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2024/8/4 ヨハネの福音書18章28〜32節「潔癖な人々の罪」

「使徒信条」には、イエスの母マリアと、ポンテオ・ピラトという二人の名前が出て来ます。教会の長い歴史で繰り返し世界中で唱えられる、最も多く呼ばれるローマ総督ポンテオ・ピラトが今日のヨハネ18章に登場します。

28さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。

実は他の福音書では、大祭司カヤパの下での裁判が詳しく書かれているのですが、ヨハネは割愛しています。裁判といっても既にイエスの有罪・死刑が決まっていた、茶番に過ぎなかったからでしょうか[i]。ヨハネはそれよりもピラトの動きに紙面を割きます。ピラトはローマから派遣された歴史上の人で紀元26年から36年までユダヤの総督でした[ii]。臆病で冷酷、ユダヤの統治には失敗して解任されます。このピラトが、イエスとユダヤ人たちとの間を右往左往するのが、19章の16節辺りまでです。

28…彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。29それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。…

総督官邸の前で待つユダヤ人と、連れてこられて中にいるイエスとの間を、ピラトが出たり入ったり、往復を繰り返す。何度「出て来て」いるか数えてみると、この動きが感じられるでしょう[iii]。ピラトはイエスに自分の内側を探られて、イエスの無罪を確信し、釈放しようと努力さえするけれども、最後はイエスを十字架につけるために引き渡す[iv]。こういう緊迫感でハラハラするようなやり取りが、始まっていくのです。今日の箇所はその始まりです。

さてそもそもこの時、イエスを訴える人々がイエスを総督官邸に連れて来たのは、処刑判決を下させるためでした。31節に

私たちはだれも死刑にすることが許されていません。

と死刑執行権のことが触れられます。ユダヤは当時ローマ帝国の属州という立場で、完全な自治には程遠く、重税を払い、ローマ兵が常駐し、住民登録や勅令には屈しなければなりません。死刑執行もローマの許可なくして出来ない。実際には、使徒7章のステパノの石打、使徒21章でのパウロのリンチ未遂などのケースもあり、曖昧な部分ではローマ総督も目を瞑ったようです。しかし公式には、ローマの刑事判決が必要で、イエスの敵はそれを願ったのでした。

けれどもそんな敵意、悪意を抱きながら、総督官邸の中には入らない。それは、過越の食事が食べられるようにするため、異邦人である総督官邸に入って汚れることを避けようとして、という、なんとも皮肉な、矛盾した理由なのです。異邦人との食事を禁じる規定が律法にあるのではありませんが、律法は汚れた動物の料理や、きよい動物であってもその血を十分抜かないままでの料理とか、死体に触れないとか、様々な汚れを禁じる規定を持っていました[v]。また、この過越の祭りでは、一週間は家のどこにもパン種があることが禁じられていました[vi]。そうした規定を知らず、気にもしない異邦人との食事はそのまま汚れと見做されていたのです。しかし、そうした規定は、神が内面の聖さを求めさせるために定めた、「実物教育」であって、イエスは当時の宗教者たちの儀式偏重、形式主義を痛烈に批判しました。細かな規定を守りさえすればいいとして、自分自身の罪や問題、愛のなさ、貪欲を省みない偽善を非難しました[vii]。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。[viii]」こう言われて腹を立てた人々が、ここでもまたイエスへの憎しみや妬み、不正な手段をも厭わないのに、総督官邸に入って汚れることを忌避しています。それでいて「汚れ」だと忌避しているはずの官邸から出て来てもらい、その手を借りてイエスを殺させよう、というのもおかしな話です[ix]。そして、出てきたピラトとはこう会話します。

29…「この人に対して何を告発するのか。」30彼らは答えた。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」

何を告発するのか、という質問には答えないで、こんな返事で死刑の許可を忖度させようとする。引き渡した以上、悪いことはしているのだ、死罪に値するのだけれど、それを執行できないのは、あんたたちローマのせいじゃないか、という強引さです。因みにこの「告発」という元のギリシャ語は日本語にもなっているカテゴリーの語源、カテーゴリアです。この人はこういう人、あの人たちはああいう人、という仕分けをしてしまうことに通じます。ここで彼らはハッキリとイエスの何を告発するのか、答えることは出来ませんが、もう自分たちの心ではイエスは死刑に値する輩というカテゴリーが出来ている。私たちも自分が「あの人はああだから」と見られるのは嫌なくせに、人に対しては決めつけをやらかしがちではありませんか。

 31そこで、ピラトは言った。「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」ユダヤ人たちは言った。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」」こうしてユダヤ人の無責任で身勝手で矛盾した思惑の中で、イエスはローマ総督に引き渡されます。そして、「32これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。

とヨハネは書き添えるのです。

イエスがどのような死に方をするかは、今までヨハネの福音書で繰り返されて

「上げられる」

という表現で言われてきました[x]。十字架はこの「上げられる」死に方でした。十字架はローマの処刑方法です。ユダヤの律法には十字架刑はなく、冒涜罪に対する死刑は石打ちでした。ユダヤ人が裁いていたら十字架刑にはならなかったのが、彼らの優柔不断、責任転嫁でローマ総督が噛むことになり、イエスは十字架に、つまり、上げられる形で死ぬ、と言われていた言葉が成就したのです。勿論、石打よりも十字架の方が楽だったとか、格好良かったわけではありません。上げられるといっても、聖画が描くような何メートルも高々と掲げられた光景は大袈裟な美化です。実際の十字架は地上から足が30㎝ほど浮き上がるぐらい。ほぼ目線で、苦しみ悶える姿を晒し続ける、忌まわしい死でした。異邦人は十字架に上げられたイエスを仰いで胸を打たれるどころか、十字架の救い主なんて全く信じがたい躓きでした。しかしそのような悲惨極まる死を、イエスが引き受けてくださいました。何の告発されるべき非のないイエスが、十字架に死なれたこと――その上げられた姿は、イエスが語っていた通り、惜しみなくご自身を与えられた死に方です。そして、それがユダヤの律法にはない十字架だったことは大祭司たちがピラトに押し付けた無責任さ、汚れを避けると言いながら汚れた相手を利用し、侮られているような偽善ぶり、形式主義・儀式主義、神を恐れることのない姿によるものでした。

過越の祭りはかつてイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出された解放の記念です。でもそれだけであれば、その過越の食事を食べられるようにと汚れに触れまいとしながら、心や生き方は、妬みや憎しみ、歪んだ欲望に囚われたままでしかありません。そこに来られたイエスは、そうした人間の心の闇、冷たい罪、偽善の行き着いた死、十字架に上げられたのです。

そしてイエスはそのご自分を覚えるため、教会に聖餐式を与え、今私たちはパンと杯を前にしています。パンを(少しだけ)高く上げて、裂くのを見るのは、イエスが十字架に上げられ、死なれたことを覚えての形です。このパンと杯を食べられるのは、私が汚れを避けたから、罪が少ないから、正しいから――そして、そんな自分が悪人だと決めつけ、ざまあみろと思う人がいることは別だと切り離している。そう思っていませんか。主イエスは、私たちをそんな見せかけから救うために、十字架に死にました。そして、その死は私たちの罪悪感を逆撫でするだけの死ではありません。イエスは弟子たちの前で裂いたパンを弟子たちに差し出して言います。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」「飲みなさい。これは新しい契約です。罪を赦すため(手放させるため、解決するため)流されるものです」[xi]

「主よ、何一つ、告発されるような悪のないあなたが、私たちのために罪人の汚名を厭いませんでした。私たちの心や人生の中に入れば汚れてしまう、とは思われずに、私たちに近づいて、ともに歩み、心を照らしてくださいました。どうぞその恵みの光の中で、自分の罪、偽善、言葉と生き方の矛盾に気づかせてください。人と自分を見る目を、あなたの眼差しに近づけてください。今からいただくパンと杯の糧を、聖霊が聖別して、私たちを養ってください。」

[i] マタイの福音書26章57~68節、マルコの福音書14章53~65節、ルカの福音書22章54~71節、参照。

[ii] 「ピラトはユダヤの第5代ローマ総督(紀元26-36年)であり、カイサリアの碑文には彼が総督であったと記されている。ローマの属州制度では、平和な属州は元老院の管轄下に置かれ、ローマ軍の駐留を必要とするより治安の悪い属州は、皇帝に責任を負う行政長官によって統治された。ヨセフス(JW 2.169-74; 175-77; Ant. 18.87)は、ピラトが愚かにもユダヤ民族の敵意をかき立てた3つの別々の事件について書いている。ローマに呼び戻され、サマリア人虐殺の罪で有罪判決を受けた後、ピラトは自殺した(エウセビオス『伝道史』2.7参照)。」マウンス、Google翻訳による。

[iii] 33節、38節、19章4節、9節、13節。

[iv] 18章38節「私はあの人に何の罪も認めない。」、19章12節「ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、」、16節「ピラトは、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡した。」

[v] レビ記7章26~27節(また、あなたがたは、どこに住んでいても、鳥でも動物でもその血をいっさい食べてはならない。27いかなる血でも、これを食べる者はみな、自分の民から断ち切られる。)。また食べてはならない動物と食べてよい動物とのリストは、レビ記11章など。また、死体による汚れについては、民数記9章6節以下に具体例があります。

[vi] 出エジプト記12章15節「七日間、種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである。…19七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。すべてパン種の入ったものを食べる者は、寄留者でも、この国に生まれた者でも、イスラエルの会衆から断ち切られる。」

[vii] だからイエスが来て、完全な生贄となってくださった後は、使徒ペテロに幻で示された通り、どんな動物も「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と変わったのです。使徒の働き10章9~28節。

[viii] マタイの福音書23章25節。また、マルコの福音書7章21〜23節「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

[ix] ルターは、「主イエスを裁いたのは聖人たちである」と言いました。加藤、5、9ページ。自分たちは聖き者、神の聖さに生きている者だから、神を信じない異邦の者たちなどには触れたくない、とうそぶいている聖い者たちによって、主イエスは裁かれて殺されたのだと言います。しかも、その汚れた者の代表ピラトを利用することによって、そうしたのです。ピラトにへつらうことによってです。

[x] ヨハネの福音書3章14節(モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。)、8章28節(そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。)12章32、33節(わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」33これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」)、など。

[xi] 完璧な鏡(ヨハ18:1-19:37) -宗教オンライン (religion-online.org)