2024/12/29 ヨハネの福音書21章15〜19節「あなたがご存じです」
この21章全体がヨハネ福音書の結びです。その中でも今日の、イエスとシモン・ペテロの交わしたことばは、ヨハネが伝えたい、教会の原点を語る箇所です。
15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
「わたしを愛していますか」と問います。それもこの後2回も。以前のペテロは「勿論です。私は他の誰にも勝って、あなたを愛している一番の弟子です」と胸を張ったかもしれません[i]。「たとえ皆が躓いても、私は躓きません」とさえ言ったのです[ii]。しかし、そう言い切った数時間後にペテロはイエスのためにいのちを捨てるどころか、イエスとの関係を、三度も否定してしまいました。胸を張って誇った自分のプライドが砕け散る経験をしました。その後、復活して再会したイエスが、今、三回「あなたはわたしを愛していますか」と問われた時、それはペテロが三回イエスを否定したことを思い出させたでしょう。
ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
この人たち以上に、と比較や自慢はもうしません。また「あなたがご存じです」と言います。「あなたを愛しています」とも言えませんし、かといって「あなたを愛しているなどとはとても申せません」と卑しむのでもない。愛する気持ちはある、でもそれは脆く、頼りない。そのすべてを、私以上にあなたがご存じです、なのです。更に、15節に欄外に注があり、イエスが「わたしを愛していますか」と言ったのは「ギアガパオー」、ペテロが「あなたを愛している」と言ったのは「ギフィレオー」とあり、違うギリシャ語なのです。その二つともイエスはご自分の愛に使いますから[iii]、二つに優劣とか大きな違いはありません。でもペテロはイエスの言葉をそのまま返しません。ここにもペテロが今までの、競争心むき出しや自意識過剰なところが砕かれたことが伺えます。「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
イエスの子羊、つまり牧者であるイエスの民、信徒たちと小さな子羊に準えて、彼らを養い、食べさせ、世話をさせるように、いうのです。イエスはペテロに、初代教会の使徒たる働きを任じます。しかしそれはすぐ、ペテロの派遣式とか彼個人の権威、という話にはなりません。
16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。
もう一度、イエスは問うのです。「あなたはわたしを愛していますか。」ここに立ち戻らせるのです。諄い程に、イエスはペテロに、ご自分への愛を呼び覚まそうとします。更に17節、
イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と…。
流石(さすが)にペテロの心は穏やかではありません。
ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
ペテロが心を痛めたのは、三度の問いに、自分が三度イエスを否んだことを思い出したから、でしょうか。しかし、そのペテロにイエスが問うたのは、何よりもご自身への愛でした。イエスを三度裏切ったことへの後悔や反省でもなく、それを償うための献身とか覚悟でもなく、ただ
「わたしを愛していますか」
と問われました。そして、
「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」
という応答の言葉を引き出しました。それはペテロの心を痛めることを伴いました。痛むほど深い心の奥底にイエスは触れて、ペテロに求めるのが、働きの成功でも、見える成果でもなく、ご自分を愛する事だと思い起こさせました。そして、ここに立ち戻り続ける事から、イエスの羊を牧すること、教会における牧会、育成の働きがなされ得るのです。
ペテロは、いや私たちは誰もがイエスを知るまでは、働きとか有能さ、秀でた見える成果に価値を置きます。
この箇所について書かれた本に『イエスの御名で』があります[iv]。その本は、マタイ四章でイエスが公生涯の前に荒野で受けた誘惑と、今日の箇所を重ねます。イエスは荒野で、石をパンに変える力や、神の言葉を試すこと、権力を得ようとする誘惑、その三つの試みと戦います。それは、この世界で染み付いている、能力、競争、コントロールの発想を映しています。そして神だって私たちに敬虔さとか、奉仕や犠牲、「上手なお祈り」とか魅力的な証しや「伝道の実」を求めているに違いない、と思い込んでいます。そうした声を退けたイエスが、その働きの結びのここで語ります。「あなたはわたしを愛していますか。」
この問いに「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」とならペテロは言えました。イエスはペテロを愛して、ペテロのうちに、イエスを愛する思いが芽生えていました。それがどんなに小さく、今は燻り、これからも脆いとしても、それも含めてイエスはすべてをご存じです。ペテロに、ただご自分を愛することを求め、能力を求めたり、立派な捧げ物で喜ばせようとするよりご自分を愛することを語ります。これを忘れると、指導者は自分の能力を求め、称賛を得るために、リーダーとして成功しようとするでしょう。「わたし(イエス)の羊」がいつのまにか「自分の羊」だと間違えてしまうでしょう。ペテロが立ち戻るのが「わたしを愛していますか」であった――「わたしに仕えますか」でも「わたしのために何でもしますか」でもなく「わたしを愛していますか」であった――三度も繰り返され、痛いほど心に刺さって生涯の原点となった、この会話がここに刻まれています。
任される群れが「わたしの羊」であるだけではありません。ペテロ自身、主のものです。
18まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
ヨハネの福音書が書かれた時、既にペテロは殉教の死を遂げ、亡くなっていました。だから、この言葉の意味は、振り返ってどういう意味だったのか、ヨハネも読者たちも知っていました。
19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
ペテロの最期についてはいくつかの伝説がありますが、若い時なら望まなかったような死に方だったこと、でもその死に方で神の栄光を現したということです。イエスご自身、十字架という、誰も望まない死を遂げました。人が考える栄光とは真逆の死でした。そのイエスに従うということは、ペテロも若い時から憧れて望んでいたような栄光の道とは違う、神の栄光を現す生涯を全うする、ということです。ペテロは、他でもなく「わたしを愛していますか」との御声を聞き、ペテロ自身のではなく「わたし(イエス)の羊」を牧することに召され、若い頃に描いた望みとは違うイエスに従い、神の栄光を現す最期を示されました[v]。
こう告げられたペテロが、初代教会の中心的リーダーとなり、主イエスの羊の群れである教会が始まりました。誇りたかった自分の希望を砕かれ、愛するイエスの言葉に心が痛まずにはおれないペテロが、赦され、赦し以上の務めを任されて始まった教会です。その教会は、今も牧師や長老、執事、立てられたリーダーが
「あなたはわたしを愛していますか」
と言ってくださるイエスだから、この務めに当たれる者たちです[vi]。今年の年間聖句は
十五12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」
でした。この年末、どんな思いでしょう。足りなさ、後悔、痛みがあるでしょうか。その私たちをイエスは迎え、まずこっちに来て食べなさいと言われます[vii]。その後、私たちに言われるのです。「あなたはわたしを愛していますか」。この不思議な言葉だから私たちはここにおれるのです。
「主よ、この一年、あなたの愛と恵みの中で歩んできました。望みとは違うこと、出来るものなら拒んだ道も通りながら、今を迎えています。主に従う道が、薔薇色ではなく、私の思いを超えて、心痛む旅であるとしても、そこでこそ、あなたの愛の中に新しくされる道です。私たちがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。心痛みつつ、こう言える幸いを感謝します。今みことばにより養い、赦し以上の恵みによって、すべての教会を整えてください。」
[i] ヨハネの福音書13・37。
[ii] 「あなたのためならいのちも捨てます」と勇ましかった彼です。マルコの福音書14・29。
[iii] 「アガパオー」と「フィレオー」のヨハネにおける用例は、こちら。
[iv] ヘンリ・J・M・ナウエン『イエスの御名で』、後藤敏夫訳、あめんどう、1993年。
[v] 「神の心を知っていますか?人々を牧する働きに任命する前、イエスはペトロにこう尋ねました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛していますか?」。もう一度、尋ねました。「あなたはわたしを愛していますか?」。そして、三度目も尋ねました。「わたしを愛していますか?」。この問いは、キリスト者すべての働きの中心に位置するものとして耳を傾けるべきです。それは、私たちの存在の中核を形成し、同時に、この世に無視されようと、自信にあふれる者にしてくれる問いです。イエスを見てください。この世は、イエスに何の注意も払いませんでした。イエスは十字架刑に処せられ、排除されました。その愛のメッセージは、力と効率と支配を求めるこの世から拒否されました。しかしそういう中で、栄光の体に傷を残したまま、見る目と、聞く耳と、理解する心をもった数名の友に現れました。拒否され、名もなく、傷ついたイエスが、単純にこう問われました。「あなたはわたしを愛していますか?本当にわたしを愛していますか?」。神の無条件の愛を告知することだけに心を傾けた方が、ただ一つだけの問いを私たちに投げかけています。「あなたはわたしを愛していますか?」。この問いかけは、できるだけ多くの人にあなたを印象づけなさい、できるだけ多くを成し遂げなさい、何かの結果を示しなさい、という意味ではありません。そうではなく、「あなたはイエスに心を奪われていますか?」ということです。別な言い方をすれば、「受肉なさった神を知っていますか?」ということになるでしょう。孤独と絶望で満たされたこの世界は、赦し、ケアし、手を差し伸べ、いやしたいと願う神の心を知る男性と女性を大いに必要としています。その心とは、疑いも、悪意も、恨みも、憎しみのかけらもない心です。ただひたすら愛のみを与え、その応答としての愛を受け取ることだけを願う心です。人間が負っている痛みの大きさを見て、また、慰めと希望死と闇は克服されたをもたらす神の心に信頼しない人々を見て、苦悩する心です。将来に求められるクリスチャン指導者は、肉体をとられた神の心、つまりイエスの内にある「肉の心」を真に知っている人です。神の心を知っている人は、つねに変わらず、徹底的に、とても具体的に、神は愛であり、愛でしかないことを告げ知らせ、明らかにする人です。また、恐れ、孤立、絶望が人間の魂を蝕むとき、どのような場合も、それは神からのものでないことを告げ知らせる人です。こうしたことは単純過ぎ、ありふれていると思えるかもしれません。しかし、何の条件も限界もなしに自分が愛されていることを知る人は、ほんの少ししかいないのです。」『ナウエンと読む福音書』、151〜152ページ
「私は、その旅をする備えができているだろうか。自分の持つあらゆる力を手放し、握り締めたこぶしを開き、まったくの無力さに秘められた恵みに信頼する用意があるだろうか。私には分からない。本当に分からない。」前掲書、153ページ
「もろさ、不確実さの新たな段階を受け入れる私にとってこの聖書の言葉は、ハーバードからラルシュに移動するのを助けてくれました。それは、クリスチャン・リーダーシップの核心に触れるものであり、ときに応じ私たちに、力を手放し、イエスの謙遜な生き方に従う、新しい道を語ってくれます。世間はこう言います。「若かったときは、他人に頼るほかなかったので、行きたい所に行けなかった。しかし年を重ねれば、自分で自分のことを決められるし、自分のしたいようにすることができる。自分の運命を思うようにすることができる」。/しかし、イエスは人間の成熟について異なった見方をしておられます。それは、自分なら行きたいと思わない場に導かれることを受容する能力と意欲を持つことです。イエスは、ペトロをご自分の羊の指導者に任命したあと即座に、人々に仕える指導者は、見知らぬ、望みもしない、苦痛でしかない場に導かれるという、厳しい真理を突きつけました。/クリスチャン指導者が歩む道は、この世がふんだんに力を注ぐ上昇の道ではなく、十字架へとつながる下降の道です。それは、病的で自虐的だと見られるかもしれません。しかし、初めの愛の声を聞き、それ対して「はい」と答えた者にとって、イエスの下降の道は、喜びと神の平安へと向かう道です。それは、この世のものでない喜びと平安です。/ここで、将来におけるリーダーシップに求められる、最も重要な資質に触れます。それは、力と支配によるリーダーシップではなく、神の苦難の僕であるイエス・キリストの内に明白となった、無力さと謙遜さによるリーダーシップです。もちろん私はここで、自分の置かれた環境に左右され、受身的な犠牲者となる心理的弱さを持つリーダーについて語っているのではありません。そうではなく、私が言いたいのは、愛のためには絶えず力を放棄するあり方のことです。それこそ、真の霊的なリーダーシップです。/霊的生活において無力であり、謙遜であるリーダーとは、ひ弱で、何でも他人に決断してもらう人のことではありません。あまりにイエスを愛しているがゆえに、イエスの導く所ならどこであろうと従う用意があり、そこにイエスと共に命を見いだし、しかも豊かに見いだせると信頼し続ける人のことです。」前掲書、153〜154ページ
[vi] 「神は、私たちの答えを待っておられると言うことができるでしょう。じつに不思議な仕方ですが、神は私たちに依存しているのです。神はこう語っておられますます。「わたしは無防備でありたい。あなたの愛を必要としています。わたしの愛を受け止めて欲しい」。私たちの愛を求め、私たちがそれに「はい」と言うのを願っているという意味で、神は嫉妬深いお方です。これこそがヨハネの福音書の最後で、イエスがペトロに三度「わたしを愛していますか」と尋ねた理由です。神は私たちの応答を待っておられます。人生は、それに応答するための機会を絶えず提供しています。」『ナウエンと読む福音書』151ページ。
[vii] 先日、ヨシタケシンスケ展で「神様から言われたくない言葉。何度もチャンスをあげたでしょ?」というメモを見かけました。