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2025/1/26 イザヤ書1章21~23節(21〜31節)「忠実な都へと贖われる」

イザヤ書は、紀元前8世紀頃を背景にしています。ちょうど、南北に分裂していた北のイスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた時期です。南のユダ王国は慢心してしまいました。「自分たちは滅ぼされなかったのだから大丈夫だ、エルサレム神殿があり、ちゃんと礼拝を捧げている自分たちを、主は守ってくださるのだ」。そんな思い上がりで、主を礼拝しつつ、社会は不正や暴力が罷り通っていた――そこに主は厳しく語ります。とりわけその非難が、指導者たちに向けられていることが明らかになるのが、今日の箇所です。

21どうして遊女になったのか。忠実な都が。公正があふれて、義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。22おまえの銀は金かすになった。おまえの良い酒も水で薄められている。23おまえの君主たちは強情者、盗人の仲間。みな賄賂を愛し、報酬を追い求める。みなしごを正しくさばかず、やもめの訴えも彼らには届かない。

最後の23節後半は、先の17節の結びと重なります。孤児や未亡人、身寄りのない、社会的にも経済的にも困窮する弱者が顧みられない。これはイザヤ書で繰り返される、主の非難する現実の一面です。そしてその非難の矢が向けられるのは、「君主たち」、指導者層です。国を正しく指導して、とりわけ弱者・困窮者の福祉を心砕いて図るのが為政者の義務のはずです。しかし、彼らが「強情者、盗人の仲間、賄賂を愛し、報酬を追い求める」ばかり。その皺寄せが、対して自分の得にもならない、弱者を正しく裁くとか、未亡人の訴えに耳を貸すとかを後回しにする状態になった。しかし、その隠れた嘆きを、主は聞き逃さず、取り上げて、君主たちの罪として突き付けるのです。[i]

21節の「どうして」は人の死を弔う嘆きの言葉です[ii]。24節の「ああ」も人の死を悼む時の語です。まだエルサレムの都は死んではいません。人が住み、商売が行われ、神殿では滞りなく儀式のルーティンが果たされていました。それでも、主の目にはエルサレムは死に体でした。葬儀の準備が始まろうとするばかりと見えました。同様に、「今は人殺しばかり」というのも、字面通り殺人事件ばかりだとか、全員が殺人に手を染めていた、ということではないでしょう。しかし、積極的に人を殺(あや)めなくても、他者の命、少数者の生活に無関心であるなら同じです[iii]。君主の懐が潤って、貧しい者たちが放置されている。そんなエルサレムであるなら、「金粕」や「水で薄められた」台無し状態、価値は無くなっている、と言われるのです。

24「それゆえ――万軍の主、イスラエルの力強き者である主のことば――ああ、わたしは逆らう者に思いを晴らし、わたしの敵に復讐する。

この「力強き者である主」の「主」は、イザヤ書以外ほぼない特有の名前で、「万軍の主」と合わせて使われる、力強い主権者なる神を現します[iv]。人間の君主が強情で、エルサレムに君臨しているつもりでいても、神こそは万軍の主、力強い王として、逆らう者を退け、復讐を果たすのです。

25わたしは、わが手をおまえに対して向け、おまえの金かすを灰汁のように溶かし、その浮かすをみな除く。

エルサレムの都のメッキの価値を溶かして取り除く、と言われます。しかし、ここでもエルサレムを丸ごと取り除く、とは言われません。かつてのソドムとゴモラと、実質は同じ、不義と蹂躙で満ちていたのに、ソドムとゴモラのように天からの火で焼き尽くす、とは言われないのです。

26こうして、おまえをさばく者たちを以前のように、おまえに助言する者たちを最初のようにする。その後に、おまえは正義の町、忠実な都と呼ばれる。

裁く者とは、イスラエルに王制が引かれる以前、さばきつかさと呼ばれた指導者たちです。彼らが理想的なリーダーだったわけではありませんから、ここには「助言する者たち」も触れられます。決して理想化できない過去ですが、ここではあえて今よりも良かった昔を引き合いにして、王や君主が好き放題に出来るピラミッド型の社会が原初に戻される、と想像させます。そして「その後に、おまえは正義の都、忠実な都と呼ばれる。」と続くのですね。ここまで果たすのが、24節でも出て来た、主の「復讐」です[v]。ただ、主に逆らう者を金粕のように除いて終わり、ではありません。都ごと滅ぼしてしまう、というのでもありません。都が残されて、再建されて、正義が行われ、忠実さが特徴となる。孤児や寡婦の訴えが耳を貸して取り上げられる、そういう都になる――それこそが、主がここで思い描かせている幻です。

27シオンは公正によって贖われ、その町の立ち返る者は義によって贖われる。

これは、主がエルサレムをご自身の義によって救ってくださる、ということが大基本ですが、同時に、エルサレムで公正が実践されるようになり[vi]、正しく義が追い求められる都となる[vii]。その刷新と切り離せません[viii]。決して人間が正しく生きるようになるから、神も勘弁してくださるということではない。それが出来ない人間を、神である主が救ってくださるのです。だからこそ、その救いは、人間の営みの土台となって、公正さ、正しさが形作られていくのです。

イザヤ書は、神を形式的に礼拝しながら、その生活では神ならぬものが神となり、不正が蔓延していることを非難します。その背信は必ず裁かれますが、裁きは滅びと同じではなく、残される者たちがいて、必ず回復されることが約束されます。その確かな、約束された将来が来るからこそ、今ここで不正を捨て、正義を追い求めよ、というのがイザヤ書の主旋律なのです。

56:1公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも[ix]

主の救いが来る。それを迎えるために求められるのは、熱烈な礼拝者になり、一夜漬けでよい行いをすること…ではないのです。この、君主が上にいて、困窮者の声が届かない社会にあって、これを覆して、新しくする神の国に、今、生き始める、私たちの変化です。それを主の言葉は私たちに思い描かせます。この幻を笑って、主のことばを捨てるなら、末路は惨めです。

28背く者と罪人はともに破滅し、主を捨てる者は消え失せる。29まことに、彼らはあなたがたが慕った樫の木で恥を見、あなたがたは自ら選んだ園によって屈辱を受ける。30あなたがたは葉のしおれた樫の木のように、水のない園のようになるからだ。31強い者は麻屑に、その行いは火花になり、二つとも燃えさかり、これを消す者はいない。

樫の木は、頑丈だからでしょうか、その根元で偶像崇拝が盛んだったようです[x]。園も同様です[xi]。しかし常緑樹で、葉が萎(しお)れるはずのない樫の木も、病気になれば枯れていき、潤った園も枯れることがある。どんなに眩しく光るもの、頼りがいのありそうな人や物も、主の手の業であって、主ご自身の代用は務まりません。そして、主は力強く恐ろしいだけの神ではなく、憐み深く、その耳には声なき者の訴えが確実に届き、あらゆる暴力を裁き、その不正がもたらした傷を癒してくださり、人の思いを超えた将来を備え、私たちを変えてくださる真の神です。

これを私たちは簡単に信じられるでしょうか。神の言葉はいつも俄(にわ)かには信じがたいことを語っています。だからイザヤ書は、一章でこの主要なテーマをまとめたことを、この後、65章かけて語ります。全部で66章のイザヤ書です。

因みに、聖書は旧約39巻、新約27巻、合計66巻。イザヤ書も66章で、ちょうど39章に一つの区切りがあるのもユニークなところです。そんな語呂合わせにもまして、イザヤが確かに証ししているのは、主の救いです。「イザヤ」という名前自体、「主(ヤハ)は救い(ヤーシャ)」を繋げた名前です[xii]主は救いである。これがイザヤ書のメッセージそのもの。この「救い」は「解放」のニュアンスで、強情や賄賂、利得を愛する罪からの解放、不正や金粕のような薄っぺらさからの解放、虐げられ「世界はこんなもんだ」と諦める生き方からの解放をしてくださる。そのイザヤの預言を成し遂げるため、来てくださったのが主イエスです。イエスの名前もヘブル語でイェシュア、イザヤとほぼ同じ「主は救い」の意です。本当に、主は救いでいてくださる。その豊かさをイザヤは語り、イエスは現されました。その豊かな贖いに、私たちは正しく嘆き、力強く励まされ、生き方を整えらて待ち望むのです。

「私たちの救いである主。孤児や寡婦の訴えを聞き、不正を厳しく裁き、公正をもって復讐されるとの言葉が、私たちのゴールであり、希望です。この事を落とし込むため、大預言書イザヤの福音書を下さり有難うございます。あなたの公正で私たちを贖ってください。主イエスの心を心とさせてください。私たちの不信、無理解よりも強い、主の救いに預からせてください」

シャガール「預言者イザヤ」

 

[i] 神である主がやもめの味方であることは、以下の聖句でも主張されている:申命記10:18(みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。)、14:29(そうすれば、あなたと同じようには相続地を割り当てられないレビ人や、あなたの町囲みの中にいる寄留者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるであろう。それはあなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。)、16:11(あなたはあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、あなたがたのうちの寄留者、孤児、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所で喜び楽しみなさい。)、16:14(この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。)、24:17(寄留者や孤児の権利を侵してはならない。やもめの衣服を質に取ってはならない。)、24:19 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。20 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。21ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。)、26:12(第三年、十分の一の年にあなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みの中で食べて満ち足りたとき、13あなたは、あなたの神、主の前で言いなさい。「あなたが私に下された命令のとおり、私は聖なるささげ物すべてを家から取り分け、それをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えました。私はあなたの命令を一つも破らず、またそれらを忘れませんでした。)、27:19(「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。)、詩篇68:5(みなしごの父 やもめのためのさばき人は 聖なる住まいにおられる神。)、146:9(主は寄留者を守り みなしごとやもめを支えられる。 しかし悪しき者の道は 主が曲げられる。)、箴言15:25(主は高ぶる者の家を根こそぎにし、やもめの地境を決める。)

[ii] 21節「どうして」エーカー。

[iii] 主イエスも「殺してはならない…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし…兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。…「ばか者」…「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」と言われました。兄弟との不和をそのままに礼拝を優先すれば良いわけではないとしました。マタイの福音書5・21〜26参照。

[iv] 「神に適用されている「アードン」、主権者(または主)という用語は、ほとんどイザヤ書特有のものです(他の箇所では出エジプト記 23:17 [パラグラフ 34:23]、マラキ書 3:1 のみ)。イザヤ書では、この語句は、万軍の主(上記 1:9 を参照)という語句と組み合わせて、脅迫としてのみ使用されます(3:1、10:16、33、19:4)。この2つの語句の組み合わせは、完全な支配、完全な支配力をもたらします。万軍の主である主に逆らうほど愚かな者がいるでしょうか。イスラエルの全能者という言葉が加えられることで、その効果はさらに高まります。」Oswalt

[v] 動詞「復讐するナーカム」はイザヤ書でここのみ。名詞は、6回。救い、恵み、贖いと同義とされていることが分かる: 34・8(それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年だからだ。)、35・4(心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」)、47・3(あなたの裸はあらわにされ、恥もさらされる。わたしは復讐をする。だれ一人容赦しない。」)、59・17(主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。)、61・2(主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。)、63・4(復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。)

[vi] 公正(ミシュパート)は正義の原理の具現化。イザヤ書における「公正」 ミシュパート

[vii] 正義(ツェダカー)は正しい行為の原理。イザヤ書における「義」ツェダカー

[viii] 「カルヴァンとヤングは、シオンが救済されるのは神の正義と義のみであると主張しました。他方では、キサンは、シオンが救われるのは、シオンの正義と義にかなった行動を通してであると主張しました。グレイは、この概念は、1章から39章の大部分を書いたイザヤには馴染みのないものだと考えました。この一節自体から、どちらの方向にも教条主義の根拠がないことは明らかです。誰の正義と義が救済の手段となるのかは示されていません。しかし、より大きな文脈から見ると、正しい答えは「両方」であるように思われます。正義と義に身を委ねない者は救済されませんが、そうする者は救済されます(1:19、20。33:14-16も参照)。同時に、人が神の目に義と認められるのは、神の恵みによる賜物を通してのみです。神はすべての正義と公正の源です(1:25、26。33:5、51:4、5、53:11も参照)。9 この二重の側面を最もよく表現しているのは、おそらく56:1です。「正義を保ち、正義を行え。わたしの救いは近づいており、わたしの正義はすぐに現れるからである。」神が可能にして下さることを人類が選択するときに、回復と贖いが起こります。同じように、神が可能にして下さることを拒む人々、つまり神の律法を犯す反逆者や、人生の真の目標を逸した罪人は、崩壊と破滅しか見いだせません。」Oswalt

[ix] 56・1:主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」。この他にも主なものとして、46・12~13(わたしに聞け、頑なな者たちよ。正義から遠く離れている者たちよ。13わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。)、51・5~6(わたしの民よ、わたしに心を留めよ。わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばきを諸国の民の光と定めるからだ。わたしの義は近く、わたしの救いは現れた。わたしの腕は諸国の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に期待をかける。)など多数。

[x] イザヤ書における「樫の木」は、1・29、1・30の他に、2・13(またそれは、高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、)、6・13(そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」)、44・14(杉の木を切り、うばめ樫や樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。月桂樹を植えると、大雨がそれを生長させる。)、57・5(あなたがたは、樫の木の間や、青々と茂るあらゆる木の下で、身を焦がし、谷や、岩の裂け目で子どもを屠っているではないか。)、61・3(シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。)

[xi] 園ガンナウは、65・3(この民はいつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こす。園の中でいけにえを献げ、れんがの上で犠牲を供え、)、66・17(「自分の身を聖別し、身をきよめて園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉、忌むべき物、ねずみを食らう者たちは、みなともに絶ち滅ぼされる。──主のことば。」)と、偶像崇拝と結びつく。これは、捕囚後に「第三イザヤ」が書かれた、という立場からすれば、捕囚後の帰還民の間に、悔い改める者と背く者との対立が生じていたことを反映しているとされる。

ガンナウの語根ガン(園)は、51・3(まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。)、58・11(主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。)など、肯定的な意味で使われている。

[xii] イザヤ、エシャヤ(歴代誌第一3・21、25・3、25・15、エズラ記8・7、8・19、ネヘミヤ記11・7に登場する)יְשַׁעְיָהは、「主יָהּ」「救いיָשַׁע」からなる語。