呼び寄せる[i]。すると、
4おびただしい民にも似た、山々のとどろく音、集まって来る国々、王国のどよめく音がする。万軍の主が軍隊を招集しておられるのだ。
こうして、バビロンが滅ぼされる終わりの日の様子が描かれます。バビロンの住民も気力を失い、心が萎えて、驚いたままなすすべのない様子を描き出して、9~11節では天の星や太陽、月も光を失う、という絶望が刻まれます。この描写が、13章の最後まで続き、更に14章までバビロンへの宣告が告げられていきますが、しかし、その酷い描写を「これでもか」とばかりに詳しく描くだけではありません。11節12節に大切な事が叫ばれています。
わたしは、世界をその悪のゆえに罰し、悪しき者をその咎のゆえに罰する。不遜な者の誇りをくじき、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは人を純金よりも、人間をオフィルの金よりも尊くする。
この裁きには、理由がありました。悪、不遜な者の誇り、横暴な者の高ぶり、です。そして、それは人を尊ばない、人間を商品や奴隷やモノ扱いして、人間扱いしない身勝手さに現れていました。この先も描かれる徹底的な破壊の描写は、悲惨すぎて声に出して読めない箇所もあります。けれどもそれは、他ならないバビロンやその他の国々が他の国々にしてきた事でした。容赦ない残忍ぶりで、人を人と思わない支配があったのです。そういう支配を終わらせる、「いや、俺様は安泰だ。特別だ。いつまでも我が時代じゃ」と自惚れる国々は、散々な終わりを迎える。そして、それが目的ではなくて、それまで虐げられて、吹けば飛ぶくらい軽く、価値のないものと見なされてきた人たちが、純金よりも価値あるものとして尊くされるのです。
ところで、聖書を少し学ぶと、バビロンと言えば、エルサレムを攻め落として、ユダの住民をバビロンまで連れて行ったバビロン帝国が思い浮かぶでしょう。紀元前7世紀から6世紀の「バビロン捕囚」です。その七十年後、バビロンはメディアとペルシャ帝国に倒されて、このイザヤ書13・17が成就する、ともいえるわけですが、それはイザヤの時代からは150年も先の話、バビロン捕囚だってまだ100年もあるのです。イザヤの時代、バビロンはまだアッシリアの向こう、東の遠方にあった彼方の帝国でした。でも、そのバビロンを名指しすることから、この13章から23章までの「諸国への宣告」は始まっているのです。
「マイム、マイム」を歌った12章と、この13章からの宣告とでは連続性がないようです。けれど、あの喜びの歌が歌われる前には、11章で諸国の支配から、神がご自分の民を取り戻してくださることが語られていました。エジプトからもアッシリアからも、人々が帰って来る。途中に海や川が横たわっていても、その水を干上がらせて、神はご自分の民を帰らせるのです。その具体的なことが、この13章から23章で、いくつもの国の名前を上げながら語られます。特に最初の13、14章では東の大国のバビロンが、そして結びの23章では西の大国のツロが、という大枠でイザヤは語っています[ii]。その国々の終わりは、主が王となって治める国の始まり、本当に人が尊ばれ、人間が金よりも尊い人間らしく生かされる、永遠の御国の始まりです。
17~20節では、バビロンの最後が容赦なく廃墟にされると断言されます。20節以下には人が住まず、荒野の獣、ミミズクやダチョウ、雄やぎの住処となると言われますが、19節では「神がソドム、ゴモラを滅ぼしたときのようになる」とも言われます。ソドム、ゴモラは、創世記19章の舞台で、神の前に甚だしい罪の町でした。その二つの町の悪を、神は裁きました。
同じく創世記にはその少し前、10章に「バベルの塔」として知られる話が出て来ます。天まで届く塔を建てようとした――神を恐れるより自分たちが神に並ぶものとなろうとする――そういう街を作ろうとしたバベルを見て、神がその高慢な計画を止めさせた、あの物語です。その「バベル」とは「バビロン」と同じ言葉です。また、聖書の最後の黙示録にもバビロンが出てきます[iii]。神を忘れて自分が神のように思い上がる、人間の権力の絶頂を極めた都市が、ヨハネの黙示録で、特に17、18章で「大バビロン」と呼ばれて描かれます。今日のイザヤ書13章の欄外にもあるように、19~22節は黙示録18章の下敷きになっています。そして、その黙示録18章ではバビロンの繁栄をもたらした経済活動のリストがあって、金、銀、宝石…あらゆる嗜好品が挙げられた最後に出て来るのは「人のいのち」です。人間のいのちを売り買いして儲けていた。人間を、神のかたちに造られた尊い存在、値段のつけようのない値高い命とせず、商品化している――黙示録が裁きを予告するバビロンは、そういう国でした。[iv]
黙示録の時代、バビロンはもう滅びていました。遠回しに呼ばれるのは当時の大ローマ帝国です。しかし古代の創世記のバベル、イザヤの時代のアッシリア支配下のバビロン、エルサレムを陥落した新バビロニア帝国[v]、そして1世紀黙示録の時代のローマまで、聖書は「バベル/バビロン」と呼んで、真の神に逆らい、神のかたちに造られた人間を卑しめる国・力を見据えている、見据えさせようとします。そして、黙示録もイザヤ書も、バビロンを初めとするすべての国々、この世界の権力は、神の主権の前に漏らさず裁かれると宣告します。人間の権力とか繁栄、企みを、真の神、真の王である主は裁かれます[vi]。高ぶりを終わらせ、人の本当の価値を回復する神の国が始まる。この事が具に語られるのが13章以下です。だからこそ、今も人間の力や権力、所詮はバビロンのような愚かしい高ぶりでしかない国々を頼りにするな、今この時から、真に頼りに値する方、永遠の王である神、主を信頼しなさい――私たちの人としての価値を回復してくださる方を頼り、この方に強められて、今を生きよ、なのです。
バビロンへの宣告が、特定の帝国、「バビロン捕囚」のあのバビロンだけを指しているのではない、イザヤの時代にあのバビロン(新バビロニア帝国)はまだなかった、という事実は心に深く刺さります。聖書の言葉は、時代を超えて、現代にも響いています。高いビルや富裕層の暮らしが天井知らずに飛躍する一方、未だに人が安売りされ、人として扱われない――人身売買や虐待、労働力と見なされる悲惨な現実があります。人が人を尊ばない、支配しようとし、思い通りにならないと不機嫌になる――そういう人間の横暴さと、バビロンと呼ばれる悪とは決して切り離せないことです。そして神である主は、このバビロン的な国を終わらせて、神の国を始められました。イエス・キリストが来た時、その第一声は「神の国は近づいた」でした。
ピリピ書3章18節「私たちの国籍は天にあります」
これは私たちが天国に行くとのでなく「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」と続く言葉です。今ここで、天に国籍のある者として生きる。私や人の尊さを値引きするバベルの国は滅びる。そんな考えには与せず生きる[vii]。私たちのために来てくださる主イエス、今も私たちを尊いものとして愛してくださる主を待ち望んで、御国の市民として生きるのです。
「主イエス様。創世記の昔から今もなお、あなたに背き、人を値踏みする力、考えはこの世界に深くあります。私たちをそこから救い、バビロンの民ではなく、御国の市民として歩ませてください。主が十字架と復活をもって買い戻してくださった尊さを感謝し、そこに立ち戻らせてください。そうして私たちが、この世界の中で、地の塩、世の光として歩ませてください」
[i] 「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、入らせよ。」神はバビロンに対して新しい敵を起こして、この国を滅ぼすのです。命令は三重です。「はげ山」とは木のない山です。木のない山に旗を立てれば遠くからも見えます。速やかに駆け付ける軍隊に対し、城壁で叫びの声を高くあげます。手を振りながら遠方から来た軍隊を城の中に迎え入れます。「門」は防御の象徴です。 油井、109ページ
[ii] このリストにアッシリアは登場しません。アッシリアの滅亡は、すでに11章までで十分に預言されているからでしょう。
[iii] 「「バビロン」。イザヤはなぜ、歴史のパノラマを、より明らかな候補であるアッシリヤではなく、バビロンを列強の代表として用い始めているのだろうか。第一に、序において見たように(本書二三―二四頁)、バビロンとは、イザヤの時代にはかなり大きな強国であったのである。二度にわたって、メロダク・バルアダンのもとで、アッシリヤの支配に対抗して、独立を打ち立てている。メソポタミヤの諸勢力の中で抜きん出るためには、念入りな政治的判断が必要とされたものと思われる。第二に、イザヤはいつの日にかユダが打ち倒されて散り散りになるということを知っており(6・9-13)、この破壊的勢力がアッシリヤではないということも知っていたのである(8・7-8、30-73章参照)。暗がりの中に暗黒の力があり、自らの時を待っている。定められた時の流れにおいて、その勢力がバビロンであることが明らかにされた。究極的に、バビロンはアッシリヤよりも、列強の候補なのである。第三に、自分自身の力で、神から離れて安全と安定をつくり出そうとする努力は、シヌアル/バベルにおいて始まったのである(創世1・1-9)。従って、どんな名前よりも、バビロンという名は、自分で自分の救い主になりたいという人間の意志を典型的に表している。」、モティア、147〜148ページ
[iv] バビロン=バベル בָּבֶל 創世記10、11章から始まり、黙示録にまで出て来る。創世記10・10(彼の王国の始まりは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。)、11・9(それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。)、ヨハネの黙示録14・8(また、その御使いの後にもう一人、第二の御使いが来て言った。「倒れた、倒れた、大バビロンが。御怒りを招く淫行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた都が。」)、16・19(あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。)、17・5(その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。)、18・2(彼は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンは倒れた。それは、悪霊の住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた憎むべき獣の巣窟となった。」、10(彼らは遠く離れて立ち、彼女の苦しみに恐れをなして、「わざわいだ、わざわいだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言う。)、21(また、一人の強い御使いが、大きいひき臼のような石を取り上げ、海に投げ込んで言った。「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ、もはや決して見出されることはない。」
[v] 「アッシリヤはバビロンを前六八九年に滅ぼしたが(22章を見よ)、バビロンは立ち直った。クロスが占領(前五三九年)したあとも、バビロンは無傷であった。だが、その厄介な存在はダリヨス・ヒュスタスペスを怒らせ、前五一八年に廃墟にされてしまった。それまで、バビロンは残っていたのである。」、モティア、152ページ
[vi] 「その元来の連続性において、諸国民が責任があると覆われる主要な罪は誇りであるように思われる(ハンボルグ)。すなわち、外国の民に対するその託宣は、主としてイスラエルの救済の託宣ではない。むしろそれは人間の誇りと横柄さをこえる神の主権が地上のどの国民にもおよぶということを明らかにする。ちょうど神が人間の誇りと神の栄光ある現存(二-四章)を全く軽視するためにイスラエルを裁いたように、神は独立と自己決定に仰々しい主張をもつすべての国民を含めるために、イスラエルの国境をこえて告発する。」、サイツ、190ページ。
[vii] ピリピ人への手紙3・18〜21:というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。20しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。21キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。