2025/1/19 イザヤ書1章10~12節(10〜20節)「神の庭を踏みつける」
イザヤ書1章には、イザヤ書全体のテーマが凝縮されています。イザヤ書全体のお話はおいおいお話しするとして、まずはこの一章を、来週まで三回かけて、聞いていきたいと願います。
9節で「もしも、万軍の主が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」と、創世記18、19章の背徳の町ソドムとゴモラを引き合いにしました。あのソドムはひどい罪を報われて滅ぼされた。しかし自分たちは違う。今でも生き延びているのは俺たちが正しいからだ、神が守ってくれるのだ――そう勘違いするのを見越したように、10節は続きます。
10聞け。ソドムの首長たちよ、主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民よ、私たちの神のみおしえに。
ソドムよ、ゴモラよ、とハッキリ仇名して、神の御教えを語るのです。それは、その礼拝の間違いでした。
11あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。――主は言われる――わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
イザヤが語る時代のユダヤ人は、決して宗教心に乏しかったわけでもないし、主への礼拝(生贄やささげ物の儀式、犠牲や献金)をしていなかったわけでもありません。多くの生贄(いけにえ)を続けていたのです。しかしそんな建前とは裏腹に、主にとって彼らの生き方は蹂躙だと言われるのです。
12あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭[i]を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。
注意したいのは、生贄や儀式そのものが不要だと廃棄されたのではなく、主ご自身が定めてくださった、大切な儀式であったことです。それは、主の恵みを見える形で受け止め、自分たちの感謝と献身を体で(五感で)表す、幸いな儀式でした。しかし、その儀式に託された恵みや心を忘れて、形式的に儀式さえ捧げていればいい、少しでも沢山の動物を屠れば、神も喜ぶに違いない、と考えるなら、儀式は何になるでしょう。
13もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の招集――わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。
捧げ物も香の煙も、毎月、毎週、折々の集まりも、不義と同居しているので、虚しい、忌み嫌う、耐えられない、と主は言葉を尽くすのです。
14あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。
これとほぼ同じことをイザヤより少し前の時代、預言者アモスも言っています[ii]。しかしそれが改善されないばかりか、今や祈りでさえ主は受け入れないと言われるのです。
15あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
この「血まみれ」は多くの動物の生贄を捧げているより、人に対する暴力、悪事のことでしょう。ここでようやく、主の要求がストレートに明かされます。
16洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ。17善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。」
これでした。主がユダの民をソドム、ゴモラと呼び、彼らのいけにえは空しい、その祭りや安息日が重荷で耐えられない、と言われる理由は。神に向かっての捧げ物や儀式は几帳面に続けられていました。しかし、その生き方はどうだったか。主はそこにある「悪い行い」を忌み嫌っていました[iii]。善や公正が求められず、虐げる者が放っておかれ、孤児や未亡人[iv]、社会的な弱者たち、不利な立場にいる人たちが守られることがない。不公平に目を瞑り、自分たちだけが安泰に守られ、神のご加護を願う…そういう宗教であることを、神ご自身が憎むのです。
神を第一にして礼拝や義務を欠かさない、と言いつつ、隣人や弱者に対して情けを持たない、冷酷で傲慢である…いや、むしろ信心深いこと自体が、自己を正当化する根拠になってしまう。そういう人間の姿を、イザヤ書はひっくり返します。これはイザヤ書に始まったことではなく、聖書の最初から、人間を「神のかたち」に造られた存在とする神のことばの一貫した主張です。
また、イザヤから後、主イエスが来られた時も、神への形式上の熱心さが、隣人や弱者を省みない口実になっていることをイエスは厳しく非難しました。新約聖書でイザヤ書が最も引用されるのはマタイの福音書ですが、その引用は、イエスの時代、ユダヤ人の社会の中で、礼拝が律法主義になっていることを痛烈に批判します[v]。イザヤの時代と本質的には同じ、神を形の上では礼拝しているけれど、その心には人への愛も、神への愛もない、冷たい自己保身だけ。そんな見せかけの「敬虔さ」は、神は憎んで忌避すると、激しい語調で言われるのです。
しかし、人が、悪い行いを取り除いて、善を行うことで、神に受け入れていただける、ということではありません。自分で自分の身を清めたら、神は迎えてくださる、のではありません。
18「さあ、来たれ。論じ合おう。――主は言われる――
来なさい、と言われるのです。「身を清めてから出直して来い」ではなかったのです。主のもとに行くこと、それこそが身を清め、悪をやめ、虐げを正して、困窮者にも目を向けていくための始まりなのです。「さあ、来たれ。論じ合おう」[vi]。論じ合おう、とはただの議論というより、法廷での徹底的な話し合いです。「私たちはたくさんの生贄を捧げています。毎月、毎週、毎日の祭日を守っています」と自己弁護する声もあるでしょう。「公正とか正しいさばきとか困窮者の弁護とか言われても無理だ」と怯む声もあるでしょう。しかし主はただ責めるために言ったのではないのです。
たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
論じ合った先の、罪のきよめが語られるのです。それも、赤は赤でも「緋」や「紅」のような毒々しく赤い罪であっても、それは雪のよう、羊の毛のような、中まですっかり白くされる、という約束です。それは、16、17節で言われた、悪を捨て、他者や虐げに向き合う、という白さです。主のもとに行けば忽(たちま)ちそういう社会に清く変わるわけではありませんが、イザヤ書を通して主が繰り返すのは、現状の罪に対する厳しいさばきと、それだけでなく、将来の大いなる癒しと回復の約束――この両方です。人間は、自分の罪を甘く考え、適当に神を礼拝しているから大丈夫、と一方で慢心し、反対に、自分の罪やこの世界の暴力に恐れをなし、もう自分たちに未来はない、どうせ明日は死ぬのだ、と投げやりになる――その両極の言い分どちらに対しても、主は言います。
「さあ、来たれ。論じ合おう。――主は言われる――あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」
主はこの世界の暴力、不公正、虐げを見ながら、ご自分にいけにえを捧げる信者たちだけに、楽園行のチケットを渡して脱出させる、という神ではありません。世界の悪を嘆き、虐げに怒り、正しい裁きを教える主です。それを忘れた礼拝の参拝者たちに、「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう」と言われるばかりでなく、あろうことか、ご自身の方から、御子イエスという生贄を捧げてくださいました。本当に御心に叶った、最終的なささげ物を、主の側から備えてくださいました。イエスが十字架に死に、復活したことが、私たちのどんな罪をも清めてくれます。それは神に対する罪を宥めるだけでなく、人との関係の罪、不公正、虐待、暴力の構造、そうした現実への諦めの罪をも論破して、覆うほど、大きな福音です。だから私たちは、この礼拝においても、敬虔さの装いを捨てて、こう祈るのです。
「主よ。私たちは善をなすよりも利得を求め、公正よりも損得を考えるものです。虐げをみてみぬふりをし、壊れた家庭の痛みを正しく裁くことを避けます。私たちの礼拝も奉仕も、捧げものも立派な祈りも、クリスチャンらしさも、この罪の埋め合わせにはなりません。私たち自身が、敬虔さの装いの下で、壊れて、痛んで、病んでいるからです。主よ、それをあなたは私たち以上にご存じです。完全に私たちの病い、破綻、迷いを知り、私たち以上に嘆いて耐えきれず、私たちを清め、公正と憐みをもたらし、癒し回復する方です。あなたが捧げた、御子イエスは、私たちの魂を救うにまして、この世界を救い、贖う捧げ物です。どうぞ私たちをその贖いに与らせてください。主の約束された幻に向けて、恵みを注ぎ、私たちを喜んでください」
[i] イザヤ書における「庭」は、42・11(荒野とその町々、ケダル人が住む村々よ、声をあげよ。セラに住む者たちは喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。)、62・9(8主は右の手と力強い腕によって誓われた。「わたしはあなたの穀物を再び敵に食物として与えはしない。あなたが労して作った新しいぶどう酒を、異国の民が飲むことはない。9取り入れをした者が、それを食べて主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭でそれを飲む。」
[ii] アモス書5・21~24:
[iv] みなしごとやもめは、セットで4回、「やもめ」のみで3回使われ、イザヤ書における弱者として繰り返されています:イザヤ書における「やもめ」「みなしごとやもめ」
[vi] ということは、今までは、主の元に来ているようで、来ていなかったのです。神殿に礼拝に来はしても、生贄や儀式に隠して、自分と主の間に距離を置いて、自分を守っていた、ということでしょう。しかし、主が定めた儀式の律法は、そんなものではありません。それは、主が民と本当に深く関わり、私たちを受け入れてくださる、ということを見える形で信じさせるため、体感できるようにするための大事な儀式でした。それは、礼拝者の見えない心と、見えない神との関係を、見える形で確かなものとして確証させてくれる、主からの恵みの備えだったのです。