2024/11/10 ヨハネの福音書20章11〜18節「私は主を見ました」
ヨハネの福音書20章は、イエスの復活を伝えます。弟子たちが復活したイエスに出会った、その出会いを通して、イエスの復活がどういうものだったかを教えるのです。当時にしては非常識なのは、最初の復活の目撃証人が、マグラダのマリア、つまり一人の女性とされることです。この頃、女性に証言能力はないとされ、男だけが証人になれたのです[i]。福音書は、事実イエスが出会ったのはまず女性だったと伝え、更にこのマグダラのマリアとの出会いに、イエスの復活がどういうことだったのかが、美しく、優しく、豊かに語られているのです。
11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、…
マグダラのマリアのことは、ルカの福音書8章2節で
「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と言われるマリア」
と出て来るだけで、詳しいことは分からず、四つの福音書が揃って記す通り、この復活の記事に出て来ます。謎めいただけに、後々の人々が色んな憶測や伝説を膨らませましたが、実際は、苦しい過去をイエスに助けられたとわかるだけです。でもここで墓の外で泣いている姿に、マリアがイエスに抱いていた感謝、愛が現れていますね。イエスの墓に来た事、石が取り除けられていると気づいたら走って帰り、弟子たちに知らせ、また戻って来て、弟子たちは帰ったのにここで泣いている…。ここにマリアの心を見るようです。
…そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
どれほど泣いていたか、ふと墓を覗き込んだら、御使いが二人座っているのが見えたのです。さっきペテロとヨハネが出て行った後、いつのまにかそこに座っている、というのもビックリです。そもそも聖書では御使いの登場は常に恐れを呼び起こします。でも、マリアは恐れたり、腰を抜かしたりしません。泣き止みさえしません。
13彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
マリアにとっては、御使いを見たよりも、イエスのからだがどこかに行ったことの方が大事でした。悲しみが、驚きに勝ったのでした。そして泣き続けながら、こう答えたのでした。
14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
分からなかったのは、泣き腫らしたために目が霞んでいたせい、ではないでしょう。ルカ24章のエマオ途上の顕現でも、この後21章4節でも、復活のイエスとの出会いでは、分からなかった事が常でした。今の体と、復活しての朽ちない体とは繋がっていて、違っています。連続性と非連続性の両面があります。復活のイエスが分からなかった、というのは、その非連続性、違いでしょう。
しかしその違いというのが、ピカピカに、輝かしく、というのではないのがまた大事な所でしょう。分からないままイエスは彼女に問うのです。
14…「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
この墓がある園の管理人だと思った、というのは、そういう身なりだったのでしょうか。当時の職業としては極貧しい身分のものだったそうで、イエスの復活の体が栄光や後光が指す、人間が思いがちなものではなかった、とも言えます。むしろ倹(つま)しく、何かを運んだばかりにも見える汚れた姿だったのでしょうか。まだ泣き続けているマリアは、これが本当の園丁だったら嚙み合わないお願いをします。「私が引き取ります」というのも、どうやって引き取るつもりなのか、深く考えてはいないでしょう。ともかくマリアはまだ悲しみの海の中にいるのです。
16イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。」
イエスが彼女の名前を呼ぶ、その声でマリアの心の目が開かれます。マリア、と呼ぶイエスのあの深い響きです[ii]。私の名を呼ぶあの声! その声でマリアもイエスを呼びます。
ヘブル語でラボニ、すなわち先生
とわざわざ書くのは、マリアがいつも「ラボニ」と呼んでいたからでしょう[iii]。イエスが「マリア」と呼んでくださる、その主へ「ラボニ」と呼ぶ。その会話は、マリアには特別だったのでしょう。勿論、イエスが「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と言った時も、その声だけで気づけたら良かったのかもしれません。でも信仰は100%、主の恵みです。イエスが
「マリア」
と呼ぶ時がその時でした。
「なぜ泣いているのですか」
と問うた時はまだその時ではなかったのです。マリアが泣いていることを重ねて11節で描いて、御使いたちも、イエスも
「なぜ泣いているのですか」
と問うて、ヨハネは泣いているマリアを浮き上がらせます。御使い二人とイエスの言葉も、泣く必要がないと言いたいのではなく、マリアが泣くことを留めず、その理由を汲み取っての言葉でしょう。マリアはなぜ泣いているのでしょう[iv]。もうイエスがいなくなったからです。自分を
「マリア」
と呼んでくれるあの声を聴けなくなったからです。私の名前も個人情報も、暗い過去もすべて知り、かつ、知りもしないことを想像したりもしない、私のすべてを私以上に知っている方が、深い深い愛をこめて私の名を呼んでくださる。その関係が終わり、その亡骸さえ踏み躙られたと思ったから泣いていたのです。そしてその声がもう一度、マリアを呼んで、マリアは「ラボニ」と慣れ親しんできた呼び方で、でも今までにない驚きと新しい響きで呼ばずにおれないのです。
その呼びかけに
17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。…」
もう離すまいと引き留め、別れの悲しみの前に戻ろう、というノスタルジーを窘めるのです[v]。ああ、生きてて良かった、と後ろ向きでなく、復活は新しい時代に踏み出すのです。
17…わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
イエスはここまで神を大胆にも「わたしの父」と呼んできました。それがここで初めて、弟子たちにも
「あなたがたの父でもあり、あなたがたの神でもある方」
と言われます。復活したイエスは、弟子たち一人一人にも神との親しい関係、ご自分が永遠にお持ちである関係を下さいました。十字架と復活はそれを果たしたのです。そのことを伝えなさい、とマリアに言われます。
18マグラダのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」
マリアは「使徒たちへの使徒」となったのです。
マリアが特別にイエスを愛したから復活の主と最初にお会いした、とマリアを美化することはありません。マリアの言葉を聞いても信じず、弟子たちから離れて、エマオへの道に脱落しようとした二人をも、イエスは追いかけてくださったのですから[vi]。イエスの復活は、信仰のエリートに、輝かしい姿で現された、日常とかけ離れた出来事ではありませんでした。むしろ、泣いている女性に、園丁のような姿で近寄り、名前を呼び掛ける出来事でした。失敗し意気消沈した弟子たちにも告げ知らされる新しい知らせでした。ご自身、十字架の苦難と死を知り、暗い墓の中でひっそりとよみがえったイエス。その知らせを最初に任されたのは、七つの悪霊という、私たちが体験したことのない、安易に想像することを躊躇わなければならない深い暗闇から救われた、それ以外にほとんど何も知られていない女性、マグラダのマリア。泣き腫らした目がまだ赤いうちに、「私は主を見ました」と伝えたのが最初の復活の知らせでした。
「主イエスの父なる神。御子が私たちにも、あなたを私たちの父、私たちの神と呼ばせてくださいました。生きる戦い、死の深淵、私たちが今泣いている理由も、私たち以上に味わい知りたもう主。そして、死を命に至らせ、夜に朝を備え、涙に力を与えたもう主の御名を崇めます。あなたに名を呼ばれる喜びで満たしてください。私たちにまだ十分見えなくても、主は復活し、生きて働いておられます。私たちのこの週の働きも涙も、主よ、あなたのものとしてください」
[i] もしキリストのよみがえりが教会のでっち上げだったら、最初にイエスに出会ったのが女性たちだった、などという筋書きは捨てられたでしょう。
[ii] 「その見知らぬ人は、最も親密な友として自らを示しました。マグダラのマリアは、その見知らぬ人が自分の名を呼んだとき、自分の主であることに気づきました。この気づきは、単によく知っている人を認めるということより、はるかに大きな意味がありました。それは何年もの間、毎日の暮らしの中で耳を傾け、話し、食事し、喜びやつらさを分かち合って深まってきた、いく久しい親密な関係の再発見でした。
今日は、イエスとマグダラのマリアが出会った場面の聖書朗読に耳を傾けました。二人名前で呼ばれることの互いの間には愛がありました。イエスは言いました。「マリア」。彼女はイエスに気づき、こう言います。「ラボニ(先生)」(ヨハネ20・16)。この単純で、深い、心動かされる物語は、「知って欲しい」という願いと同時に、そのことへの恐れがあることに気づきます。イエスがマリアを名前で呼んだとき、誰もが知っている名を口にした以上の意味が込められています。彼女の全存在に呼びかけたのです。イエスはマリアを知っています。彼女のこれまでの歩みを知っています。すなわち、その罪と美徳、恐れと愛、苦悶と希望を知っています。心の隅々まで知っています。知らないものは何もありません。マリアが自らを知る以上に、さらに深く、さらに完全に知っておられます。ですから、イエスからその名が発せられたことは、とても深遠な出来事なのです。マリアは、はっとして気づきます。自分を真に知っている存在が、自分を真に愛してくれている、と。
頭からいつも去らない思いがあります。それは、最も深く隠し持っている私の考えや感情を含め、もし人が私の内のあらゆる部分を知ったとして、それでも本当に私を愛してくれるだろうか、ということです。自分が愛されているのは、まだ知られていない部分があるためではないかと、ときどき疑います。私に注がれる愛は、条件つきではないかと恐れ、「もし皆が本当の私を知ったら、愛してくれないだろう」と自分に言い聞かせます。しかし、イエスがマリアの名を呼んだとき、その全存在に呼びかけました。そして気づきます。自分を最も深く知っているお方は、遠ざかるのでなく、近づいて来て、無条件の愛を差し出すお方なのだ、と。
マリアの応答は「ラボニ」、つまり「先生」でした。ここから、マリアはイエスを自分の真の師としたいこと、自分の全存在の師としたいこと、すなわち、思考と感情、情熱と希望、最も深く隠し持っている感情においてさえも師としたいという願望が聞き取れます。
彼女がこう語っているのが聞こえます「こんなにも私のすべてを知ってくださる方よ。来てくださり、私の師であってください。私の中の何一つ、あなたから離れたままでいたくありません。心の最も深いところに触れてください。私があなただけのものになるために」。この出会いの瞬間が、どんなにか大きないやしをもたらしたか分かります。マリアは即座に、自分はことごとく知られ、この上なく愛されていると感じました。もはや知られても大丈夫な部分と、隠したほうがよさそうな部分の区別は存在しません。すべてがイエスの目にさらされながら、その目は赦しと憐れみと愛、そして無条件の受容の目であることを知ります。
ここに、この単純素朴な出会いに、真の信仰的な瞬間を見ることができます。すべての恐れは消え、すべてが愛になりました。そして、次のイエスの言葉以上に、それをよく言い表したものはありません。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と」(ヨハネ20・11)。ここにはもはや、イエスとイエスの愛する人々との違いはありません。イエスが楽しんでおられる御父との親密さの中に、人々を含めています。同じ家族に属し、神にあって同じ命を共有しています。
完全に知られ、しかも完全に愛されるとは何という喜び!イエスを通して神のものとされ、そうあり続けることができ、しかも完全に守られ、完全に自由でもある喜び。」ナウエン、141〜142ページ。
[iii] ラボニ < ラビ רִבּונִי
[iv] 参照、まだ暗いうちに(ナディア・ボルツ=ウェバー説教)
[v] 以前は「さわってはいけない」と訳され、そんな絵・彫刻も多くあります。触ることも禁じたようなイメージがありますが、「すがりついていけません」です。
[vi] ルカの福音書24章13節以下。特に、23節を参照。