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2024/10/12 ヨハネの福音書19章31〜37節「まぎれもなくイエスは」エゼキエル書36章25〜26節

前回30節で、イエスは「完了した」と言われて頭を垂れ、霊を明け渡し、確かに亡くなっりました。ですから今日の所は、イエスが死んだ後、死んだからこそ起きた出来事です。

31その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、…

当時のイスラエルでは、日没から日没までが一日であり、土曜日が安息日です。今でいえば、金曜日に日が沈んだら安息日が始まり、労働はしてはならない、というのがユダヤ人の宗教生活でした。そのために金曜日――木曜日の日没からが「備え日」として、安息日の前に必要な片付けや出来ることをしておくわけです。加えてこの時は「大いなる日」と呼ばれる、過越祭の初日と安息日とが重なっていました。律法の中、申命記21章22~23節に、磔の処刑をした場合も

「死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない」

とあります[i]。ですからここでも

「…ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た」[ii]

「脚を折って」というのは、十字架で苦しんで弱っていた死刑囚が、体を支えている足を木槌や棒で折って支えられなくすることで、死を早める措置です。長引く苦しみを終わらせる面もありますが、やはり痛ましいことです。それをして、三人の十字架を取り降ろして、「大いなる安息日」を迎えられるようにしてほしい、と願ったのです。そこで兵士たちは両脇の犯罪者の脚を先に折り、死なせました。ところが

33イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。34しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。…

と言うのです。ここに34節が声を挙げます。

34これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。

この言葉は、この福音書を書いたヨハネが、自分が目撃したことを証言している、という語りでしょう。イエスの脚が折られかけたのに、折られなかったこと、それでも兵士の一人がイエスの脇腹を槍で突き刺したこと、すると血と水が出たこと。この出来事を、ヨハネは改めて、大切な出来事として、自分がその目撃証人だとわざわざ出て来て、解説をする。更に、

36これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、37また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。

二つの聖書の言葉を、ヨハネは思い出させるのです。二つ、といってもぴったりの言葉が一つずつあるのではありません。欄外にあるように「彼の骨は、一つも折られることがない」は、出エジプト記と民数記で、過越の祭りで子羊を食べる時には、その骨は折ってはならないことを命じています[iii]。ヨハネは最初からイエスを「神の子羊」と呼んできましたが、過越の祭りの子羊の骨が折られてはならないように、イエスの脚も折られなかった。他の二人がされたようにイエスもそうされるはずだったのを、兵士はそれをしなかった――ここにイエスがまことの子羊であることをヨハネは重ねているのです。

もう一つの「彼らは自分が突き刺した方を仰ぎ見る」は、ゼカリヤ書12章10節とあります。

 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。

ここには、やがて主なる神が、頑なな人間のために「恵みと嘆願の霊」を注いでくださって、神を仰ぐ。それは、栄光に輝く神との出会いというよりも、「自分たちが突き刺した者」である神、自分たちが知らず神に歯向かい、横柄に神に刃を向け、突き刺すような思いをさせてきた神を仰ぐ、という預言でした。その上、その時に抱く思いは「一人子を失って嘆くかのような激しい嘆き」を抱く。言い訳がましくとか、逃げたりせず、深く嘆ける。これは「恵みと嘆願の霊」が注がれたからこその応答です。しかしそれに先んじて、イエスが槍で突き刺された。物の例えや比喩表現として、神を突き刺してきたというのでなく、本当にイエスが突き刺されました。だからやがてイエスがおいでになり、私たちが仰ぐ時、その脇腹には槍で刺された跡があるのです[iv]。それは私たちのために、主が刺し通され、本当に死なれたことの傷なのです。

兵士たちがイエスの脚の骨を砕かずに素通りにしつつ、一人が槍でイエスの死体を突き刺したという、痛ましいけれどもたまたま起きたような出来事に、ヨハネはこのような聖書の言葉を思い起こさせられました。だからこそ、35節で改まって

「これを目撃した者が証ししている」

と書き込んだのでしょう。加えて、突き刺された脇腹から

「血と水が出て来た」

こともヨハネは書き残しています。これは医学的に、血と血漿が分かれていたことだ、と説明されることもあれば、医学的にあり得ないから奇蹟だ、と反論されることもあるのですが、いずれにせよ兵士たちは気にもしなかった一方、ヨハネはこれを本当に自分が目撃して証言している、と言いますね。医学的には普通のことであったにしても、血と水と言えば、聖書では血は罪の償いを、水はきよめと新生を表します。また前回もイエスが

「わたしは渇く」

と言われた通り、水や渇きはヨハネの福音書で繰り返されてきたシンボルでした。ここでイエスの脇から出た血と水は、イエスが私たちの罪の代価を完全に支払い、いのちの水が湧き出るように確かにしてくださる保証です[v]

4・14わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

35節の「真実」という言葉は、以前6章32節でイエスが「天からのまことのパン」と言ってご自分を語った時の言葉です。それはイエスが本当に小麦粉と水をこねて焼いたパンだ、ということでなく、人にとっての糧である方、パンが示している意味の根源であり目的である方、という意味でした。ここでの「真実」も、起きた出来事の真実性以上に、その見えない背後にあって本当に何が起きたか、という意味での「真実(真理)」なのです。イエスは、私たちのためのまことの子羊として死なれ、その血と水によって私たちの罪を贖い、いのちの水できよめて潤してくださる。これはヨハネの確かな証言です[vi]。そして「それは、あなたがたも信じるようになるため」です。これは「信じ続ける」というニュアンスで、未信者が信じるためというより、信者たちが信じ続けるため。しかも「あなたがたも」という通り、実際に目撃した私が証しすることで、私(ヨハネ)が信じ続けてきたのと同じように読者(あなたがた)も信じ続けるようになるため。それぐらい今日の箇所は、心の目に焼き付けて、思い巡らす価値のある、大事な証言です。

彼らが見ていた「大いなる安息日」の翌日、日曜日、イエスはよみがえらされようとしていました[vii]。復活抜きに教会は始まりませんでした。でも、ヨハネはあえて、復活前のこの時点で言います。

「これを目撃した者が証ししている。それはあなたがたも信じ[続け]るようになるためである」

と。十字架でイエスが「完了した」と霊をささげた後、今日の所で起きた出来事を思いましょう。その真実の意味に、信仰を呼び覚ましていただきましょう。イエスが本当に十字架で死んだという、歴史的な事実は、私が頭だけで信じたり疑いに彷徨(さまよ)ったりする時、それを仰いで信仰へと引き戻される拠り所、命綱です。本当に主は死んで一粒の麦となりました。主の脚が折られなかったのは、私たちの過越の子羊だった証しです。槍で刺されたのは、やがて私たちが主を仰ぐ時に分かる、主の惜しみない慈悲の証しです。血と水が出たのは、私たちの罪の赦しと新しいいのちを頂いたことの、生き生きとした保証なのです。

「聖なる神様。あなたは人を眠らせて、その脇から女を造られたように、死の眠りについた御子の脇から、血と水を流れさせ造られた私たち、教会です[viii]。この確かな御業の中にあることを覚えて、感謝いたします。信じ続けるため、十字架を見た証言が備えられてあることを有難うございます。死や終わりのように思えて絶望したくなる時も、あなたの真実が進んでいる。そのことに立ち戻らせてください。そして、私たちをも主のいのちの証しとならせてください」

[i] 申命記21・22~23:ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、23その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。

[ii] これは総督ピラトやローマにとっては関係ないことで、十字架にかけた犯罪者は何日でもそのままにし、通る人々の見せしめにしていたようです。しかしユダヤ人にはそういう感覚はありません。

[iii] 出エジプト記12・46(これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。)、民数記9・12(そのうちの少しでも朝まで残してはならない。また、その骨は折ってはならない。すべて過越のいけにえの掟のとおり、それを献げなければならない。)

[iv] 20章24~29節で、弟子のトマスは、イエスの手に釘の跡を見て、イエスの脇腹に手を入れてみなければ信じない、と言い張りました。その後、トマスにも現れたイエスは「手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と突き刺された脇腹をもって、ご自身であることを印とする。それが出来たのは、イエスが本当に脇を槍で突き刺されたからでした。

[v] へブル人への手紙9・19(モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、)、10・22(心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。)、Ⅰヨハネ1・7(もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。)、5・6(この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。)

[vi] 「私は、以上の三つが共にこの節で言及されている事柄であって、どれか一つだけではないという意見にはっきりと傾いている。これら三つはいずれも非常に注目すべき事柄であり、ひとりの信心深く理解力のあるユダヤ人の心を深く感動させ、しかも短時間に続けて起った事柄であるので、ヨハネは三つとも自分の目で見たということを強調しながら記録している。彼はこう言っているようである。「私は、神の小羊の骨が一本も折られず、したがって主が過越の予表を成就されたということを、自分の目で見た。私は、槍が主の心臓に突き刺さり、主が真実のいけにえであり、本当に死なれたということを、自分の目で見た。また私は、血と水が主のわき腹から流れ出たのを見た。それで私は、罪のための泉が開かれるという古い預言が成就したのを悟った。」私たちは、これら三つの事柄がみなすばらしく重要であるということを考える時、ヨハネがこの節を記すようにと霊感されたことに驚く必要はない。ここで彼は読者に、自分が真実以外の何も書いていないこと、そしてすねが折られず、わき腹が突き刺さ血と水が流れ出たという三つの事柄を実際に自分の目で見たことを、力を込めて告げている。」ライル、『ヨハネの福音書講解4』、いのちのことば社、322ページ。

[vii] このきっかけは大いなる安息日の前に、十字架の汚れた死体など片付けよう、という考えでした。その申命記21章23節の続きはこうです。「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない」。イエスの十字架の死こそ、すべての汚れを終わらせ、主が私たちに罪も死も全くない永遠を相続地として与えた業でした。この日は本当の「大いなる安息」の始まりに向けての「備え日」でした。

[viii] アウグスティヌスは、最初のアダムが眠っている間に、エバが肋骨から造られたことを、この出来事の予表と見る。ライル、320ページ。