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2024/9/29 ヨハネの福音書19章23〜27節「結ぶために裂かれた」

イエス・キリストが十字架にかけられたとき時のことです。

23節「さて、兵士たちはイエスを十字架につけると…」

で始まる今日の箇所は、兵士たちがイエスの服を分けたことと、イエスの母と弟子への言葉のことを伝えます。次の28節は

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると…

と、もう完了した最後の締めくくりの話になります。つまり、今日の箇所は、ヨハネが伝える、十字架の時間に起きたすべてなのです。ここには十字架の残酷さも、人間たちからの罵りも記されません。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」

の祈りも[i]

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

の叫びも[ii]割愛されます。その代わりがこの二つの記事なのです。

23さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。24そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」

兵士たちはイエスを十字架にかけると早速、その服を戦利品として分け合います。上着を縫い目に沿って裂いたのでしょう。四つに分けて各自に、ですから兵士は四人だったのでしょう。死刑囚の所持品は兵士たちの戦利品となるのが習慣だったとはいえ、これらを分け合う兵士たちも貧しかったのだろうな、と思ってしまいます。そして残った下着は、一枚布の、縫い目のないものだったのでくじ引にします。そんな、兵士たちの取り合いを、ヨハネはこう言います。

4…これは「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。」

この言葉は旧約聖書の詩篇22篇18節です[iii]。詩篇22篇は

「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになるのですか。」

で始まり、この言葉をイエスが十字架上で叫んだとマタイとマルコは伝えます。その22篇には十字架刑の描写や、イエスの十字架を予見したような情景が出て来ます。ここではイエスの衣を分け合い、くじ引きにしたことが、詩篇22篇にあった言葉はここに成就したのだ、というのです。

イエスがここで黙ったまま、兵士たちが好き勝手にしているように見えます。その時も、彼らがしたことは、聖書の預言の成就でした。見えない形で、神の不思議な支配の御手が着々とすべてを運んでいたのだ、ということを聞き取りましょう。イエスが十字架に衣も、人としての尊厳も、何もかも奪われて、十字架に身動き取れなくされている時も、キリストを通して成就されるべきご計画は、細部まで成し遂げられていました。これは、私たちが弱い時、無力で、何も出来なくてもどかしい時も、神が御業を必ず進めている、という希望でもあります。

ここで下着が

「上から全部一つに織った、縫い目のないものであった」

という言葉に、大祭司の祭服との共通点を見出したり[iv]、キリストの完全さを読み取ろうとしたりした伝統もありますが、今はそんな深読みはヨハネの意図とは言い切れないと慎しまれるようになりました。しかし、それでもこの「裂かないで」おくことになった一枚布の下着には、摂理的な守りや意味を重ねてしまいたくなるような、メッセージを感じてしまいます[v]。17章でもイエスは自分の最期を前にしながらも、父に祈ったのは、弟子たちを「一つにお守りください」という願いでした。信じる者が一人も失われないように、と祈った言葉がここにも思い起こされるのです。それが深読みだとしても、次の出来事は、明らかに主が人々を一つにする御業の始まりです。

25イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。26イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。27それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

イエスの母が十字架の傍に立っています。マリアという名前ではなく、イエスの母、です。2章のカナの婚礼でも「母」と呼ばれました。その母が今、わが子イエスの十字架の下に立っている。これを伝えるのはヨハネだけです[vi]。神の子イエスの母としてのマリアの生涯は、どんな一生だったのでしょう。恵みでもあれば、ルカ2章35節で老人シメオンが預言した通り、心を剣で刺されるような連続でもあったでしょう[vii]。わが子イエスが十字架に苦しむのを見て、何も出来ずに立つ。どんな心地でいたでしょう。その母をイエスは愛する母として見つめます。その傍に立つ弟子を、イエスは愛しています。その弟子もまた、イエスの愛を受けながらこんな時が来るとは信じていなかった自分の鈍さへの後悔とショックで立ちすくみ、イエスの母にもかける声を探しあぐねていたでしょう。その弟子と母とを愛をもって見つめながら、イエスは母に

「ご覧なさい。あなたの息子です」

その弟子に

「あなたの母です」

と言うのです。

この弟子が誰かというのも諸説あるのですが、一番自然なのは、この福音書を書いたヨハネ本人という理解です[viii]。だとすると、ヨハネはこの後、母を自分のところに引き取ってから、この福音書を書くまでの半世紀、どこの時点でか、イエスの母マリアが亡くなるまで、どんな時間を過ごしたのでしょうね。ヨハネはそのことには触れず、そっと

「自分のところに引き取った」

と記すに留めています。多くの恵みや祝福もあったでしょう。また、息子が十字架につけられた母の心刺し貫かれた悲しみに向き合い、寄り添いながらも自分がイエスの代わりにはなれないもどかしさも覚えたかもしれません。イエスの母を引き取ったヨハネは、マリアの世話だけでその後を静かに暮らしたのではありません。使徒として伝道をし、方々に旅をし、島流しにされ、この福音書を記したとされます。その実際がいつまでどんな形で重ねられたにせよ、確かなのは、イエスの十字架の下で、彼らの人生は新しい関係に変わり、今までと違う人生が始まったことです。親子ではない二人が母と息子とされ、それ以来、家族として生きた二人の人生は、それまでとは違うものとなりました[ix]。ヨハネは十字架の時間にあった他の多くの出来事を削って、この母と弟子への言葉を特筆して私たちに伝えています[x]

十字架のイエスを思うたびにヨハネの目に浮かぶのは、苦しんだり天を見上げて祈る姿より、自分を見つめ、自分の隣に立つ人を「ご覧なさい、あなたの息子です」「あなたの母です」と言われるイエスでした。その言葉をヨハネは生涯、聞き続けて、ここでこの言葉に集中します。ヨハネの十字架は、イエスが私たちを新しく結び合わせる場です。隣にいる人、教会で出会う人を、イエスは新しい家族として引き合わせます。決して「家族だと思いなさい」と命じたのではありません。またその後、この弟子と母はいつまでも幸せに一緒に暮らしましたとさ、という童話でもありません。これは始まりであり変化です。結婚や親子、家族とは出発であって、幸せのゴールではありません[xi]。教会は、イエスの十字架の前で、自分の罪や心を露わにされた者同士が、互いに主にある家族として出会うのです。理想を押し付ける関係ではなく、問題も限界もあるがままに、主が結び合わせた、全く新しい家族。お互い、イエスの十字架が必要な者として出会わされたからこその、深いつながりがあります。

そのように私たちを結び合わせるため、神の子イエスが父から引き離される人生を送りました。下着は裂かれませんでしたが、イエスご自身は下着を取られて丸裸で、十字架に裂かれました。私たちが引き裂かれないために、イエスは手も心も引き裂かれました。そのイエスは、悲しみをもって御許に来るすべての人を、愛をもって受け入れ、決して引き裂かれることのない交わりを下さいました。私たちが互いに兄弟姉妹と呼び合えるのは、この主にあって、です。

「わが神、わが神、あなたが私を見捨てたかと思う時も、主は私とともにおり、その痛みを通して、深いお取り扱いを進めています。そして私たちをも主にあって一つとしてくださいます。御子、主イエスの十字架によって果たされた恵みのなんと大きく深いことでしょうか。どうぞその御業に与らせてください。私たちの目も心も開いてください。共に生きるための愛と知恵を求めさせてください。そして私たちの交わりの中に、あなたの栄光を現してください。」

[i] ルカの福音書23章34節。

[ii] マルコの福音書15章34節、および、マタイの福音書27章46節。

[iii] 彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。(詩篇22篇18節)

[iv] 参考、レビ記21章10節。

[v] 「裂かないで」と同じ言葉は、21章で復活のイエスがガリラヤに表れた時、湖に網を下ろしたら大漁の魚で、網を引き揚げることが出来ないほどいっぱいだったけれど、「それほど多かったのに、網は破れていなかった」と出て来ます。また、同じ19章33、36節には、死んだ後のイエスの足が折られなかったことが注目されます。裂かれたり破られたり折られたりしない、という強調は、イエスが逮捕された時に、弟子たちを去らせるよう兵士に告げて、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」に重なります。イエスは、私たちを一人も失わないこと。イエスの国を引き裂くことは誰にも出来ないこと。悪が笑っている時、人には無力にしか見えない時も、神の不思議な力は働いていて、キリストの救いは破られることがないこと。そんなテーマがここにも読めるのです。

[vi] マタイ27章55~56節(また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。56その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。)、マルコの福音書15章40~41節(女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。41イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。)、ルカの福音書23章49~55節(しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。…55イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。)

[vii] ルカの福音書2章34~35節:シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。35あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く[直訳:貫き続ける]ことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

[viii] ヨハネの福音書21章20~24節、参照。

[ix] ヨハネの説教でもある手紙では「私の子どもたち」「子たちよ」と繰り返して呼び掛けます。それは、原点に、十字架の主イエスが「ご覧なさい。あなたの息子です」と言った言葉があり、その時から始まった、マリアを引き取った生活の年月があったでしょう。

[x] これこそ、17章で繰り返して祈っていた「彼らを一つとしてください」の始まりなのです。

[xi] これを勘違いすると家族という関係は重荷になり得ます。「普通の家族」という理想が目の前にいるその人よりも愛されて偶像になって、父や母や子どもがいびつな関係を作ってしまうのです。